刻まれた恐怖
仄香はやはり涼しい顔をしている。世間話をするような軽い調子で口を開いた。
「わたしは修也くんを殺してないよ」
「そんなこと言ったって、もう否定の余地はないんだ」
「じゃあ、もうひとつご自慢の推理を聞かせてほしいな。わたしはどうして修也くんを殺したの?」
犯人が確定した以上、動機を論じることにこれといった理由はないし、人の心を理詰めで暴き出すなんて傲慢な行為だと思う。でも僕は、真相を推理していく過程でひとつの結論に至っていた。
「君には動機があった。ちょっと飛躍した論理かもしれないけど、これで説明がつくと思う。……仄香って、鏡が嫌いなんだよね」
「うん。みんな、信じてなかったみたいだけど」
弱点コレクションを使った実験の際の出来事がヒントになった。あのとき仄香は「手鏡が怖い」と部室を出ていったが、その態度が冗談半分といった調子だったので、部室に充満したニンニクの臭いから逃げる方便だと思っていた。
しかし、実情は違っていた。仄香は本当に鏡を恐れていたのだ。
倉庫の二階にあった、タオルで隠された姿見――タオルを固定したガムテープは真新しかった。本物の〈浅永朔〉の手によって復活した仄香が、壁に固定してある姿見を嫌がって隠した――〈浅永朔〉はそう話していた。
「でも、カオリはそんな素振りを見せなかった。鏡を見ることに抵抗がなかったんだ」
倉庫襲撃の夜、僕はカオリの髪を切って汚れを落とすのを手伝った――コルクボードに嵌まった鏡の前で。その直前にもカオリは鏡を覗きこんで髪を確認していた。鏡を恐れるどころか、身だしなみに気を遣う普通の女子高生らしく鏡を存分に使っていたのだ。
鏡を恐れる仄香、鏡を恐れないカオリ。
「どうして仄香とカオリのキャラクターが違うんだろう、って考えてみたんだ。もとは同一人物なのに、たった六年で仄香の中には鏡を恐れる心が芽生えた。確かに君は、お母さんが亡くなったりとか、叔父さん夫婦に引き取られたりとか、普通の女の子よりはハードな六年を送ってきた。それでも鏡を恐れるって性格は生まれない気がする。劇的な変化がもたらされたからには、そのきっかけも劇的で強烈なものだったはず」
――人間といわず吸血鬼といわず、思考するやつらは小さなきっかけで変わるんだよ。
「それは君が生成される直前に起こった。〈沼〉から引き揚げられたあと、君は腹を刺されてる――自分とそっくりな顔をしたカオリに」
僕は一卵性双生児だから、自分そっくりの人間が目の前にいることに慣れている。しかし、一人っ子の仄香にとって、鏡に映したように同じ顔の少女の出現は、到底容認できるものではなかったに違いない。
突然現れた「自分」は、彼女の幼い精神に深刻な傷を与えた。
そして、肉体にも。
「自分自身に刺し殺されるっていう強烈なイメージは、再び〈沼〉に落とされたことによる記憶の混乱の中で、新しく誕生した君に恐怖を植えつけた。君が恐れているのは鏡じゃなくて、鏡に映った自分自身――その恐怖は、人を殺すことに対する強い憎悪と結びついた」
ふふっ、と仄香は小さく吹き出した。
「すっごい飛躍だね。表現も大袈裟だし」
「まあね。だけど考えられないことじゃない。だって仄香は一度死を経験してるんだ。死んでいく人間が何を思うのかって話には諸説あるけど、他人に殺された人間ならきっとこう思う――人殺しは許せない、って」
「だったら、わたしは人を殺せないはずじゃないの? 矛盾してるよ」
――自分を殺した人間に復讐したいっていうのは自然な感情だよ。
ネイの復活に賛成して仄香はそんなこと話した。仄香は人殺しを憎む一方、心のどこかで殺人を認めているのだ。
この奇妙な論理のねじれは、ある思想を仮定することで筋道が通ったものになる。
「人間による殺人は認めないけど、〈沼の人〉による殺人は許す。なぜなら〈沼の人〉は絶対に殺されないから。死を克服して人間を裁くことを許された存在だから――はっきりと言葉にはしてないだろうけど、君はそういう思想を持つに至った」
人を殺した人間は殺されなければならない――それが仄香の信じる、シンプルな物差し。
「嫌な言い方。それだとわたし、異常思想のテロリストみたい」
「言っておくけど、君のやったことはテロリスト並みに卑劣な行為だ。どうして君に殺されたのか、修也にはたぶん最後までわからなかった」
「どうしてわたしは殺したの?」
「修也が人殺しだったからだ。中一の夏、剣崎大毅を氾濫した川に落とした」
剣崎の死に加担したのは倫明も同じだが、仄香には〈沼の人〉を裁く気はない。
「実際のところ〈沼〉の中で生き続けてたんだけど、長いあいだ剣崎は死んだことになっていた。君も修也を人殺しだと認識していたけれど、修也を失うのは僕たちにとって大きな損失だったから、断罪は五年間保留されてきた。ところがある日突然、修也の処罰を行わなきゃいけない事態が訪れたんだ」
七月十八日、終業式の日。
「修也は僕たち四人にこう伝えた。おまえたちを救う手立てがあるから、放課後部室に来い、って。召集を受けたときはそんなふうに曖昧な言葉だったかもしれないけど、部室で君と二人きりになったとき、修也は彼の探し当てたものが〈黒の女〉の居場所だと明かした。殺意が生まれたのはこのときだ」
仄香はもう口を挟まず、静かに僕の話を聞いている。
「修也はよくこんなことを言ってたね。おまえたちと同じ身体になりたい、って。僕たちの境遇への同情から出た軽い冗談というか、ちょっとブラックなジョークとしか考えてなかったけど、ひょっとしたら修也にも僕たちへの憧れが少しはあったのかもしれない。だからこそ、これまで親身になって世話を焼いてくれたし、どんなときもずっと近くにいてくれた。だけど君にとって、修也の言葉は許しがたいものだった――今、この場で殺しても構わないと思うくらいに」
仄香は、修也の放つ「ジョーク」を字義通り受け止め、こう考えた。
〈黒の女〉を捜しているのは、僕たちと同じ身体になるためだ。
修也は不老不死になりたがっている、と。
「修也は純粋に僕たちを助けたかっただけだ。少なくとも僕はそう信じてる。だけど、修也を裁くべき罪人だと見なす君にとっては、それは脱獄行為に他ならなかった。人を殺したくせに、不死を手に入れて勝手に罪を逃れようとしてる。不死になる前に裁かなければならない、って考えたんだろう。僕たち全員が集まれば、そのまま〈黒の女〉のもとへ行く流れになってもおかしくない。そうなったら修也を裁くチャンスは永遠に失われる」
だから、殺した。
突発的でありながら極めて冷静に。
事件を整理していく中で、僕は違和感を覚えていた。衝動的に殺したと思われる状況なのに、なぜ犯人は背後から頸動脈を切断し、しかも返り血を浴びないように配慮しているのか。まるで冷酷なヒットマンじゃないか、と。
仄香は自分の物差しに則って、あくまで理性的に殺人を犯したのだ。
「以上だけど――これで合ってる?」
仄香は手を後ろに組んで、七人の顔を順繰りに眺めた。
「……なるほどね。こんなに大所帯で集まったのはわたしを逃がさないためか。別に、犯人だって認めるつもりはないけど、人を誤解させるようなことを言う修也くんも悪いよ。あの日部室で、わたしに何て言ったと思う?」
ほんの少しだけ表情を歪めて、仄香は告げた。
「これで俺も仲間外れじゃなくなるな、って言ったの」
濁流に落ちそうなクラスメイトを救うため、河原に二人を投げ飛ばした修也。葬式で倫明を追及してきた万由里を黙らせるため、初対面の彼女にキスをした修也。
修也は目的に適する手段を選ぶのが下手だった。
僕たち四人が人間に戻ることを祝福するその言葉は、まったくの正反対に誤解されてしまった。もっと他の言い方があったはずなのに、照れ隠しで回りくどい表現をしてしまったから――
そのとき、何かが破裂するように怒声が響いた。
「あんたかっ!」
カオリだった。仄香に食ってかかる勢いで足を踏ん張っているが、ワイヤーがぎりぎりと悲鳴を上げるだけで一歩も近づけない。身体を隠したタオルを赤くまだらに染めながら、歯を食いしばって叫ぶ。
「お母さんを殺したのはあんたかっ! この人殺し!」
まさか――
最悪の想像が頭を駆けめぐる。
まさか、修也の死は氷山の一角に過ぎなかったのか?
僕はカオリに近づいて肩を押さえ、心臓が身体からすっぽ抜けるのを阻止した。
「落ち着いて話して。どうして仄香がお母さんを殺したと思ったの?」
ゆっくり話しかけると、カオリは我に返ったように身体の力を抜いた。
「……お母さんは自殺するような人じゃない。どんなことがあっても絶対に。わたしが人間じゃなくなった程度で精神を病むなんて、ありえない。お母さんは誰よりも強くて、誰よりも残酷だったから」
虐待されてたの、とカオリは続けた。
「お母さんはわたしを苛めるのが大好きだった。身体は痕が残るとまずいから、心をじわじわと痛めつけた。クローゼットに何時間も閉じ込めたり、何日も朝ご飯を出さなかったり、わたしの描いた絵を目の前でびりびりに破ったり――真冬にベランダで一晩過ごしたときは風邪引いちゃって、そのときだけはものすごく心配して世話してくれたけど、基本的にわたしはいたぶって楽しむおもちゃでしかなかった」
脳裏によみがえるのは幼い仄香の姿。
あの無邪気な笑顔の裏に隠されていたものに僕は気づけなかった。何年も――長いあいだすぐそばにいたのに。
ショックで動けなくなった僕の頭の中を、手綱の外れた思考が駆け抜ける。
仄香の母親はアパートの五階のベランダから飛び降りた、と大人たちが葬儀で話していた気がする。五十川仄香が〈沼の人〉に入れ替わって一ヶ月後の出来事だった。娘の変化を母親が知らなかったとすれば、犯行は十分に可能だ。
仄香はよくベランダに締め出されていたという。ここから飛び降りると母親を脅してベランダの端までおびき寄せ、不意をついて襲いかかり、自分の身体ごと突き落とす。五階分落下したあとは一人で逃げ出せば、「飛び降り自殺した女の死体」ができあがる。
信じたくはないけれど、仄香ならやり遂げるだろう。
「でも、殺すなんて考えてもなかった。だってお母さんが大好きだったから。わたしが苦しくてもお母さんが幸せならそれでいいって……またお父さんがいたときみたいに優しくなってくれたらって……」
徐々に小さくなっていく声。カオリは母親の仇に強いまなざしを向けていたが、やがて脱力して膝をつき、黙ってうつむいた。タオルから覗いた細い肩が震えている。
そんな自らの分身を一瞥して、甘すぎる、と仄香は吐き捨てた。
「何であんな女の言いなりにならなきゃいけないの? わたしを――わたしたちの心を殺した女を」
人の心を虐げることを殺人と呼ぶのなら、仄香にとって母親は、裁くべき人間の一人でしかなかった。
「身体のことを隠し通すのも限界だった。もしそれをあの人が知ったらどうなったと思う? これで身体に傷が残らなくなったって喜んで、行為をもっとエスカレートさせるに決まってる。そんな苦しみに耐えろっていうの? あの地獄からまんまと逃げ出したあなたに、わたしを責める権利があるっていうの?」
「何を言ったって……絶対に許さない」
「あなたに許してもらおうなんて思ってな――」
仄香の言葉が不自然に途切れたのは、倫明にいきなり突き飛ばされたからだ。転倒してドラム缶に頭を打ちつけた仄香は、容赦なく胸を踏みつけられた。
倫明は自然な仕草でナイフを取り出し、逆手で構える。
「おまえが親を殺そうがどうだっていい。……おい貴司、こいつが修也を殺したのは確かなのか?」
「あ、ああ……」
「おまえは何でこいつを止められなかった?」
「俺にはどうすることもできなかった。部室に入ったときにはもう、修也は――」
そうか、と倫明は呟いて仄香の上に屈みこんだ。「朔、悪いな」
「何が?」
「俺の復讐につき合わせちまって」
「君のために犯人を捜したんじゃない。修也の仇を討ちたいのは、僕も同じだから」
「犯人が許せないのはあたしも同じ」万由里は冷ややかな目で床の少女を見下ろしている。「正直、あんたたち人外は全員許せないけど、こうやって決着をつけてくれたことは感謝してる」
話はまとまったというように、倫明が声を張り上げた。
「全員一致だな――ってことでおまえを処罰する。半永久的に封印だ」
仄香は小さく唇を噛んで反論した。
「わたしが消えたら、叔父さんはすぐに捜索願を出すから警察が動く。修也くんの事件や六年前の失踪事件との関係を掘り返したり、あなたたちの身辺をあら捜ししたりするかもしれない。わたしたちが必死に隠してきたことが全部明るみに出る。それでもいいの?」
「何言ってんだ? 仄香はここにいるだろうが」
倫明はナイフの先端をカオリに向けた。
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