唯一の解法

「まず、修也がどうやって殺されたのかを考えたいと思う」

「それも回り道じゃないの」

万由里は出鼻を挫くようなクレームをつけた。

「先に犯人を特定して、それから手段を吐かせたら?」

「紗寧子も言ってたけど〈沼の人〉に拷問は通用しない。外堀から固めないと、言い逃れされてうやむやになる」

「つまり、あんたたちの中に犯人がいるってことね」

「犯人は〈沼の人〉以外にあり得ない」

 僕は断言した。頭の中で推理はすでに煮詰まっていたので、この場に殺人犯がいるという宣言に気後れを感じることはなかった。


「犯人は、椅子に座った修也の首筋をカッターナイフで切り裂いた。一番背の低い倫明でも首のあたりなら手は届くし、ここまでは誰にでもできる。カッターナイフを拭いて修也の指紋をつけるのも簡単だ」

 問題なのは、部室から脱出した方法だ。

「みんなも知ってるように、あの部室は中から施錠されて密室状態だった。修也が首を切り裂かれたあと、犯人を逃がしてから内側から鍵を締めた、というのはあり得ない。鍵を締めればクレセント錠やドアノブに血が付着するはずだし、床にも広範囲に血が落ちる。僕の見た限りでは、血痕は修也のまわりにしか落ちてなかった。そもそも修也がそんな不自然な動作をしていたら、警察はまず他殺の可能性を探ったはずだ。現場が密室じゃなかったということになるからね。でも事実として、警察は自殺だと結論付けた。つまり、部室は完全な密室だった――常識的に考えれば」

 非常識の塊である〈沼の人〉が関わっていれば、話は別だ。

「犯人は〈沼の人〉以外にはあり得ない。僕の考える方法だと、ここから脱出できるのは〈沼の人〉に限られる。だから、すべての人間は容疑から外れる」

「人間が共犯ってことはないの?」

「それも可能性としては薄いと思う。これは衝動的な犯行だ。トリックの性質上、協力者は〈沼の人〉の存在を知ってる必要があるけど、犯人が誰かに〈沼の人〉の存在を教え込んで協力させる時間はなかった。だから、頼れる相手は修也か世渡さん――修也はさっき話した通りで、世渡さんにはアリバイがある。よって、人間の協力者はいない」

 ああそっか、と万由里が頷く一方、倫明は口を尖らせて反論した。

「世渡にアリバイがあるのか? おまえに話しかけるまで空白期間があったはずだろ」

「それが、あったんだよ。世渡さんは――」

「あたしは浅永に頼み事があったから、機会を窺ってたの。それでホームルームのあとの浅永の行動を詳しく説明できる。その内容は浅永に確認済み」

 と、万由里が代わりに説明してくれる。まさか、あの理不尽な難癖を「頼み事」と要約するとは――彼女のふてぶてしさに心の中で苦笑する。

「そういうこと。だから世渡さんのアリバイは僕が保証する。これで人間サイドに協力者がいないことは確定した――でも、協力者なしには脱出は不可能。つまり、協力者は〈沼の人〉なんだ。〈沼の人〉が二人いれば脱出できるから」

 最初は一人でも脱出できるだろうと高をくくっていたが、検証実験は悲惨な結果に終わった。

「部屋の外から糸を引っ張って窓の鍵を締める実験をしたけど、無理だった。窓のクレセント錠は古くてがたつきがあるから、ドアの鍵と同じく直接手で締めるしかないんだ。一人では絶対に脱出できないけど、二人いれば脱出する方法がひとつだけある」


 ヒントになったのは、トラックの中でカオリと死闘を演じたときの出来事。

 心臓を抉り取られたはずのカオリは、倫明をダッシュボードまで殴り飛ばした。

「犯人ペアの二人をA、Bとするよ。まずBはAの胸を刃物で刺して、心臓と二人の服を窓から非常階段に投げ込んだ。服がばらけないように弱点コレクションのビニール袋を使ったんだろう。Aは非常階段で復活する。窓際に移動させた椅子の上にBが立って、今度はAが鉄格子越しにBの心臓を抉り取った」

 

「すると身体はまだ部室に残ってるし、ほんの少しのあいだなら自由に動かせる。Aの身体は窓を閉めて錠を下ろし、自分の消滅を待った。BはAのもとで再構成されて、完璧な密室ができあがる。あとは服を着てから非常階段を下りて、正面玄関から回り込んで部室に行くこともできるし、校舎に戻ることもできる」

 Aの役割は人間にも果たせる。鉄格子をくぐるなんて人間離れした芸当をしなくても、最初から非常階段に待機すればBの手伝いは十分にできるのだ。

 しかし、部室の中から携帯電話で誰かを呼び出したとして、その誰かは「自分の心臓を抉り出してほしい」という突拍子もない依頼に従うだろうか。〈沼の人〉の存在を今知ったばかりで、下手したら殺人犯の汚名を着せられるというのに、即決して目の前の少女にナイフを突き立てる――そんな人間は異常だ。協力者になりうる人間の条件に「〈沼の人〉の存在を知っていること」を加えたのはそのためだ。


「心臓を抉るのって、一人じゃできないのか?」と貴司が質問した。「そしたらB一人でも脱出できるだろ」

「肋骨があるから、それは難しいと思うよ。心臓手術ではノコギリで骨を切ったりするくらいだから、胸元を切ってさっと取り出すようにはいかない。倫明がカオリの心臓を抜き取ったときは、肋骨の下に手を突っ込んで作業したけど、自分でそれをするとなると大変だ。手探りの作業になるし、心臓を引き抜いて窓の外に放り投げるのに時間をロスする。心臓を抜かれたカオリが動いていられたのはせいぜい二、三秒だった。それだけじゃ窓を施錠するので精一杯だよ」

 貴司は反論に困ったらしく黙り込んだ。

「脱出方法は決まった。ここからは、誰がやったのかを特定したいと思う。……一番初めに部室に入ったのは修也だろう。犯人はそのあとに入って衝動的に修也を殺した。協力者が犯行のあとに部室を訪れたのか、最初から部室にいたのかはわからない。どちらにしても、二人はさっきの方法で密室を作ることに決めた。ところで、このトリックってかなり不自然なところがあるんだ」

「二人ともドアの存在を忘れてるところ?」

 万由里の指摘に、僕は頷いた。

「その通り。Bは無理して鉄格子をくぐらなくても、ドアから非常階段まで歩いていけたはずだ」

「実際にそうしたんじゃないの? それに心臓抉られても動けるんなら、窓じゃなくてドアを使ったほうが安全でしょ。心臓を抜かれたBがドアの鍵を内側から締めた、ってほうが納得できる」

「でも、そうすると椅子を移動させる理由がない。あの日、非常階段側の窓の下に椅子が寄せてあったんだ。警察とか教員には不審に思われない一方、僕たちにはちょっと変だと思われるような位置に。窓が閉まってるせいであまり議論には上がらなかったけど、大きな証拠を残すっていうのは犯人にとって看過しがたいリスクだったはず。そのリスクをあえて冒したのは、ドアが使えなかったからだ」

 犯人と共犯者は外に出ることはおろか、ドアに触れることすらできなかった。

「ドアの外に倫明がいたから」

 倫明はドアに背中をつけるようにして座っていた。部室に「二人」がいることなど知らず、おとなしく修也の到着を待っていた。

 凶行の直後、犯人ペアは死体を他の誰かに見られないように、ひとまず内側からドアに鍵をかけた。倫明が訪れたのはその直後だ。借金取りを思わせるノックの音で、来訪者は耳の悪い倫明だとわかったから、ドアの向こうに音が洩れる恐れのある作戦であっても実行できた。さらに好都合なことに、廊下から話し声はしなかった。僕の不在も二人の肩を押した一因かもしれない。

「このことから倫明の容疑は晴れる。もし倫明が犯人なら、窓じゃなくてドアを使える。余計な手間を増やして発覚のリスクを上げるわけがない」

 まず、と自分の胸に手を置いて僕は続けた。

「僕にはアリバイがある。犯行のあったとされる時刻、ずっと教室にいた――それは世渡さんが証明してくれる」

 そこで、仄香が小さく手を挙げた。

「朔くんと世渡さんが共犯で、アリバイを偽証し合ってるって可能性は?」

「これは衝動的な殺人で、人間の世渡さんは部室から脱出できない。そうなると、僕が修也を殺したあと、世渡さんを非常階段に呼び出して脱出の手伝いをさせた――と考えるしかないよね。でも、僕と世渡さんはどうやっても連絡が取れない状況だった」

「二人とも携帯は持ってるんじゃないの?」

「ああ、仄香は知らなかったのか。世渡さんは携帯を没収されてたんだ。だから僕と連絡を取る手段はない。たとえ窓から手を振ったりしても、向かい合った理科棟には窓がないし、渡り廊下の一部からしかこちらの窓は見えない」

「……そうなんだ」

 仄香がきょろきょろと他の面々を見回すと、倫明が言った。

「それは俺も噂で聞いた。没収したのがうちの担任だったからな」

 世の中、何が役に立つかわからない。あのとき万由里が僕に難癖をつけなければ、二人は互いのアリバイを保証できなかったし、万由里が修也にサイバー攻撃を行っていなければ、僕たち二人の共犯説は覆せなかった。

 仄香は引き下がって口を固く結んだ――何かを決意するように。

 僕は努めて淡々と話を進める。

「〈沼の人〉ではあるけど、もちろんネイとカオリは除外できる。ネイは金庫に閉じ込められていたし、二人とも制服を持ってないから潜入は難しい。それに、これは突発的な殺人なんだから、犯人側は学生と考えたほうが自然だ。長期間学校に潜入してチャンスを窺うメリットはこの二人にはない」

 存在が確認されている〈沼の人〉は六人――疑いの晴れた四人を引くと、二人。

 僕は目の前にいる「二人」の顔を見た。

 近堂貴司と、五十川仄香。

「じゃあ、とりあえず訊くけど――どっちが犯人?」

 二人の腕が素早く動いた。

 互いに突きつけられるまっすぐ伸びた人差し指。牽制し合う荒野のガンマンのように、二人の銃口には微塵も迷いがない。

 貴司と仄香は自白したも同然だが、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。殺人犯と協力者では罪の重さが違う。殺人の汚名と、それにともなう恐ろしい結末を受け入れるつもりはなくて、最後の最後まで足掻こうとしていた。

 倫明は怒気をはらませた声で低く唸る。

「……いい加減にしろよ、おまえら。この期に及んで黙秘か?」

「わたしはやってない。悪いのは貴司くんだよ」

「往生際が悪いな。おまえが殺したんだろうが」

「わたしに修也くんを殺す動機なんてあるの?」

「そんなもん知るか。動機なんか俺だってない」

 事件の日に結託したはずの二人は醜く争い始めた。倫明は呆然とした様子で、二人の言葉のキャッチボールを目で追っていた。

 部室から例の手順で脱出するには、どんなに急いでも四、五分はかかる。倫明が部室をノックした瞬間に作戦がスタートしたとして、二人が正面玄関から回り込んで四階までたどり着くのに一分。廊下の陰から僕の不在を確認し、仄香が二年一組の教室まで二分で行き、僕を連れて二分で戻ってきたとすると計算は合う。

 本当のタイムテーブルは次のようになる。


 ・十二時〇分――ホームルーム終了。

 ・十二時〇~五分――仄香&貴司、部室到着。修也を殺害。

 ・十二時五~十分――倫明、部室到着。部室前で待機開始。

 ・十二時五~十分――仄香&貴司、部室脱出。

 ・十二時十~十五分――貴司、部室到着。倫明に会い、証拠隠滅のため教室棟へ。

 ・十二時十~十五分――仄香、二年一組の教室に到着。朔と連れ立って部室へ。

 ・十二時十五~二十分――朔&仄香、部室到着。

 ・十二時十五~二十分――貴司、部室到着。

 ・十二時二十分――死体発見。


 以前作成したタイムテーブルから容疑者二人の証言を抜くと、このように犯行が可能になる。十二時十~十五分以降、貴司がしばらく姿を消していたのは、脱出に使ったナイフやビニール袋をどこかへ隠しにいったからだろう。

 子供の喧嘩のような言い合いに怒りを削がれたのか、倫明は疲れた顔でこちらを見た。

「朔、どっちが修也の仇なんだよ。そいつも推理できるのか?」

「実際に修也を殺したのが誰かを特定するのは難しいけど、どちらが協力者なのかを突き止めることはできる。これは突発的な殺人だから、二人で一緒に殺したわけじゃない。あくまで手を下したのは犯人一人なんだ。そう考えると、動機に関して少し妙なところがある」

 少しどころの話じゃないだろ、と倫明は鼻を鳴らした。

「おまえの話だと、協力者は殺人に関与してない。だったら、人殺しに手を貸す理由がどこにあるんだよ。もしかしたら友情はプライスレスってやつか? あるいは恋は盲目ってやつか?」

 協力者は友情に報いるため、身を挺して犯人を救った。あるいは、協力者が犯人に惚れていて、相手を守るために殺人の片棒を担いだ――というのが倫明の説らしい。

 僕はゆるゆると首を振って件の二人に親指を向けた。殺気をみなぎらせて対峙する二人のあいだに、甘い感情は微塵も感じられない。

「……違う気がするな」

「僕もそう思うよ。だけど倫明、その問題設定はちょっと違うんだ。協力者が犯人を助けたのは別におかしいことじゃない」

「はあ? 何でだよ」

「犯人が警察に捕まるのは、僕たち全員の不利益だから」

 殺人犯は一切の証拠を残していない。カッターナイフに〈沼の人〉である犯人の指紋は残らないし、うまく返り血を避けたので犯人の服に血はつかなかった。たびたび動脈を切りたがる倫明のおかげで、僕たちは血の飛ぶ距離や方向というものを知り尽くしている。犯人の手は血で汚れたかもしれないが、脱出の際にいったん蒸発しているので、たとえルミノール検査をしても血液は検出されない。

 それでも、協力者がいなければ恐ろしい事態が訪れていたはずだ。

「協力者がいなかった場合を考えてみようか。密室は成立しないから他殺が疑われ、必然的に僕たちは容疑者に含まれる。厳しい取り調べを受けることになるだろうね。その中で、僕たちが人間じゃないことに気づかれたら、結果として〈沼の人〉の存在が露見する。それは何よりも避けるべき事態だ。殺人犯の逮捕と、僕たち全員の安全を秤にかけたら、誰だって後者を優先するよ」

「そういう理屈になるのか。だったら、協力者は俺たちを救ったヒーローだな」

「でも、ヒーローは口をつぐんだままだ」

 はっ、と短く笑う倫明。

「手柄を誇らない謙虚なヒーローか。自分の都合で肝心なことを隠すやつをヒーローなんて呼びたくはねえな」

 僕は同意するように頷いた。

「協力者は僕たちにまで犯人を隠しておく必要はなかったはずだ。なのに、協力者はずっとだんまりを決め込んだばかりか、犯人は吸血鬼じゃないかという話になっても真相を明かさなかった。警察の目がなくなってからも犯人をかばい続けてる。……協力者には動機があったはずだ。僕たちには話せない、後ろめたい動機が」

 あ、わかった、と倫明が手を叩いた。

「協力者も修也が憎かったってことだろ? 協力者はあいつを殺した犯人に感謝してて、それで隠蔽工作を提案した」

「殺意の有無は客観的に評価できないから、決め手に欠けるよ。それよりも、協力者は積極的に犯人に協力したわけじゃなくて、協力せざるを得ない立場にいたと考えたほうがいい。あの日、絶対に犯人を知られてはならない理由があったとしたら、それは協力者だという有力な条件になる」

 話の行く末がわからないらしく、倫明は首を傾げている。

「協力者がもっとも恐れていたのは警察じゃなくて、君なんだ」

「俺?」

「協力者は倫明の復讐を恐れて真相を隠した。七月上旬に、協力者はカオリと契約を交わしてる。僕たち全員の命を差し出す代わりに自分のオリジナルを渡せ、と。事件があったのは七月十八日。その時点で、僕たちの身体は何よりも大切な取引の対価だったんだ。事件の真相が明らかになれば、君はきっと犯人に復讐する。最悪、心臓が回収できない状況に陥るかもしれない。協力者は――貴司は何よりもそれを恐れた」

 貴司が考案したのは警察の目を欺くトリック。そして、絶対に犯人を知られてはいけない相手が真相にたどり着くのを阻止する仕掛け――

 

 倫明が剣崎に行ったことを考えれば、修也を殺した犯人への復讐は苛烈なものになると想像がつく。そうなれば諸々の問題が浮上してきて契約はご破算。そこで貴司は、倫明の目から見ても犯人がわからないように、わざわざ肉体消滅のタイムラグを使って窓を施錠した。窓を開けていても警察は疑いを持たなかったはずで、かえってあの酷暑の中で窓を開けていないほうが不自然なのに。

 また、別の方面からアプローチすることもできる。

 脱出の順番はAが一番目で、Bが二番目――BはAの心臓を突き刺し、AはBの心臓を抉り出した。心臓を刺すのは誰でもできるが、抉り出すとなるとそれなりの技量がいる。以前、倫明の心臓を抉り取る実験を行ったとき、実際にナイフを使ったのは貴司だった。経験があったからこそ作業をスムーズに行えたと考えれば、Aは貴司だと考えるのが妥当だ。自動的に「犯人」はB。

 ここで決定された脱出の順番は、二人のパワーバランスと一致する。

 貴司は最初に脱出するから、何らかのアクシデントで作戦が中断しても、部室に残されるのは「犯人」一人。一方、貴司は裏切られて部室に一人で取り残される心配はない。これは貴司にとって都合のいい作戦だ。殺人者である「犯人」より、表面上は弱みのない貴司のほうが立場は上だから、「犯人」は従わざるを得なかった。

「これで犯人は決まりだ――仄香」

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