その後

その後 ――ターミ・ポアットによる解説

 銀杏殿は翌十一月二十八日の明け方までに全焼した。同じ頃、憲兵隊たちの暴動も東方将軍府によって鎮圧され、参加した憲兵たちは皆その場で殺されたか、逮捕された後に処刑された。処刑された者の中には、バライシュの上官バーンター・メイサディもいた。憲兵隊は処刑された者を含め、実に百二十二名もの死者を出した。将軍府側の死傷者も五十名を越え、一般市民を合わせると「バライシュの乱」の犠牲者は二百名を優に超えるだろうと推測される。

 さらに一夜明けて十一月二十九日、アテュイスは自らキューアン邸に足を運び、シシーバの遺体を立派な黒い棺に入れて返した。死期の近い父王のために支度していた棺を流用したようだ。

 銀杏殿でバライシュとともに炭になったかと思われていたシシーバは、なぜかきれいな姿のままだった。アテュイスからその発見場所を聞いたとき、それまで気丈に振る舞っていたナジカが激しく慟哭どうこくしたという。未亡人の痛ましい姿にはキューアン家の人々も涙を誘われたが、その涙の意味を本当に理解できたのはアテュイスだけだったろう。

 キューアン家にはさらに不幸が続いた。十二月二日夜、サリア・ミアノ・キューアンは父と住む自宅から忽然こつぜんと姿を消し、翌朝ナコン沖で水死体となって発見された。深夜まで飲み歩いていた漁師たちが、ひとりで海のほうへ向かうサリアの姿を見たと証言している。そのとき、サリアは笑顔で何かを口走っていたという。彼女の部屋からは睡眠薬に擬した阿片が見つかった。おそらく何らかの幻覚を見ていて、誤って冬の冷たい海に落ちたのではないかと思われる。

 シシーバの父コーウェン・バンクパット・キューアンは、武器密輸の罪を自白して東方大将軍の職を罷免ひめんされた。愛息と姪の死で憔悴しょうすいしきったコーウェンは獄中でもほとんど食事を摂らず、死刑が決まるより先に悪い風邪をこじらせてあっけなく死んだ。五十三歳だった。

 年が明けてニアーダ王国暦五一二年一月三日、ついにホルタ王が崩御し、摂政を務めていたアテュイス・ジーン・ギアッカ・ニアーダが国王に即位した。だが西の隣国ユーゴーが「新王は摂政時代から圧政によっていたずらにニアーダ国民を苦しめている。人心は離れ、憲兵にすら謀反を起こされるようでは国王として不適格と言わざるを得ない。即刻退位すべきだ」と内政干渉してきた。アテュイス王がこれを拒否したため、両国はついに本格的な武力衝突に発展した。

 だが大国ユーゴーとの兵力差は歴然としていた。十日と経たぬうちに西方将軍府は占領され、大将軍シエコーン・アガマット・ナンシーンも戦死した。東西二人の大将軍を失ったニアーダ軍は体制を立て直すことができず、二月十日にはユーゴーに全面降伏した。ユーゴーによる支配は、その後ユーゴーがキンドウ国との戦争に敗れるまで約六十年間続く。

 敗戦後、アテュイス王はわずか一か月余りで退位し、結果的にバライシュの乱はアテュイスを王座から引きずり下ろす端緒たんちょになった。アテュイスの身柄はユーゴーの首都ミジェに移送され、九十五歳で亡くなるまで一度も故郷に帰ることはなかった。

 ユーゴーの傀儡かいらい国家となったニアーダで次の王に据えられたのは、アテュイス王の弟チュンナク・ブーン・カイザ・ニアーダであった。チュンナク王はまずバライシュの乱の事後処理として、「バライシュはセンリという美女にそそのされて野心を抱き、謀反を起こしたが友人だったシシーバ将軍と戦った末に相討ちになった」と国内に発表した。敗戦で地に堕ちた国威を再び発揚するために、シシーバとバライシュの物語を利用したとみられる。同時に、ジュディミス王子の生存とチュンナク王自身もバライシュに協力していた事実は隠蔽した。

 ユーゴーによる支配を受けつつも何とかニアーダ王国の名を守り抜き、現在のニアーダ王家の祖となったチュンナク王は、演劇でもしばしば名君として描かれるようになった。観劇好きのチュンナク王は大いに喜んだが、「バライシュの乱」という勧善懲悪物にだけは、一度たりとも足を運ばなかったという。

「バライシュの乱」では、バライシュ役の俳優は顔を真っ白に塗り、たてがみのような銀髪のかつらをかぶって悪役を演じる。史実のバライシュとはかけ離れた姿だった。この演目は大変な人気を博し、バライシュとセンリは私欲のために世を乱した極悪人で、反対にチュンナク王やシシーバは乱の拡大を防ぎチェンマを守った正義の英雄だというイメージが広く人口に膾炙かいしゃすることになった。

 ジュディミス・ニアーダとサエは、乱の後数か月間は偽名を使ってコーク族の生き残りとともに山間やまあいの村に隠れ住んでいたが、ジュディミスは狩りの途中でユーゴー軍とニアーダ軍との戦闘に巻き込まれて行方不明になり、それきりサエと再会することはなかった。サエがジュディミスの子を妊娠していると分かったのはその直後だったという。

 ジュディミスは隠遁生活のうちに、すでに回想録を書き上げていた。回想録は万が一ニアーダの役人に見られても解読できぬように、全文がサエに習ったコーク文字で書き記されている。サエは生まれてきた息子を女手一つで育て、後世にバライシュとセンリの真実を託した。サエを突き動かした思いは、バライシュへの報恩だったろうか、その手で殺めてしまったシシーバへの悔恨だったろうか、それとも、センリへ捧げる愛だったろうか。ともあれジュディミスの回想録は代々受け継がれ、ジュディミスとサエの末裔にあたる某先生が論文にまとめ、さらに私ことターミ・ポアットの手に渡った。

 密かに回想録を書いていたのはジュディミスだけではない。シシーバの叔父でサリアの父であるボエン・ダヤム・キューアンも、ナジカと協力してシシーバやバライシュ、サリアの思い出を書き残している。また、ニアーダ城の書庫管理官でもあったボエンは、チュンナク王の命令で「バライシュの乱」に関する不都合な記録を焼き払うよう命じられたが、そのいくつかを密かに持ち帰ってキューアン邸に保管していた。これらの文書はキューアン家によって現代まで保管され、『暁天の双星』を執筆するうえで大きな助けになった。

 私は、初め国民に真実を知らせたいと思ってこの小説を書き始めた。しかしながら、想像で書くしかなかった場面もたくさんある。少年時代にシシーバとバライシュが風呂で交わした会話、彼らの結婚生活、そして何より、銀杏殿での対決。私が書いたことは、きっと真実ではないのだろう。私はチュンナク王が作った嘘を、新しい嘘で塗り替えているだけかもしれない。

 私はそのことに気づくと同時に、真実など大した問題ではないのかもしれないとも思うようになった。こんなことを歴史学者が言うべきではないのだろうが、あえて言わせてもらいたい。本当に大切なのは「何が起こったか」よりも、「何が起こったか」を各人が思い思いに想像し、議論できる自由ソアントであると。

 最後に、シシーバの妻ナジカと娘エナのその後について触れておきたい。ナジカはシシーバとの約束を守り、キューアン邸を改装して孤児院を開いた。エナはそれをさらに発展させて学校を設立した。

 学校の名はエナの二の名ブムナ「ソアント」から取られた。ソアント校は現在でもソアント大学としてキューアン邸の跡地にあり、貧しい若者にも学ぶ機会を与えている。エナは結婚しない自由を選び生涯独身だったが、彼女はたくさんの子どもたちを育てた。何を隠そう、私もソアント大学の奨学生だった。

 こんな逸話が残されている。かつてシシーバが赴任していたバイラックで初めて「バライシュの乱」が上演された後、「うちの子はシシーバ将軍の落としだねだ」と主張する母親が次々に現れた。それを聞いたナジカは機嫌を悪くするどころか、「あの人が父親なら、エナと同じでさぞかし寝ぼすけで泣き虫でしょう」と笑ったという。本当にシシーバの血を引く子がいたかは定かではない。蛇足ではあるが、私の好きな逸話なので書き添えておく。

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