抄訳2

抄訳2 ――ジュディミス・ニアーダの回想録より

 目覚めるのが、あまりに遅すぎたのだ。

 私が眠りから醒めたとき、バライシュもサエもいなくなっていた。その頃にはすでに銀杏殿は炎に包まれ、北風にあおられて次々に飛び火していた。突然の大火事で、街の人々は悲鳴を上げて逃げ惑っていた。後から知ったことだが、バライシュに同調した憲兵隊が暴動を起こし、銀杏殿に火を放ち将軍府の兵隊と衝突したらしい。バライシュが指示したことではないだろうと私は思う。彼の狙いはあくまでアテュイスだけで、無辜むこの市民を巻き込むことは本意ではなかったはずだ。おそらくアテュイスに対する憲兵たちの不満が爆発し、歯止めが利かなくなったのではないか。

 混乱に乗じて、私は銀杏殿の通用門から中へ侵入した。私にとっては勝手知ったる建物だったが、燃え盛る炎の中を行くのは非常に苦しかった。炎が柱から天井に伝って私の頬を炙り、煤が目に入って視界を妨げた。靴を履いていても廊下は熱く、一歩ごとに私の足裏を焼いた。

 客間にはまだ火の手が届いていなかったものの、血の匂いと煙が混じり合って、私は何度もえずいた。その中央に、バライシュとシシーバが折り重なるようにして倒れていた。累々と横たわる黒装束の刺客たち同様すでに息はなく、生きている人間は呆然と座り込むサエだけだった。手には弩が握られたままだ。床に突き立った短い矢はサエが放ったものだろう。どういうわけか彼女は私よりもずっと早く目が覚めたらしかった。サエの分だけ眠り薬の調合が誤っていたのかもしれないし、コーク族独自の食文化が知らず知らずのうちに耐性を養っていたのかもしれない。

 私の顔を見ると、サエは激しく泣き出した。

 お父さんが死んでしまった。私も人を殺してしまった、でもこの人は敵ではなかったかもしれない。何年か前に家に来て、お父さんを殴った人だ。どうしよう、私はただ、お父さんを助けたかっただけなのに……。

 私は取り乱すサエを抱きしめ、彼女を落ち着かせようとした。けれども冷静になっていくのは私のほうだった。大きすぎる喪失に激しく心を乱されながらも、私は泣けなかった。父様が亡くなったときと同じだ。悲しみに我を忘れるより、直ちに何をすべきかを考えてしまう私には、人間らしい心が欠けていると思う。その点においては、私もアテュイスとさしたる違いはなかった。

「センリは、この人が誰か、知ってるの?」

「この人はシシーバ。……バライシュの友達だ」彼は私にとっても義理の兄だったが、そのときは言えなかった。

 二人の瞼を閉じさせると、仲良く眠っているようにしか見えなくなった。シシーバの目には涙のあとが残っていた。

「サエ、協力してくれないか。シシーバだけでも、ここから運び出してあげたい」

 私はもう一度、姉様をシシーバに会わせてあげたかった。

「お父さんは……? ここに置いていくの?」

「……私たちでは、バライシュは大きすぎて運べない」

 サエはしばしためらった後、涙を呑んで頷いた。

 客間にも火の手が及び、もはやバライシュに別れを告げる余裕はなかった。王族が住む建物には、災害や敵の襲撃に備えて必ず隠し通路がある。私は暖炉の武神ウェングル像を力いっぱい手前に引いた。からくりが動き、暖炉の脇で静かに壁が開く。地下へと続く階段は、王族しか知らぬ秘密の脱出路だ。昔みんなで隠れんぼをして遊んだときに、誰かしらは必ずここに隠れたものだった。

 シシーバを背負ったとき、私は生命を失った人間の重さに驚いた。人間の魂は、これほどまでに重いものを動かしているのだ。サエがいなければ、私には階段を降りきることすら難しかっただろう。

 地下道は三つ先の区画にある小さな寺の堂内へと続いていた。灯りがない中を手探りで進みながら、私はバライシュに報いるために何ができるか、そればかりを考えていた。

「サエ。これから先、世間の人がバライシュのことをどう言おうとも、私たちだけは本当のことを忘れないでいよう」

「うん……」

 言い換えれば私は、彼のために何もしてやれなかったのだ。もう少し早く目覚めていればと、返す返すも悔やまれる。私はバライシュを失い、王への道もまた閉ざされた。シシーバのなきがらを返すことで、少しはバライシュも喜んでくれるだろうか。

 地下道を抜けた私たちは、シシーバをがらんどうの中に寝かせ、彼の顔を拭って乱れた着衣を整えてあげた。銀杏殿の抜け道が使われたと知れば、きっとアテュイスかチュンナクがここを探しに来て、シシーバを見つけてくれるだろう。

 わずかな星明かりの下で、私は改めてシシーバの顔を見た。私たちの家へ来たときの彼は険しい顔をしていたが、改めて見ると優しい面立ちの青年だった。

 なぜ彼は、バライシュとともに銀杏殿にいたのだろう。バライシュは、シシーバに私のことを任せたと言ってはいなかったか。だとすれば、シシーバはバライシュの言葉をあえて無視したのだ。先王の子よりも、妻の弟よりも、彼はバライシュのもとへと向かうことを選んだのだ。

 そのことに思い当たったとき、私はたまらなくなってようやく涙を流した。今度はサエが私を抱きしめてくれて、私たちは一緒にわんわん泣いた。私はシシーバを殺めたサエを憎いとは感じなかった。今日の悲しみと過去の幸せな思い出を分かち合えるのは、サエの他にいなかったからだ。

「センリ……これから、どうしよう?」

「分からない。……でも、一緒に生きよう」

 私たちはへとへとに疲れ切っていたし、深く絶望してもいた。けれどもバライシュと一緒に死にたいとは思わなかった。生きていくことしか頭になかった。それは「バライシュのために」などという、わざとらしい義務感とは似て非なる感情だった。バライシュは私たちを生き返らせてくれた人だった。私もサエも一度は死んだ身だから、再び死のうとは考えもしなかったのだ。

 空は深い闇に覆われ、夜明けはまだ遠い。それでも私たちは、手を取り合って走り出した。

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