三 シシーバ

「うるさい。お前があんな手紙をよこすからだ」

 シシーバはのんきに笑っている青い目の兄弟に腹を立てた。いったいどれだけ心配したと思っているのか。バライシュは血まみれだったが、ほとんどが返り血らしかったので安心した。傷はどれもさほど深くはなく、すぐに手当すれば問題なさそうだ。

「立てるか? 帰るぞ」

「帰るって、どこへ」

「俺たちの家に決まってるだろ」

 しかしバライシュは寂しげに表情を曇らせただけで、立ち上がろうとはしなかった。

「僕は帰れない」

「父上やボエン叔父さんのことを気にしているなら、心配しなくていい」

 そんなことはもうどうでもよかった。ずっとバライシュを騙していたのは、自分たちキューアン家のほうだ。そのことも謝らなければならないが、いまはゆっくり話をしている場合ではない。

「そうじゃない。……僕には、まだやらなければならないことがあるんだ」

 バライシュは剣を取ってゆらりと立ち上がった。

「シシーバ、そこをどいてくれ」

「よせバライシュ。アテュイス王子は、ここには来ない」

「来ないなら、こちらから行くさ」

 バライシュの青い目が暗くなった。まだ本気でアテュイス王子を殺せると思っているのか。シシーバは寒気を覚えながらも、扉の前に立ってバライシュの行く手を阻んだ。

「バライシュ、このままじゃお前は罪人にされて、不名誉な死に方をさせられるだけだ。でも俺たちなら、お前を守れるかもしれない」

「名誉などいらない。そこをどけ、シシーバ」バライシュは低い声で言った。「お前はジュディミス王子が殺されてもいいのか!」

「当たり前だろ! 俺には王子よりお前の方が大事なんだよ!」

 そのときバライシュは目を見開いた。いま初めて知ったと言わんばかりの顔だった。たとえ王子でも、ナジカの弟でも、バライシュの命と引き換えにできるわけがない。こんな簡単なことさえ、バライシュに伝えられていなかったのだ。

「俺と一緒に帰ろう、バライシュ」

「……それは僕に命令しているのか、シシーバ?」

 シシーバは首を振った。相手が王子なら、命令したって意味がない。

「頼んでるんだ。俺の頼みを聞いてくれるなら、土下座だってなんだってするよ」

 バライシュの顔から殺気が抜け、穏やかな表情に変わっていく。

「僕の考え……望みを、言わせてもらう」

 その口癖は昔と同じようでいて、もっと強い意志がこもっていた。

「この国はいま、アテュイスのせいで朝の来ない闇夜の只中にある。ジュディミス王子はずっと沈んでいた太陽なんだ。僕はこの国に朝日を取り戻したい。たとえ自分が、その夜明けを見られないとしても」

 まっすぐ背筋を伸ばし、澄んだ瞳でシシーバに向き合う。そしてバライシュはゆったりと剣を構えた。見とれてしまいそうなほどに美しい構えだった。

「僕を止めたいなら、力ずくで止めてみせろ。勝負だ、シシーバ」

 竹刀ビリンでの手合わせに臨むときと何ら変わらない調子で言うが、お互い手にしているのは真剣だった。シシーバにとっては、勝ってもバライシュに深手を負わせ、負けてもバライシュを死地に送り出すだけの無益な勝負だ。「嫌だ」と叫んだときにはもう涙が溢れ出していた。

「シシーバ。僕と戦えないならそこをどけ。無抵抗のお前を斬りたくない」

 なぜこんなことになってしまったのだろう。シシーバには分からなかった。ただ分かるのは、バライシュは絶対に自分の頼みを聞いてはくれないということだけだ。自分を斬ってでも、バライシュは本懐を遂げようとするのだろう。

 シシーバは涙を拭い、長い息を吐いた。

 剣を構えると、高鳴っていた鼓動が自然と落ち着いていく。脳裏に少年時代の記憶が次々と蘇る。やかましい鶏の声と鼻につく臭さ。かすかに朝焼けが残る薄青の空。勝気なサリアの笑顔と、池に落ちて泥まみれになったバライシュ。幸せだった日々の思い出は、二人の剣が軽い金属音を立てると同時に消えた。

 シシーバとバライシュは目を合わせた。互いの剣がぴたりと揃って八の字の軌道を描いたとき、最後の勝負が始まった。先に仕掛けてきたのはバライシュだ。長身から繰り出される剣撃が雨のように降り注ぐ。シシーバはそれを淡々と受け止めつつ、懐へ飛び込む隙を窺った。二人とも大きな声を立てないのは昔から同じだ。鉄と鉄がぶつかり合い、絡み合う音だけが闇夜に響く。短い鍔迫り合いの後、二人はお互いの白い呼気が混じり合わない距離まで離れた。

 シシーバはバライシュの目を見た。

 バライシュもシシーバの目を見た。

 同時に床を蹴る。相手に刃が届くのが速いほうが勝つ。そのはずだった。しかしバライシュの剣先はわずかにシシーバの頬をかすめただけだった。シシーバの剣は狙いを違えず、バライシュの胸へ届いてしまった。斜めに振り抜いた剣は、兄弟の身体を深く切り裂いた。仰向けに倒れたバライシュの隣で、シシーバは力なく膝をついた。

「……今日は、お前の、勝ちだな」

「引き分けだろ」シシーバは涙をこらえて笑顔を作った。「怪我人相手じゃ、勝負にならない」

 バライシュを膝の上に抱き上げると、彼もいまにも途絶えそうな息の中で笑った。シシーバは自分が斬った傷口を必死に両手で押さえたが、熱い血が溢れ出るのを止められるはずもなかった。

「お手柄だな、シシーバ。お前は……逆賊バライシュを討った英雄になれる」

「まさか……手加減したのか?」

 バライシュはわずかに首を振った。

「手元が……狂ったんだ」

 嘘だと思ったが、シシーバは「俺もだ」と答えた。こんなはずではなかった。バライシュを戦えなくする程度に勝てばよかったのに、力加減をする余裕がなかった。死ぬのが怖かった。家族のもとに帰りたかったのだ。

「ごめん……ごめん、バライシュ。俺は……」

 謝らなければならないことが多すぎた。けれどもバライシュは「いいんだ」の一言で親友のすべてを許し、そのために最後の息を使い果たした。バライシュのすべてが、シシーバを見上げたまま完全に止まった。夜明けどころか夜空さえ天井に隠された場所で、それでもその目は青空の色をして穏やかだった。

「兄上……」

 そのときシシーバの胸に湧き起こった感情は、骨まで軋むほどに激しい後悔だった。誰かに禁じられたわけでもないのに、バライシュのことを一度も兄と呼べなかったのはなぜだろう。何度呼んでも、バライシュはもう応えてはくれない。

「兄上……!」

 誰もいなくなったこの場所なら、シシーバは受け入れがたい現実を拒んで、声の限り泣き叫んでよいはずだった。だがシシーバが嗚咽を漏らすより先に、左の首筋に炎が通り過ぎたように感じた。

 血が首筋から胸を伝って腹へと流れている。返り血……じゃないな、俺の血だな、たくさん出るな。

 傷口を右手で押さえようとして、そのままバライシュの上へ倒れ込んだ。自分の身に何が起こったのか理解する前に、シシーバの生涯は青い目の兄と同じ日に終わった。

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