二 バライシュ

 バライシュ・ネイルは、銀杏殿でチュンナク王子とともにアテュイスが来るのを待っていた。

 広い部屋に、四角い机が一つ。長辺を挟んでバライシュとチュンナク王子が座り、短辺を挟んでジュディミス王子とアテュイスが座ることになっている。好事家として知られるチュンナク王子の家なのに、この客間には美術品の類は何も置かれていない。唯一それらしいのは奥の暖炉に据え付けられたいかめしいウェングル(半人半虎の武神)像だけだ。

 しかしバライシュが昼すぎに到着してから、もうだいぶ時間が経っている。チュンナク王子との茶飲み話の話題は、夕陽が沈むとともに尽きていた。暖炉の火も小さくなり、いまにも消えそうなおきが最後の熱を放っている。

「兄貴、遅いなぁ。まだ仕事をしてるのかなあ」

「ジュディミス王子も遅すぎますね」

 バライシュも調子を合わせた。チュンナク王子には、ジュディミス王子はデュイコラの丈が合わなかったので、遅れて別の者と一緒に来ると伝えてある。もちろん、嘘だった。

 アテュイスは本当に来るだろうかと考え、きっと来るはずだと結論づけた。馬の足が埋まるほど雪が積もっても、憲兵の仕事ぶりを見に来るような男だ。あの男なら、本当にジュディミス王子が生きているかどうか自分の目で確かめなければ気がすまないはずだ。

「夜でも素晴らしい景色ですね」

 バライシュの席からは中庭がよく見えた。樹齢三百年を超えるという大銀杏が月光に照らされ、墨色の空に黄葉がさえざえと浮かんでいる。この世の見納めにふさわしい、美しい夜だった。ひとつふたつと舞い散る扇形の葉たちと、今宵バライシュは運命を共にする覚悟だ。剣は番兵に預けてしまったが、懐には短刀を隠し持っている。とはいえ肝心のアテュイスが来ないことには使命を全うできない。

「いいでしょ? 僕の自慢の庭なんですよ。まあ、僕が同年代の王族で一番早く結婚したから、ここを先王陛下にもらっただけなんですけどね」

 チュンナク王子は、銀杏殿が王家の別荘だったころの思い出を語った。その頃はアテュイスもナジカも子どもで、ジュディミス王子は赤ん坊だった。

「僕、昔はナジカが怖かったんですよねぇ。よく泣かされていました。ジュディミスのほっぺをつつこうとしただけで、ものすごく怒られてねぇ」

「そうでしたか」

 微笑ましい話だ。ナジカ姫もきっと大事な弟君を守ろうと一生懸命だったのだろう。この夜が明ける頃には、きっと姉弟の再会を叶えてさしあげられる。

「さて」チュンナク王子が席を立った。「いくらなんでも遅すぎるから、ちょっと城に使いを出してきますよ」

「よろしくお願いします」

 バライシュが頭を下げると、チュンナク王子は扉の前で足を止めた。

「ごめんね、バライシュさん」

「いえ、ジュディミス王子もまだお見えではありませんし」

 チュンナク王子は黙っていた。何か様子がおかしい。彼が扉を開くと、剣を携えた覆面の男たちがぞろぞろと部屋に入ってきた。全部で十人、ひとりで相手にするには厳しい人数だ。

 バライシュはすぐに状況を理解した。アテュイスを陥れようとして、逆に陥れられたのだ。アテュイスではなく、その弟に。

「……最初から、こうするつもりだったのか?」

 ジュディミス王子に聞かれたのと同じ質問を、今度はバライシュが聞く立場になった。

「ううん、違うよ」振り向いたチュンナク王子は首を振った。「最初は約束通り兄貴に会わせてあげるつもりだったよ。でも……やっぱり僕には無理だった。だって、兄貴はもう少しで王になれるんだもん」

 ジュディミス王子とは違う、灰色がかった毒蛇の瞳。見開かれたチュンナクの小さな目は、兄のものとよく似ていた。

「本当はジュディミスも一緒ならよかったんだけど、まあいいや。君さえいなくなれば、ジュディミスも諦めてくれるよね」

「ジュディミス王子は、あなたを信頼していたんだぞ」

 バライシュが睨むと、チュンナクは心底すまなさそうな顔をした。

「……泣いていた僕を慰めてくれたのは、いつも兄貴だった。君たちにとっては確かにひどいやつかもしれないけど、僕にとってはたった一人の兄貴なんだ。ごめんね。本当にごめん」

「チュンナク……!」

 じりじりと周囲の敵に間合いを詰められる。チュンナク王子はもうバライシュの叫びに応じなかった。

「僕の家、あんまり汚さないでね」

 扉の向こうにその姿が消えるとともに、敵が一斉に襲いかかってきた。まだだ。こんな死に方を望んだわけではない。

 バライシュは無我夢中で短刀を振るった。まず一人の懐に潜り込んで腹を切り裂き、その身体を盾にしてもう一人の剣を受け止め、反対側から来る二人の喉をかき切りながら身を翻す。背後から振り下ろされる刃をかわしつつ足払いをかけ、相手が取り落とした剣を奪って立て続けに二人斬った。

 返り血が燃えるように熱い。バライシュは青い目を見開いて雄叫びを上げた。刹那のうちに半数が斬り伏せられたのを見て一人は逃げ出した。残る四人が前後左右から同時に剣を繰り出す。バライシュの剣はその倍の速さで走った。客間に九つの死体が転がったとき、バライシュは右肩と左脇に軽い傷を受けただけだった。僕はまだ生きている。ひりつく痛みがその証だ。僕はまだ生きているぞ!

 アテュイスが来ないなら、こちらから出向くしかない。客間から出ようとしたバライシュを、さらに五人の黒装束が囲んだ。

 一旦途切れた集中力をすぐに取り戻すのは困難だった。敵はバライシュの足元にも及ばない者ばかりだったが、五人を片付けるまでにはさらに左大腿と額に傷を受けていた。その痛みに気を取られ、いつの間にか敵がもう一人増えていたことに気づけなかった。首元にひやりとした刃の気配を感じたとき、もはやバライシュは人生の終わりを待ち受けるほかなかった。

 しかしまたもバライシュは命拾いしていた。敵がバライシュの首を刎ねる前に、何者かに斬られたからだ。誰だ、誰が来たんだ。額からの流血のせいでよく見えない。

「この……馬鹿野郎!」

 その若々しい声には聞き覚えがあった。彼はバライシュを座らせ、柔らかい布で顔を拭ってくれる。目を開ける前から、そこに久しく見ていなかった友の顔があるのは分かっていた。

「シシーバ……」

 友は荒い呼吸でバライシュを睨んだ。よほど慌てて来たのか、髪は乱れ全身汗みずくで、革帯を締めていないためにトガラは腹まで見えるほど着崩れていた。

「何て格好だ。寝起きか?」

 バライシュは思わず笑ってしまった。

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