乱
一 シシーバ
ニアーダ王国暦五一一年十一月二十七日 夜
シシーバ・ダラハット・キューアンは夕食を終え、居間でトガラの帯を解いて家族とともにくつろいでいた。
いつもはおとなしいエナが、その日はやたらと泣いてナジカを手こずらせていた。シシーバも変な顔をしてみたり、人形や鈴のついたおもちゃを振ってみたりしたものの、何が気に食わないのかエナはわんわん泣きわめくばかりだ。
悪戦苦闘する夫婦をよそに、父上は黙って兵学書を読んでいる。今日も父上とはほとんど言葉を交わしていない。シシーバは意識的に父上をエナから遠ざけていた。武器密輸の一件以来、父上との関係には修復しがたい亀裂が入ったままだ。
シシーバは父上の悪事を公表することができずにいた。あの後、他の将軍から西方将軍府がシシーバを欲しがっているという噂を聞いた。ユーゴーとの対決に備えて、キョウ族征伐の実績がある将軍を必要としているのだ。それなのにシシーバが転属にならないのは、どうやら父上が裏で西方大将軍と取引をしているためらしい。シシーバももう戦場に行きたくはないし、何よりナジカやエナと離れたくなかった。許されることではないと分かっていながら、結局シシーバは父上の悪事を見て見ぬふりをし、あまつさえその恩恵にあずかっている。賢いナジカは父子の間に何かがあったことを薄々察しているようだが、何も聞いてこなかった。シシーバも打ち明けられなかった。父上はシシーバの
そのときネイルさんが、一通の書簡を携えて居間に入ってきた。
「いましがた憲兵がやって来て、坊っちゃま宛にと……」
こんな時間に手紙とは。ネイルさんの顔色は悪く、手もひどく震えていた。表に書かれた宛名は、一文字一文字が几帳面に整っている。よく知った筆跡だ。それだけでもシシーバの心は波立ったが、手紙の内容はさらに恐ろしいものだった。
「何の手紙なの?」
車椅子のナジカが近寄る前に、父上がシシーバから手紙を奪う。一読してすぐに放り捨て、「放っておけ」と厳しい声で言った。
「『アテュイス王子と刺し違える』? ふん、よほど憲兵の仕事が嫌になったらしい。どうせ我々を脅して、軍の仕事でも世話させようという魂胆だろう」
「バライシュはそんなやつじゃない」シシーバは父上を睨んだ。「本当の息子と思っていたなら、そのくらい分かるはずだ」
「ではお前は本気でこんなものを信じるのか? 囲っていたのは愛人ではなく、ジュディミス王子だと? 言うに事欠いて、こんな不謹慎な言い訳を!」
ナジカが息を呑んだ。
「どういうこと……? 弟が、生きているの?」
その点に関しては、シシーバも半信半疑だった。しかし内容はどうあれ、バライシュの言葉を無視できるはずがない。シシーバは手紙を拾い、あえてナジカに読ませた。彼女が文を追うほどに、緑の瞳が激しく揺れるのが分かる。
「……こんなのは、いけないよ。ここに書かれていることが本当なら、弟は自分のために誰かが犠牲になるのを喜びはしない。行って、シシーバ。あなたがバライシュさんを止めてあげなくては」
シシーバはナジカをきつく抱きしめ、頬にそっとくちづける。
「ありがとうナジカ。……ごめんな」
ずるいやり方だと自分でも思う。ナジカなら、本当の気持ちはどうあれ、弟よりもバライシュを助けろと言うのは分かっていた。シシーバはナジカの優しさにいつも甘えていた。
「駄目だシシーバ! たかが拾い子のために、お前が危険を冒す必要がどこにある!」
父上が血相を変えて怒鳴る。シシーバが何か言い返すより早く、声を上げた人がいた。
「バ……バライシュは、私の息子です!」
ネイルさんだった。使用人の思わぬ反抗に父上は押し黙ったが、愚直で従順なバライシュの父は、それ以上主人に逆らう言葉を続けることができなかった。思い余って部屋を飛び出したネイルさんの後を引き取って、シシーバは言った。
「俺にとっても、バライシュは本当の兄弟だ。誰を愛し、誰のために命を懸けるかは俺が自分で決める。誰だってそうする。……父上は違うのか」
シシーバは父上の硬直した表情をじっと見つめ、やがて深いため息をついた。怒りのためではなかった。急に父親のことが哀れに思えたからだった。この人も、きっと息子を止めたくて必死なのだ。
エナが甲高い泣き声を上げた。シシーバは笑顔を作り、娘を抱きかかえてあやした。
「よしよし、怖い声を出してごめんな。お父さんはちょっと出かけてくるけど、すぐに帰ってくるからな」
父がかけてくれた最後の言葉を憶えておくには、エナはまだ幼すぎた。
一刻の猶予もなかった。急いで飛び出したシシーバは剣だけを腰に下げ、解いた革帯を締め直すのも忘れていた。
シシーバは闇夜へ飛び出す。行先は銀杏殿、バライシュがアテュイスと面会する場所だ。手紙には隠れ家にいるジュディミス王子とサエを保護してくれと書いてあったが無視した。
バライシュ。誰が何と言おうと、お前は俺の大切な兄弟だ。 俺が助けてやるから、待ってろ。
あっという間にボエン叔父さんとサリアの家の前を通り過ぎていく。バライシュはキューアン邸の人々に感謝と謝罪の言葉を書き連ねているくせに、サリアへの言葉は一言もなかった。シシーバには、あえて書かなかったのだとしか思えなかった。別れた妻へ言葉を遺して煩わせたくないと思ったのか、胸がいっぱいで何も書けなかったのか。いずれにせよ、サリアに謝らないなんて絶対に許せなかった。嫌でも連れて帰って、謝らせてやる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます