二 シシーバ
雪が少しずつ解け始めたころ、エナ・ソアント・キューアンは生後三ヶ月を迎えた。シシーバとナジカの長女である。
覚悟していた以上に難産だった。産気づいたナジカは出産のために支度された小部屋に入ってから、一昼夜出てこなかった。部屋のすぐ外で待っていたシシーバも心配で一睡もできなかった。産声を聞いた瞬間、妻をねぎらうどころか安堵のあまり倒れて床の上で眠り込んでしまったのは不覚だった。三か月経ってもまだナジカに笑われている。きっと一生笑い話にされるだろう。
夫婦は娘の
「この子には俺たちのように家柄に縛られず、自由に生きてほしいと思う」
「そうだね。私たちと違って、自由に好きな人と結婚してほしいな」
「そうだな。俺たちと違って」
そう言って笑い合うと、ナジカの腕の中でエナも嬉しそうに手をばたばたさせた。娘の瞳はシシーバと同じ茶色だ。王家の瞳を受け継がなかったことをナジカは喜んだ。
「可愛いなあ」
思わず口をついて出る。どうしようもなく愛おしさが募ったとき、「可愛い」以外の言葉は頭の中から消えてなくなるのだと知った。ナジカには出会ったときから何度も「可愛い」と言われて素直に喜べなかったのを思い出す。もしかして彼女も同じ気持ちだったのだろうか。さすがに恥ずかしすぎて聞けない。
エナの誕生を喜んだのは夫妻だけではなかった。このところずっと西方へ行きっぱなしだった父上は、生後十日が経ってからようやく初孫と対面した。厳格な大将軍を、頬の緩んだ
雪が解けるとナジカはサリアを招いて、出産後初めての茶会を開いた。エナの世話をナミンに任せ、しばし大人たちでくつろいだ時間を過ごす。茶を淹れるのはシシーバの役目だ。最近では、シシーバにも少しお茶の違いが分かるようになってきた。
「エナもけっこう大きくなったわよね。シシーバもすっかりお父さんって感じ」
「俺に似て美人だろ?」
「あら、ナジカさんに似て美人なんじゃないの?」
しばらくは弱り切っていたサリアも、いまでは元気を取り戻していた。それでも以前の
「バライシュさんとは、全然会っていないの?」
「ええ」
雪の話を一通りした後、ナジカはシシーバが聞きあぐねていたことを単刀直入に尋ねた。サリアが気分を害するのではないかと思ってひやひやしたが、彼女はむしろ聞いてくれて感謝しているように見えた。たぶん女同士だからできることなのだろう。
「でもこないだ街へ買い物に出たとき、仕事中のバライシュを見たわ。向こうは私に気づかなかったようだけど」
サリアが見たのは、巡回任務中のバライシュだった。険しい顔で城下の民を威圧する、嫌われ者の憲兵そのものだった。けれどもそれが彼の本当の顔ではないことを、サリアはよく知っている。
「最近はね、私にも悪いところがあったんじゃないかって思えるようになったの。彼が隠し事をしているのは分かっていたわ。でも話を聞こうとはしなかった。バライシュはずっと私に優しかったから、怒らせるんじゃないかって怖くて。……でもそれって、結局私がバライシュのことを信頼していなかったってことなのよね」
「だとしても、悪いのはあいつだろ」
シシーバは吐き捨てるように言った。どんな事情があっても、妻を捨てて他の女と一緒になるなんて間違っている。
「あなたは許せないのね、バライシュのことを」
「当たり前だ。いつもうるさくて迷惑なくらい陽気だったお前が、ため息つきながら泣き言を言ってるのは誰のせいなんだ。三人で一緒に育ってきたのに、俺だけ幸せになれたからってめでたしめでたしっていうわけにはいかないだろ」
われ知らず声が大きくなる。悲しげに見つめるナジカに、シシーバは「ごめん」と謝った。二年経っても傷ついたままなのは、サリアよりむしろ自分のほうだった。
その夜、シシーバはなかなか寝つけなかった。バライシュの言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
――僕の望むようにしろと言ったのはお前だ。
サリアの話を聞いて、シシーバも自分を省みた。
俺も、あいつのことを信じてなかったのかもしれない。あのときは腹も立っていたし、ひどい責任転嫁だとしか思えなかったけれど、もう一度バライシュに全幅の信頼を置いたとして考え直したら何が見えるだろう。あの馬鹿真面目で一途だったバライシュがサリアに嘘をついてまで、叶えたいと思った望みとは何だ? 孤児を育てることか? 愛人を作ることか?
シシーバは確かに愛人らしき女性の姿を見た。顔ははっきりと見ていないが、黒髪で細身、背は女性にしては高めだった。声は低かった気がする。まるで男が無理に女の声を出しているような――。
頭に突拍子もない考えが浮かびかかったが、シシーバはその可能性を即座に否定した。
「大丈夫?」
隣のナジカに心配された。エナは
「うん……、今日はごめん、ナジカ」
シシーバは昼間の失言を改めて詫びた。自分は幸せになるべきではないと言っているようなものだった。不幸な事故で家族と身体の自由を失い、それでも諦めずにエナを産んでくれたナジカに対して、あまりにも無神経だった。
「そんなこと気にしてたの? いい子だな、シシーバさんは。本当のことを言うと、私は少し嬉しかったよ。だっていまあなたは幸せだということでしょう」
「……まあ、そういうことになるかな」
おいで、とナジカが腕を伸ばす。シシーバはその言葉に甘えた。妻の首筋から香の匂いが立ち上っている。出会った頃は気になって仕方なかったのに、いまではなくてはならないものに変わっている。安らぎとかすかな罪悪感を覚えながら、シシーバは幼子のように眠りについた。
***
雪が解けても、チェンマの街が活気を取り戻すことはなかった。
キューアン邸から東方将軍府に向かう途上には、孤児の群れどころか人通りさえない。アテュイス王子の政治はあらゆるものを沈滞させた。近臣、将軍、僧侶、いまでは誰一人声を上げる者はいない。チェンマの街が瀕死で横たわっているのを感じながらも、シシーバはただ見ていることしかできなかった。アテュイス王子とは義理の従兄弟だが、先王陛下とジュディミス王子亡きいまとなっては赤の他人とさして変わらない。諫言したところで、ニアーダ城の正門前に吊るされるだけだ。
赴任したてのときは軍内部の課題解決に熱心だったシシーバも、次第に緩慢な空気に蝕まれて情熱を見失っていた。一番のきっかけはやはりバライシュとの訣別だったかもしれない。このままではいけないと分かっていても、孤独な戦いを続ける気力が湧いてこなかった。
夕方、将軍室で事務仕事を片付けていると、帳簿係のドイコイが除隊の挨拶にやって来た。彼は長年勤めた東方将軍府を辞し、妻子を連れて親戚のいる南方へ引っ越すのだという。同様の理由で除隊する妻子持ちの
「若将軍、どうもお世話になりました」
「こちらこそ、いろいろ無茶を頼んですまなかった。南へ行っても元気でな」
「いやあ、ほんと若将軍には参りましたなあ」ドイコイは遠慮のない笑顔を浮かべた。「明日までに書類を出せなんて突然言ってくる将軍は、初めてでしたよ」
翌日ドイコイは言いつけ通りに書類をまとめてきたが、シシーバは抜け殻のように気力を失くしていた――というのは、ドイコイの個人的な印象だ。シシーバは苦笑した。確かにバライシュと仲違いして気落ちしてはいたが、「抜け殻」は言い過ぎだと主張したい。
「……若将軍。最後にお渡ししたいもんがあるんです」
ドイコイが合図すると、別の兵士が木箱を持ってきた。
「この二年間、武器庫の連中と協力して、武器の返品廃棄について徹底的に調べてみました。こんな世の中じゃ無意味かもしれませんが、私らも何かせずにはいられなかったんです。ですが……」
ドイコイはそこで言葉に詰まった。
「私らが見つけ出したのは、きっとあなたには残酷な事実です。それでも、これをお伝えできる将軍はあなただけなんです。私らはそこに書いてあることを口外する気はありません。どう判断されるかはお任せします」
どうかお許しください、とドイコイらは頭を下げて出て行った。
シシーバは戸惑いながらも箱を開け、中の書類を手に取った。そして時間も忘れて、証拠書類の一枚一枚を読みふけった。
そこに書いてあることを信じたくなかった。間違いがあってほしかった。しかし読めば読むほど、ドイコイの言う「残酷な事実」がより揺るぎないものとしてシシーバの眼前に立ち現れるだけだった。
「まだ帰らんのか、シシーバ」
父上が将軍室の扉を開いたとき、斜陽の光が鋭く差し込んできた。シシーバが帰らないので家から様子を見に来たらしい。
シシーバは何も言わずに父上の顔を睨み上げた。
ドイコイらの調べによると、武器の返品廃棄が急に増加したのは八年前、ちょうどシシーバが北方へ配属された頃だ。その頃武器管理係を務めていた元
武器の仕入先は五年ほど前に変更されている。仕入先の武器商人が、武器密輸の罪でバライシュに逮捕されたからだ。キョウ族に横流しされていたのは、軍から受け入れた返品廃棄扱いの武器だった。仕入先が変わった後も、返品の指示とキョウ族への武器密輸は一昨年の冬、シシーバが将軍としてチェンマに帰ってくるまで続いた。
指示したのは、東方大将軍コーウェン・バンクパット・キューアン、つまり父上だった。
「どこの将軍家でもやっていることだ」
父上は悪びれもせずに言った。
先王陛下の治世下、北方将軍府は軍事費も人員も削減され、何とか存在意義を示す必要があった。軍隊が活躍するためには強力な外敵が必要だ。そこで北方大将軍カーズ・ヒパラット・エイカーンは、父上に密約を持ちかけた。「息子の出世は約束するから、チェンマから武器をキョウ族へ送ってくれないか」と。父上はこれを受け入れ、アテュイス派の武器問屋を利用してキョウ族へ武器を密輸した。
「実力だけで将軍まで出世できたと本気で思っていたのか? そんなに軍は甘くない。私もお前のお爺様がいろいろと根回しをしてくださったからこそ、いまの地位にあるのだ」
「だからって……」これは先王陛下に対する反逆だ。「バライシュが、必死に捜査していたのに」
「バライシュか」父上は鼻で笑った。「哀れなやつだ。もう少し愚鈍であれば、憲兵隊になど行かずにすんだものを」
「どういう意味です? ……まさか……」
「あやつはずば抜けて優秀だった。軍に入れたら、いつか必ずお前の障害になったはずだ。憲兵隊にいてさえ、密輸を嗅ぎつけるほどなのだからな。初めから市中巡回班に回しておくべきだった」
「それじゃあ、バライシュを憲兵隊に入れたのも、市中巡回班に異動させたのも……」
「そうだ。最初こそ情けをかけてやったが、間違いだったな。お前からあやつがアテュイス様を疑っていると聞いて、『ご迷惑をおかけすることがあったら密輸捜査班から外せ』と憲兵隊本部に言いつけておいた。もしもあやつがアテュイス様のご不興を買えば、お前にまで累が及びかねん。あのお方は、次代の王になるお方なのだからな」
強く頭を殴られた気がした。父上は嘘をついていた。アテュイス様がバライシュを将軍候補から外したというのも、バライシュを本当の息子だと思っているというのも、全部。むしろ父上は、バライシュが努力して掴もうとしたものさえ奪っていた。
「こんな……こんな卑怯な真似をして出世したって、俺は全然嬉しくないのに!」
「そう思うなら、お前がもっと精進してあやつを超えればよかったではないか!」
シシーバは父上に掴みかかったが、逆に突き倒された。権力と策謀によって息子を導き、掴み合いの親子喧嘩はすげなく拒む。これが父親の愛だというなら、あまりにも虚しすぎる。
「アテュイス様は何もご存じない。明かしたくば明かすがいい。そんなことをしたら私は縛り首になって、お前もナジカやエナと引き離されて西方に送られるだろうがな」
どうやら他にも何か根回しをしているらしいが、シシーバはもう問い質す気にもなれなかった。
帰るぞ、と父上が言う。どれほど憎くても軽蔑したくても、この人は実の父親で、同じ場所に帰らなければならないのだ。
「……俺は、少しひとりになりたい」
シシーバは立ち上がる気力すら湧かず、ぼんやりと答えた。
「そうか。……好きにしろ」
父上が将軍室から出て行く前に、ひとつだけ尋ねたいことがあった。
「キョウ族は俺の敵方だった。……あなたが送った剣が、俺を殺すかもしれないとは考えなかったのか」
父上は振り返らずに答えた。
「殺し合いは兵士の役目だ。将軍候補が先頭に立って戦うなど、兵士の命を背負う覚悟のない者がやることだ。……それも分からぬほど愚かなら、大将軍になどならずに死んだほうがよほど幸せだぞ」
ひとりになった瞬間、北で受けた古傷がことごとく
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