第六章 覚醒
一 バライシュ
ニアーダ王国暦五一〇年 冬
ニアーダ王国に、暗黒の時代が訪れていた。
アテュイス様が摂政になってから五年、その政策はすでに行き詰まりを見せていた。西方の軍備増強と憲兵増員のために重税を課したせいで、困窮して逃亡する民が続出した。貧困から盗人に身を落とす者や少女の身売りも後を絶たず、チェンマの治安はアテュイス様が当初掲げた方針に逆行して日に日に悪化していった。
もちろん近臣の中には、軍事費を抑えて民の暮らしを安んじるべきだと
さらにアテュイス様は、シャーニン教の寺院が慈善活動として浮浪者に食糧や金品を与えるのを禁じ、従わない寺院は取り潰しにするとまで宣告した。
これにはシャーニン教の僧侶たちから猛反発の声が上がり、トーネン寺の法王から正式に抗議文が出された。シャーニン教は国教、最高神バースはニアーダ王家の祖である。貧民救済はシャーニン教のもっとも基本的な教理のひとつであり、それを尊重しない法令を発するのは、わが国の文化的根幹を揺るがし、またアテュイス王子自身を含むニアーダ王家の血統を否定する不敬千万の行為である、と。
これに対するアテュイス様からの返事は、たった一行だけだった。
「私には、神の血など一滴たりとも流れていない」
貧民への施しをやめない寺院に対しては憲兵隊が動員された。僧侶も貧民もみな連行され、抵抗する者はその場で容赦なく殺された。憲兵は
***
二十七歳になったバライシュは隊長に昇進し、相も変わらず市中巡回に携わっていた。
サリアと離縁してから二年が経つが、コーウェン様に憲兵の仕事を取り上げられることはなかった。寛大なお心のおかげか、裏切り者には「汚れ仕事」をやらせておけばいいということなのか、それとも単に関心がなくて放置されているだけかは分からない。いずれにせよ仕事があるのは救いだった。こんな世の中では、センリとサエを養えるような別の仕事を見つけるのはまず不可能だった。
――俺とバライシュで、命を懸けてこの国を守ろう。
ともに誓い合ったシシーバとは喧嘩別れし、バライシュは二人の孤児を養うために別の孤児を木刀で打ち払う毎日に甘んじていた。なぜこんなことになってしまったのだろう、と頭によぎったのは最初のうちだけだった。考えれば考えるほどつらくなるだけだ。親友を忘れ、誓いを忘れ、ただ目の前の仕事を淡々とこなすだけの、無感情な憲兵になるしか耐え忍ぶ道はなかった。
そしてバライシュの隊にも、シャーニン教寺院への抜き打ち調査が課せられることになった。
この年、亜熱帯の国ニアーダを大寒波が襲い、史上例を見ない大雪が降った。何日も空を暗雲が覆い、白い塊がひっきりなしに降り注いだという。チェンマの人々は一歩ごとに足首まで埋まるほどの積雪など見たことがなかった。人々は「バース神の怒りだ」と口々に噂し合った。
真昼の太陽を隠した薄暗い空の下、牡丹雪が降り注ぐ中を、紺色の外套を着た憲兵百人が行進する。雪を踏みしめる規則正しい足音だけが響いた。街の人々は避けるように道を空け、うつむいて憲兵と目を合わそうとしなかった。
その日標的になっていたのは、何の因果か、他ならぬ幼少のバライシュに温かい粥を恵んでくれたあの寺だった。昔は万民に対して開かれていた赤門は閉ざされ、内側が見えないようになっている。バライシュの拳がぶるぶると震えるのは、寒さのせいだけではなかった。
「憲兵隊である! 門を開けろ!」
バライシュが強く門扉を叩くと、ややあって中から若い男の声で返答があった。
「寺は吹きさらしですので、冷たい風が燭台の灯を消さぬように閉ざしております。どうかご理解を」
「何もなければすぐにすむ。開けろ」
ややあって赤門が重々しく開いた。境内には僧侶が数名いるだけで、一見すると施しを待つ貧民はいないように見えた。だが明敏なバライシュは、真新しい雪に残った無数の足跡と、鼻をくすぐる懐かしい白粥の匂いに気づかずにはいられなかった。
できることならこのまま見逃してしまいたかった。だが百人の部下の中には、一人くらいは同じことに気づいている者がいるはずだ。葛藤の末、結局バライシュはかつての恩義よりもいまの生活を選ばざるを得なかった。
「あの蔵を調べろ」
バライシュが足跡の続く先を指すと、僧侶たちは明らかに動揺した。案の定、中にはみすぼらしい身なりの老若男女が十数人かくまわれていた。
「この寒さで外に放り出されては生きていけません。どうか大目に見てはいただけませんか」
「駄目だ。これは摂政様のご意志である」
僧侶の懇願を強い口調で拒んだ。しかしたとえアテュイス様の命令でも、従うと決めたのは自分だ。任務だから仕方ないと割り切れるだけの無責任さを、不幸にもバライシュは持ち合わせていなかった。
蔵の中から骨と皮ばかりの人々が引きずり出され、逃げようとした者を斬り捨てた血が雪をじわじわと溶かす。ニアーダの神を祀っているはずの寺は、バライシュが下した命令によって阿鼻叫喚の地獄と化した。僧侶たちも、位の高低に関わらず寺の中にいる者まで全員が引き立てられていく。悪夢のような光景だった。
一人の
けれども老尼はバライシュを見つけてしまった。成長した「青い目」に彼女は皺の増えた顔で優しく微笑みかけ、そして背中を木刀で突かれながらよろよろと連れ去られていった。
バライシュは悪い夢から醒め、悪い現実に立ち戻った。いま僕は、少年時代に夢見た場所とはまるでかけ離れたところに立っている。こんなことしかできないなら、僕は十歳で死ぬべきだった。彼らは僕が生き延びた代わりに死ななければならないのだ。陛下もお喜びになるはずがない。
「隊長、ネイル隊長」
新入りらしい若い憲兵に肩を叩かれて、バライシュはようやく我に返った。
「摂政様がお見えであります」
運命の悪戯というものは、重なるときは重なるものだ。
何の気まぐれか、アテュイス様が近侍を連れて視察にやって来た。雪よりも白い馬に乗り、汚れなき白い衣をまとったその人のために、バライシュはいまにも崩れそうな膝に力を込め、直立不動の姿勢を保たねばならなかった。
「あなたが隊長ですか」
「はっ。バライシュ・ネイルと申します」
「バライシュ……ですか」
バライシュは歯を食いしばり、じっと馬上のアテュイス様を見つめた。多少は聞き覚えがあるはずだろう。あなたが圧力をかけて、憲兵隊に回した男の名だ。
しかしアテュイス様は薄く微笑んで、「良い名前ですね」と言っただけだった。バライシュの胸中に憎悪がよどむ。僕の名は、アテュイス様の記憶にすら残っていなかった。
「蔵に乞食を隠していたとは、僧侶というのも案外ずる賢いものですね。よくぞ見破りました」
「私も、昔その『乞食』でした」
バライシュはアテュイス様から視線を逸らそうとはしなかった。近侍が不敬な態度を咎めたが、当のアテュイス様本人は全く意に介さず、にやにやと笑っていた。
「ならば、さしずめあなたは乞食の星ですね。彼らもあなたを手本に精進して、立派にお国の役に立つべきなのです」
星、という言葉に虫唾が走る。自ら生み出した貧民を蔑称で呼んで憚らず、弱者がさらなる弱者をいたぶることを誉れとするこの男に。
「……私のような者でさえ輝くとは、よほどこの世の闇は深いようですね」
アテュイスがぴくりと眉だけを動かす。
バライシュは形だけの敬礼を残してアテュイスの前から去った。後のことを部下たちに任せ、バライシュは雪道を矢のように走った。まさしく彼は、放たれた矢そのものになった。
この地獄は終わらない。アテュイスが君臨し続ける限り。
バライシュはいまや隠れ家ではなくなった我が家へと駆け込んだ。センリがサエにコーク族の文字を教わっている最中だった。思いのほか早く帰ってきたバライシュに二人は驚き、そして怯えた。バライシュの呼吸は荒かった。手には短刀が握られ、その刃の煌めきよりも危うい光が青い双眸に宿っていた。
「落ち着け、バライシュ」
センリがサエをかばって立った。ただならぬ雰囲気に、女言葉を選ぶ余裕がない。
「お許しください、殿下」
そう口走ると、バライシュは力任せにセンリを引き倒した。うつ伏せに倒れた王子の背に馬乗りになり、うなじに刃をあてがう。サエが腰に取りついて必死に止めようとするが、大男のバライシュには非力すぎる。センリも抵抗するのをやめた。
「殺したくば殺せ。お前に殺されるなら本望だ」
バライシュは無言でセンリの頭を押さえつけた。
「……お許しください」
バライシュが短刀を薙ぎ払う。だが転がったのはセンリの首ではなく、長い黒髪の一房だった。バライシュはセンリを解放し、彼と向かい合って座した。
「どうか王になられませ、殿下。それがどうしてもお嫌なら、ここで私を殺してください」
短刀を差し出し、額を床にこすりつけたとき、いままで堪えてきたものが
「この国を、――私を……お助けください……」
もはや懇願しているつもりはなかった。アテュイスの圧政にあえぐ国民や、亡き陛下のためですらなかった。ただただ我慢の限界だったのだ。この暗闇から解放されたい、それだけしか頭になかった。バライシュはごく私的な理由で、王子を脅迫しているにすぎなかった。
「わ、私は……」頭上からセンリの震え声だけが聞こえた。
そのとき強く床を蹴る音がして、バライシュは顔を上げた。今度はサエがセンリに短刀を突きつけていた。
「王になれ、センリ。ならないと私がお前殺す」
「やめろ、サエ。来るな」
サエはさらにいざり寄る。センリを壁際まで追い詰めて耳元に短刀を突き立てるのを、バライシュは呆気に取られて見ていた。
「お前はずるいよ、センリ」
サエはセンリの緑の目を見つめて言った。
「私、全然お父さんにありがとう返せてないよ。お父さん泣いてても、何もしてあげれないよ。でも、センリ違うでしょ? 王になれるでしょ、何でならない? お父さんに殺されてもいいなら、いますぐセンリを殺して王子に戻れ!」
言葉が募るほどにサエは涙を溢れさせた。
「もういい、サエ」ようやくバライシュはサエを抱きしめた。「僕にとっては、恩返しなんかどうでもいいんだ」
言ってから気づいた。それは、バライシュ自身が一番聞きたかった言葉だった。
本当は恩返しがしたいのではなかった。むしろその逆だった。何の役に立たなくてもいい、ただ生きているだけでいい、そんな人間になりたかった。恩讐や貸し借りのない関係が欲しかった。先王陛下、コーウェン様、そしてシシーバ。自分を生かしてくれたあらゆる恩を背負い込み過ぎて、いつの間にか本当の望みを見失っていた。
「サエ、すまない……。僕のせいだ」
バライシュは何度も繰り返した。サエは娘だから、父親に似てしまったのだ。
「……サエの言う通りだ」
センリがぽつりと言った。自分が乱暴に断ち切った髪を見て、バライシュは震えた。
「……僕は、僕は……何という愚かなことを……」
「よいのだ、バライシュ」
センリが立ち上がった。出会った頃よりも、随分背が伸びていた。
「私は卑怯だった。ここに閉じこもって女のふりをしていれば、別の人間になれると信じていた。私がお前に払わせた犠牲は大きすぎる……許しを請わねばならぬのは、私のほうだ」
「おやめください殿下。あなたまで、僕に恩を返すなどとおっしゃってはなりません」
「違う」
センリの緑の目に、強い意志の光が宿る。
「私はお前たちを守りたい。それが、いまの私の望みだ」
サエが取り落とした短刀を拾い、センリは切り残した髪を自ら切った。
「バライシュ、私に力を貸してくれ。再びこの国に返り咲き、王となるための力を」
彼は女から男に戻ったのではなかった。ただ育つべき姿に育ったのだ。薄暗いあばら家の中で、覚悟を決めた先王の遺児は凄絶ささえ帯びて美しく、またも見る者の言葉を奪い去った。
バライシュは思わず口走る。――陛下、と。
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