三 シシーバ

 ……これはいったい、どういうことなんだ。

 シシーバは将軍室で黄ばんだ帳簿を眺めながら、頭を抱えていた。

「なあ、ドイコイ。うちの軍、武器の返品廃棄が多すぎないか」

 ドイコイは、東方将軍府で帳簿係を務めている上兵タキだ。彼は薄くなった白髪頭を撫でながら、シシーバに「そうですかねえ」と間延びした答えを返す。

「なにぶんここ以外の軍を知らないもんで、そういうもんだとばかり思っていたんですが」

 ぬっと顔を突き出して覗き込むドイコイに、シシーバは丁寧に説明してやった。東方将軍府はもう何十年も大きな戦いをしていないのに、剣の損耗による廃棄が大量に発生していた。そのうえ返品した不良品の数も多すぎる。武器を捨てたり返品したりして数を減らした場合、帳簿には朱色で記録されるが、ここ数年間は朱色の行が多すぎてまるで縞模様のようだ。

 よほど武器の手入れが雑なのか、粗悪品を買わされているのか。いずれにせよ無駄な費用が嵩んでいることには変わりない。

「帳簿と実数は合ってるんですがねえ」

「合ってればいいって問題じゃない。原因を調べないとな。ドイコイ、武器庫の管理係と買付係にも話を聞いて、明日中に改善点を文書にまとめて報告してくれ」

「ええっ」

 ドイコイは露骨に面倒くさそうな顔をする。シシーバが「早く行ってこい!」と拳で机を叩くと慌てて出て行った。若造だと思ってなめられては困る。柄にもないことをして、手がずきずきした。

 シシーバは深いため息をつく。ここでは万事がこの調子だ。軍人がすっかり平和ぼけして、日々の仕事をおざなりにこなすことしか考えていない。練兵は形骸化しているし、軍議では居眠りしている将軍さえいる。

 これが父上の統括する東方軍なのだと思うと余計に情けなかった。父上は西方に呼び出され、もう十日以上も東方将軍府から離れている。アテュイス王子の発案で、西方の国境警備に一部の東方軍も合流することが決まっていた。

 多忙すぎる父上の役に立ちたかった。しかし武器の件以外にも問題は山積みで、シシーバひとりですべてを解決するのはとても無理だ。せめて優秀な副官がいてくれたら――そう考えたとき、ふとバライシュの顔が思い浮かんだ。

 ――俺が将軍になったら、きっとお前を引き抜いてやるからな。

 バライシュに不公平な辞令が下されたあの日から、実に六年が経っていた。

 将軍には副官の任用権が認められている。正直なところ、シシーバはいまのいままで自分の言葉を忘れていたのだが、それを抜きにしてもバライシュを副官に迎えるというのは悪くないように思えた。バライシュは腕が立つし、算術が得意だから事務仕事にも向いている。ついでに外見が厳ついから、シシーバも部下になめられずにすむだろうという下心もあった。

 もうひとつ、シシーバは数か月前にサリアに聞いた話が気にかかっていた。バライシュに愛人がいるらしいという話だ。

 シシーバの副官になれば「密輸捜査のために帰れない」という嘘は使えなくなる。あのバライシュが愛人なんか作るわけないが、万一本当だったとしても会えなくなれば自然と縁も切れるはずだ。

 早速シシーバは筆をとった。文章を書くのはあまり得意ではないものの、バライシュがいかに副官として必要かをしたためるのはさほど苦にならなかった。バライシュに対して思っていることを正直に書けばいいからだ。もしかしたらアテュイス王子が許してくれないかもしれないが、憲兵隊に打診してみるくらいはいいだろう。

 書き終えるころ、ちょうど夕刻の鐘が鳴った。日が落ちるのが遅くてそれと気づかなかったが、もう家に帰る時間だ。墨を乾かす時間さえも惜しく、シシーバは推輓状すいばんじょうに文鎮を載せたままで将軍府を出た。

 シシーバが毎日急いで家へ帰るのは、夫婦で少し早めの晩酌をするためだ。暗くなる前にナジカと二人で裏庭へ出て、一番星を眺めながら酒を酌み交わす。喋っているのはほとんどシシーバだった。その日の軍務中に起きたことを思い返して、ナジカに聞いてもらうのだ。姫を守るなんて壮大な決意をして結婚したくせに、むしろ年上のナジカに甘えている。おかしくて照れくさくて、こぼれそうになる笑みをかみ殺しながら家路につく。

 ところがその日は、シシーバは晩酌をしそびれることになった。客人がシシーバの帰りを待っていたからだ。サリアの父親、ボエン叔父さんだった。叔父さんはシシーバの姿を認めるやいなや、杖を突くのも忘れてシシーバに飛びついてきた。のんびり屋のボエン叔父さんが、こんなに焦っているのを見るのは初めてだった。

「シシーバ君、バライシュ君がどこに行ったか、知らないかな?」

 気が動転して言葉がまとまらない叔父さんの代わりに、ナジカが言葉を補う。

 五日前、サリアはボエン叔父さんの家に戻ってきた。バライシュに愛想を尽かして別れを告げてきたという。しかし叔父さんはさほど重大に捉えていなかった。どんなに仲睦まじい夫婦だって喧嘩くらいするものだ。優しいバライシュ君なら、きっとすぐに迎えに来てくれるだろう、と。

 しかしバライシュは一向に姿を見せず、サリアは食事も喉を通らないほど憔悴し、ついに臥せってしまった。

 シシーバの浮かれた気分は一気に引いていった。

「行ってあげて、シシーバ」

 ナジカが言った。シシーバは頷く。

 馬を出したのは、バライシュが遠くへ行っている可能性も考えてのことだった。まずシシーバは憲兵隊本部に向かった。上官や同僚なら、バライシュの行先を知っているかもしれない。

 憲兵隊本部に足を踏み入れるのは初めてだった。華やかな将軍府とは違って、土壁の地味な建物だ。ここでは夜でも大勢の人が働いている。入口で最初に見かけた憲兵をつかまえると、彼は慌ててバライシュの上官を呼びに走った。どうやら、突然やって来た大将軍と同姓の青年に驚いたようだ。

 やがてメイサディと名乗る小柄な男が現れた。バライシュは体調が悪いと言って、三日前から休んでいるらしい。シシーバは夜分に私的な用件で呼び立てたことを丁寧に詫び、バライシュに急用があるので居所を教えて欲しいとだけ頼んだ。

 メイサディは怪訝な顔をしたままだった。

「なぜ大将軍家のご子息が、バライシュのことをご存知なのです?」

「彼は私の親友です。兄弟と言ってもいい。バライシュから何も聞いていませんか」

「なんと」メイサディは目をむいた。「孤児だったのを拾われたとは聞いていたが、まさか大将軍家で育てられていたとは」

 メイサディはバライシュの居所に心当たりがあった。バライシュはナコン近くに隠れ家を持っていて、二年ほど前からそこで女の子と一緒に暮らしているようだ。

「女の子」という言葉にシシーバが眉をひそめると、メイサディは手を自分の胸あたりにかざしてこう補足した。

「私が見たのはこんな小さな女の子です。コーク族の訛りがありました。おそらくは親を亡くした子でしょう」

 浮かびかけた疑念はすぐに払拭された。なるほど、愛人を囲っているのではなく、孤児を拾って養っていたのか。シシーバは内心ほっとしたのを顔に出さぬよう努めた。にもかかわらず、メイサディは見透かしたようにこう言った。

「若将軍、バライシュをよろしく頼みます」

 シシーバは黙って頭を下げた。憲兵隊本部を後にし、メイサディに聞いた場所まで向かう。馬が必要なほど遠くはないが、徒歩で行くとそれなりに時間がかかりそうな距離だった。素朴な家が並ぶ通りには灯篭がほとんどなく、辺りは徐々に薄暗くなってきていた。

 ――こんな家が、バライシュの隠れ家なのか?

 外壁や玄関の引き戸にはところどころ修繕の跡が見られるが、お世辞にも立派とは言えない家だった。一般的な平民の住宅よりもずっと粗末で、キューアン邸の鶏舎よりはるかに狭い。貴族のシシーバには、こんなところに人が住めるとは思えなかった。半信半疑で引き戸を開けると、伺いを立てるより先に声がした。

「あら、早かったわね。塩はちゃんと買ってきてくれたの? それとも忘れ物?」

 少しかすれた、女性にしては低めの声。黒髪の女が台所で青菜を切っている。メイサディに聞いていたよりも背は高く、子どもには見えなかった。

「ねえ、サエ……」

 振り向いた女が、シシーバを見て息を呑む。シシーバがその瞳の色を認めるより先に、奥からバライシュが飛び出して背後に女を隠した。

「シシーバ……」

 自分の表情が、だんだん険しくなっていくのが分かる。シシーバはバライシュを睨んだ後、努めて冷静に言った。

「俺は何も見なかったことにするから、帰ってサリアに謝れ」

「違うのだシシーバ、私は……」

 女が何か言う前に、バライシュは「帰らない」と答え、あまつさえ「僕の帰る場所はここだけだ」とつけ加えた。

「僕の望むようにしろと言ったのはお前だ。お前が命令したんだ、シシーバ。だから僕はここにいる」

「……俺のせいだって言いたいのか?」シシーバは自分の耳が狂ったのだと思いたかった。

「違う。お前のおかげだ」

「冗談じゃない。お前が出て行ったせいで、サリアは寝込んでるんだぞ」

 それを聞いても、バライシュの青い目は一瞬かげっただけだった。サリアのことは心配なのだろうが、良くも悪くも彼の意志は強固すぎた。

「別れを言い出したのはサリアだ。僕たちはもう夫婦ではない」

「お前……自分の言ってることが分かってるのか?」

 サリアが愛想を尽かしたのは、お前が愛人を作ったからじゃないか。そう言わなかったのは、バライシュの背後で震えている女性への最低限の配慮だった。

 シシーバは喉元までこみ上げる怒りを堪え、何とかバライシュを説得しようと試みた。サリアとの結婚は、父上とボエン叔父さんが取り持ってくれたものだ。だからこれはサリアのみならず、キューアン家に対する背信でもある。

「父上が西方から帰ってきたら、きっとひどくお怒りになる。だからいまのうちに戻って来い」

 バライシュの恩義を重んじる性格に訴えかけたつもりだったが、むしろ彼は唇を歪めて冷笑を浮かべた。

「お前はそうやって、また僕に命令するんだな」

 嘲るような調子なのに、なぜかその青い目は悲しげにシシーバを見下ろしていた。

「サリアが寝込んでいるから、コーウェン様が怒るから……それが僕を連れ戻す理由か? やっぱりお前はそんなことしか言えないんだな。僕はお前を可哀想に思う」

「何だと……?」

 バライシュに憐れまれる筋合いはない。キューアン家に生まれたときからずっと、自分は恵まれている。可哀想なのは、むしろ青い目の孤児として生まれてしまったバライシュのほうではないか。それなのに、なぜかシシーバは言い返せなかった。

「命令しさえすれば僕は黙って従う。命令する根拠を他人に求めれば、お前自身が何を望んでいるのかは言わないですむ。言えないんだろう。望みを拒まれるのが恐ろしいからだ。でも、それでお前は幸せなのか? お前の望みは何だったんだ?」

 バライシュの言葉は、寒気がするほど耳に障った。バライシュは当然のようにシシーバが不幸だと決めてかかっている。彼にとっては、シシーバはいまでも家の言いなりになるだけの無力な子どもなのだ。それがシシーバには不愉快だった。自分はもう、黙ってサリアを諦めたあの頃とは違う。

「話をすり替えるなよ、バライシュ」

「すり替えてなどいないさ」

 バライシュはすぐさま言い返してきた。

「何も持っていない僕は、自分の望みを追うだけで精一杯だった。そのうえサリアの求めるものを与えるなんて、最初から無理だったんだ。くだらないしがらみなど無視して、お前がサリアと結婚するべきだった。それがお前の望みだったんじゃないのか!」

「ふざけるのもいい加減にしろ!」

 衝動的にシシーバはバライシュを突き離し、頬を思い切り殴っていた。女が悲鳴を上げる。殴った痛みが骨を伝って肩まで響いた。殴られたほうの痛みは分からない。バライシュは壁にもたれかかって座り、シシーバを睨み返していた。

「そんなに俺の望みが聞きたいなら教えてやる。俺はただ、お前とサリアに幸せになってほしかった。……それだけだった」

 もうついえた望みだった。バライシュは二度とサリアのもとへは帰るまい。そしてキューアン家との縁もこれで終わりだ。

 シシーバは、親友と兄弟とを一度に失った。

「ごめんセンリ、塩、売り切れでなかなか見つからなかったよ……」

 間が悪く、ぱたぱたと元気のよい足音が聞こえてくる。シシーバは少女と入れ違いになる。流血するバライシュを見た少女の悲鳴が背中越しに聞こえた。

 シシーバは馬をひたすらに走らせた。キューアン邸へ帰り着くまで、汗に交じって涙が噴き出しているのに気づかなかった。その顔を見たボエン叔父さんが、くずおれて杖を転がした。

 ナジカは何も言わずに手を差し伸べてくれた。シシーバがその膝にすがりつくと、汗まみれの髪を嫌がりもせずに撫でてくれた。いまではナジカ以外の妻など考えられない。バライシュの言葉は、シシーバやサリアだけでなく、ナジカをも侮辱していた。

 シシーバはバライシュを許せなかった。何もかもを裏切って、愛人に逃げてしまったバライシュの弱さを。

 翌朝、シシーバは将軍室の机上に推輓状を見つけると、つい昨日心を込めて書いたばかりのそれを、自らの手で破り捨ててしまった。 

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