二 バライシュ

 ニアーダ王国暦五〇八年 夏


 市中巡回を終えたバライシュの足は、その日も東へと向かった。

「お父さん、お帰り!」

 サエに「ただいま」と返事をするようになったのはいつからだろう。「お父さん」と呼ばれるのにもすっかり慣れていた。

「お帰りバライシュ。晩ごはん、できてるわよ」

 微笑んだのはセンリだ。ここにはその正体を知っている者しかいないが、「彼女」はいまだに女言葉をやめようとしない。

 女中のふりをしている間に、本当に料理まで覚えたらしい。とはいえ、センリにできるのは米を炊くことと適当な具材を煮込むことくらいだ。味つけも大雑把で、日によって出来栄えにむらがあるが、バライシュにとってはこれ以上ありがたい食事はなかった。王子に夕食を作らせているなんて、五年前の自分が聞いたら卒倒しそうだ。

「センリ、今日の煮物はちょっとしょっぱすぎるね」

「あなたが最後に塩足したからでしょ」

「何言うか。センリが魚醤ロドス入れすぎたせいね」

「作ってあげたのに文句言わないで」

「買い物してきたは私よ?」

「お金の計算もできないくせに」

 サエとセンリはすぐに仲良くなった。憎まれ口を叩き合ってはいるものの、お互い歳の近い話し相手がいて退屈しないようだ。サエのニアーダ語もかなり上達したし、最初は硬かったセンリの表情も柔らかくなってきた。

「いつかおとうさんの奥さんに料理教えてほしいね」

 サエは無邪気に言う。答えに困ってバライシュが曖昧に笑った。

「あなたは料理より先に、ちゃんと勉強したほうがいいわ。ニアーダ文字が読めないんじゃ、この先不便よ」

「センリ、いちいちうるさい。私、コーク文字なら知ってる。それに弩も使えるね。買い物できなくても、狩りできる」

「冗談でしょ、それで食べていく気? もう、バライシュも何とか言って。弩なんて危ないものを子どもに持たせちゃだめよ」

 喧嘩をするな、とバライシュは二人をなだめる。どちらかの味方につくと、余計面倒なことになるのだ。

「ねえバライシュ、もう四日も連続でここに泊まっているでしょ。しばらく奥さんのところへ帰ったほうがいいんじゃなくて?」

 喧嘩が収まったかと思えば、今度は自分に矛先が向いた。バライシュだってサリアが恋しいが、センリを置いていくのが不安でつい隠れ家へ帰ってきてしまう。刺客に襲われでもしたら大変だ。

「死人に刺客なんか来ないわよ」とセンリが鼻で笑うと、サエも「奥さん悲しませるのは、すごくだめよ」と続く。

「分かった。明日は非番だから、家に帰る」

「明日と言わず、明後日も帰りなさいよ」

「しばらく来ないでよろしいよ」

 バライシュは苦笑した。サエはともかく、センリにまっすぐ緑の瞳を向けられると弱ってしまう。

 布団に入った後も、二人はサリアのもとへ帰れと念押しに言った。狭い隠れ家ではいつも、バライシュはサエとセンリに挟まれて窮屈な格好で寝ている。つらい経験をして両親を失い、兄弟姉妹とも離ればなれになった二人は、いまでも時折悪夢にうなされることがあるからだ。その日サエはすぐに寝入り、反対にセンリは何度も身じろぎしていた。

「眠れないのですか、センリ」

 サエを交えないとき、バライシュはセンリに対して自然と敬語になった。本人が嫌がるので王子とは呼ばないが、彼が先王陛下の子ジュディミス・ニアーダであることには変わりはない。

「バライシュ。……本当に、お前にはすまないと思っている」

 センリはバライシュに背を向けたまま言った。

「もう二年も、お前の世話になってしまっているな。本当は一刻も早く、ここから去るべきなのに」

 あの料理屋は、憲兵隊に符丁が漏れた以上もはや安全とは言えなくなった。だからしばらくの間、ここでバライシュがかくまうことになったのだが、死んだことになっている王子には行く当てなどなかった。のこのこと城に戻るのは危険だ。国王と同等の権力を手にしたアテュイス様が、素直に王位を返してくれるとは思えない。

「王族になど、生まれたくなかった」

 センリは偽らざる本音を漏らした。物心ついたときからいやおうなく礼儀作法とあらゆる学問を厳しく学ばされ、自由に城の外に出ることもできず、友達と呼べる人もない。従兄のアテュイスには憎まれ、片時も心の休まる暇がなかった。王位なんて、欲しければいくらでもくれてやるのに。国民すべての幸福に責任を負わねばならないなんて、自分には恐ろしすぎた。

「お前が敬愛する先王の子は、こんなにも情けない人間なのだ。さぞかし幻滅したことだろう」

「いいえ」バライシュが微笑んだのは嘘ではなかった。「あなたのお気持ちが、少しは分かるような気がいたします。僕の親友も同じでしたので」

 バライシュはセンリに幼き日のシシーバを重ね見ていた。生まれながらにして大将軍になることを運命づけられ、泣きながら竹刀ビリンを握っていた優しい友の姿を。

「シシーバか」

 センリは一度も会ったことのない義兄の名を、感慨深げに呟いた。

「センリ、……本当に、姉君にお会いしなくてよいのですか?」

 バライシュは迷っていた。シシーバやコーウェン様にだけは、ジュディミス王子が生きていると知らせるべきではないか。王子が身を隠すなら、ここよりもキューアン邸のほうが衣食住の面でも安全の面でも適しているし、何より姉上と一緒に暮らせる。

「……姉様はようやくお幸せになれたのだ。私が大将軍家に姿を現せば、姉様を面倒な事に巻き込んでしまうかもしれない」

 ナジカ姫は王子に遺されたただ一人の家族だ。料理屋で密偵から聞いていたのは、ほとんど姉君の近況だったのではないかとバライシュは推察している。それでもセンリは、ナジカ姫には一生会わないと決めていた。

 バライシュにもセンリと同じ懸念があった。王家への忠誠心厚いキューアン家の父子が、正統なる王位継承者を差し置いてアテュイス様が権力を振るっている現状をよしとするはずがない。彼らは本人が望むと望まざるとにかかわらず、ジュディミス王子を再び祭り上げてしまうのではないか。

「バライシュ、いろいろと面倒をかけて本当にすまない。王族の地位を捨てた私など、何の価値もないものを」

「それは違います。僕は、あなたが生きていてくださって本当に嬉しいのです。あなたのお父上に救われ、『助ける者バライシュ』の名を頂いたときから、ずっと恩返しがしたいと思っておりました。まさにいまがそのときだと思うのです。あなたが王位ではなく自由を欲されるなら、僕はそのために働きます」

 センリから答えはなかった。眠れたのならそれでいい。サエが苦しそうな声を上げたので、バライシュは髪を撫でてやった。大丈夫だ、僕はここにいる。そう念じながら。

 やがてサエが再び安らかな寝息を取り戻し、バライシュも眠気を感じ始めたとき、

「……いいな、バライシュは」

 背中越しにセンリの声がした。

「お前は強いし、身体も大きくて男らしい。私もお前のようになりたかった。守られる側ではなく、守る側の人間に……」

 十五歳の少年にしては小さな手が背中にすがりついた。五本の指先が筋肉の起伏をなぞっている。肩から背骨沿いにゆっくりと温かい感触が伝い、腰に辿り着く前に途絶えた。

 バライシュはあえて返事をせず、センリに背を向けたまま眠りに落ちた。


***


 目が覚めたときにはすでに日が高く上っていて、バライシュはセンリとサエに追い出されるようにして隠れ家を出た。

 長い間家を空けた罪滅ぼしに、道中の工芸品屋で赤い椿の髪飾りを土産に買った。それが時季遅れの花だとは知らない。ただサリアによく似合うだろうと思っただけだ。

 センリやサエに言われるまでもなく、このままではいけないことはよく分かっているつもりだった。サリアには隠し事を続け、センリには狹い隠れ家で不自由させている。それにもうサエは十三歳、センリは十五歳だ。コーク族なら結婚していてもおかしくはない。そろそろ狭い部屋で一緒に寝起きするにはふさわしくない年頃だ。

 センリも言ったように、早く彼を隠れ家から移すべきなのだ。そうしないのはバライシュの身勝手だった。隠れ家にはバライシュが求めてやまなかった二つのものがある。バライシュは王子に尽くす忠臣で、しかもサエの父親だ。そこに足りないのはサリアだけだった。

 サリアに本当のことを打ち明けよう。

 ついにその決心がついた。隠れ家でサエという孤児を育ててきたことと、ジュディミス王子をかくまっていることを、きちんと話そう。いまの自宅でも四人で一緒に暮らせなくはないし、もっと大きな家を建ててもいい。サリアにも重大な秘密を共有してしまうことになるが、それでもこれ以上隠しているのは不誠実だ。サリアならきっと分かってくれるという信頼感もあった。

「ただいま」

 自宅に帰り着いたとき、サリアの返事はなかった。いつもならすぐに玄関先まで来てくれるのに。昼寝でもしているのだろうかと思ったが、サリアは寝台の枕元に腰かけてうつむいていた。

「サリ……」

「遅かったわね」

 低い声でサリアが答える。バライシュはようやく、妻の様子がおかしいことに気づいた。

「なかなか帰れなくて、すまなかった」

 サリアが怒っているのは当たり前だ。バライシュがサリアの足元に膝をついて許しを乞おうとしたとき、彼女の手の中に何か白いものがあることに気づいた。小鳥だった。

 小鳥は目とくちばしを半開きにしたまま、冷たくなって動かなくなっていた。こないだ家を出る前は、元気よく鳴いていた気がするのに――いや、バライシュの記憶は定かでなかった。小鳥の存在なんて、いつからか目にも入らなくなっていた。

「ついさっき、死んだの」

 サリアはひどく泣いたらしい。目が赤いからそれと知れるだけだ。彼女が泣いているとき、バライシュはそばにいなかった。

「私、寂しかったわ」

 視線を落としたまま、サリアが呟く。

「また新しい小鳥を買ってこよう。今度こそ言葉を覚える鳥を……」

 そんな言葉が慰めになるはずがないことくらい、冷静に考えれば分かったはずだった。「これからはずっとそばにいる」と言えなかったのは、まだ秘密を打ち明けられていなかったからだ。

「私に必要なのは小鳥じゃなくてあなただった。……そんなことも分からないのね」

 サリアはゆるゆると首を振り、諦めたように笑った。

「優しいあなたが好きだったわ。子どものころから、いつだって私やシシーバに気を遣って、自分のことは後回しで。あなたなら私と一緒に歩んでくれるって、私を置き去りにしないって思ってた。……でも、違ったのね。これ以上ここで、いつ帰るかもわからないあなたを待ち続けるなんてできない」

「やめてくれ」

 バライシュは思わず懇願した。サリアに過去形で語られるのはたまらなく恐ろしかった。けれども、サリアは言葉を止めてはくれなかった。

「私、父さんの家に帰るわ。あなたも、どこへでも好きなところへ行ってちょうだい」

 サリアが立ち上がり、バライシュを通り過ぎていく。たぶん小鳥が死んだ悲しみで、少し衝動的になっているのだ。きっとそうだ。まだサリアを繋ぎ止める言葉は残されているはずだ。悪いのは自分だ。サリアの求めていたものを、与えることができていなかった自分が悪いのだ。誠意を尽くして謝るしかない。謝れ。――頭ではそう思うのに、心はバライシュに全く別の言葉を言わせてしまうほどに傷ついていた。

「……僕は、僕の欲しいものを追ってはいけないのか?」

 サリアは振り向きもせず、呆れたように笑った。

「私はものじゃないわ。……あなたの大切な、もう一人の誰かさんもね」

 さようなら、バライシュ。あなたが元気になってくれてよかった。

 それが別れの言葉だった。サリアが後ろ手に玄関を閉める音を、バライシュは二人の絆がちぎれる音として聞いた。目の前が真っ暗になった。足に釘を打たれたかのように動けず、あああ、と意味をなさない声が吐息とともに漏れた。両目がいやに渇いて痛かった。渡せなかった椿の髪飾りが、咲いたまま床の上に転がった。

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