第五章 訣別

一 シシーバ

 ニアーダ王国暦五〇八年 二月


 馬車がキューアン邸の門をくぐり、シシーバが白いヒオラの花嫁を抱えて降りてきたとき、待ち受けていた人々から祝福の声が上がった。

 車椅子と、ナミンという年老いた侍女だけを伴って、ナジカ姫はキューアン家に嫁入りした。春が急いで来てくれたかのように暖かく、空も清々しく晴れて、結婚するにはよい日和だった。シシーバは結婚式の場所に実家の庭を選んだ。キューアン邸の広い庭にも臘梅が咲いていたからだ。子どもの頃には目に留めさえしなかった地味な花が、いまでは親しみ深く感じられる。

 この日を迎えるまでに、結局二年もかかってしまった。ニアーダ軍の攻勢でキョウ族は徐々に後退し、北方の国境問題は沈静化した。シシーバも戦功を挙げて東方軍への転属が認められ、一万の兵を率いる将軍に出世してチェンマへ凱旋した。喪が開けてからさらに一年以上待たせてしまったが、これで晴れてシシーバはナジカと夫婦になれる。ひとつ肩の荷が下りた気分だった。

「皆さまもどうかナジカとお呼びください。よろしくお願いいたします」

 当時ニアーダの結婚式は、家族と近しい親族だけで行われるのが一般的だった。キューアン家の場合はそれに使用人が加わる。婚礼の宴の席で、ナジカは父上やボエン叔父さんのみならず、使用人の一人一人に至るまで丁寧に頭を下げて回った。シシーバもその車椅子を押して付き添った。

「ナジカ、身体はつらくないですか」

「大丈夫だよ、シシーバさん」

 これはナジカが望んだことだった。みなにこの結婚を認めさせるために、必要不可欠な儀式だったのだ。人々はナジカの腰の低さと、彼女を細やかに気遣うシシーバとの相性の良さに驚嘆した。

 王族からは代表してチュンナク第二王子が出席した。従姉の結婚にわんわん泣いて、シシーバに何度も感謝の言葉を述べる王子の姿は、この結婚がいかに素晴らしいかを皆に印象付けた。王には向かないと言われるチュンナク王子だが、この場において彼の心根はこの上ない美点として立ち現れた。

「はっ、はは、初めまして、ダラハットの従姉妹のサリアと申します。よっよろしく、お願いします!」

 高貴な姫を前にして、サリアはいつになく緊張気味だ。

「サリアでも、お姫様の前ではしおらしくなるんだなあ」

「もう、あなたは余計なこと言わないで!」

 シシーバがサリアにはたかれるお決まりのやり取りに、ナジカが笑った。

 やがてバライシュもやって来た。給仕の手伝いなんてしなくていいと言ったのに、どうにもじっとしていられない性分らしい。バライシュは膝を折り、車椅子のナジカよりも頭を低くして、先に挨拶をした。

「あなたがバライシュさんだね。父様からお話を聞いたことがあるよ。私にもう一人弟ができたらつけようと思っていた名前を、あなたにあげたのだよね」

 そのときバライシュは「申し訳ございません」と口走った。

「謝らないで。生き別れた弟に会えたみたいで嬉しいよ。……きれいな色の髪だね。触ってもいい?」

 ナジカの手が届きやすいように、バライシュが顔を上げた。ナジカの細い指が、優しく銀色の髪に触れた。バライシュの青い瞳と、ナジカの緑の瞳が見つめ合ったとき、バライシュは弾かれたように立ち上がった。「申し訳ございません」とそればかり繰り返し、口元を覆って逃げるように走り去ってしまった。

 サリアが代わりに失礼を詫びた。「悪いことをしてしまったかな」とナジカが呟く。

「あいつ、まだ、……立ち直れてないんだな」

 シシーバはナジカの前で言葉を濁した。サリアは物憂げに首を振る。

「確かに半年くらいはずっと落ち込んでいたけど、最近はすごく元気だったのよ……」

 サリアには何か言いたいことがあるように見えたが、口をつぐんでしまった。暗い話は婚礼の日にふさわしくない。シシーバも気にはなったものの、この場で聞き出すことはできなかった。

 月が出るころ宴は完全にお開きになり、二人に最初の夜が訪れる。

 シシーバは先に風呂から上がって寝室で待っていた。昼間は暖かかったのに、夜は肌寒い。早くナジカに来てほしいと思うのは、そのせいだと思うことにした。

 寝台はもちろん二人用の大きさだ。万一汚れてもいいようにと、敷布が多めに敷かれている。一般の新婚夫婦ならこれからすることは一つしかないが、枕元に置いた茶色の小筒を見つめながら、シシーバはまだどうするべきか迷っていた。

 ナジカに子どもは産めない。医者はそう言ったらしいが、シシーバが聞いてきたのはそれを否定する話だった。「医者なんてみんな男だからね、女のことなんかたいして分かっちゃいないのさ」――北で複数人の商売女から聞いた話だ。金を払ったのに行為には及ばず、ただ相談に乗ってほしいと頼んだシシーバに対して、彼女らは親身になって応じてくれた。筒の中には、彼女らが「念のために」と分けてくれた薬が入っている。

 ナジカのような女性が子どもを産むのは、もちろん人並み以上の大変な苦労を伴うが、全く不可能でもないらしい。そのことを知ったとき、シシーバは喜ぶよりも不安だった。大将軍になって家勢を保つための結婚なのだから、養子を取るよりも血の繋がった子ができるに越したことはない。しかしそれはナジカの身体に大きな負担になる。家名よりも妻の身を案じるのは、人間として当然の思いやりのはずだ。

「お待たせ」

 悶々と考えていたら急にナジカが現れて、思わずびくっとした。華やかな化粧を落とし素顔に戻った新妻は、さすがに少し疲れた顔をしていた。車椅子を押していたナミンが下がると、いよいよ二人きりだ。

「あの」

「あ、ああ、すみません」

 シシーバは慌ててナジカを抱える。首元にしがみつくナジカの体温と、洗い髪から漂う花の香りで目も眩みそうになるのを堪え、彼女を寝台の上に寝かせてあげた。シシーバもその隣に潜りこんだが、全然眠れる気がしないまま天井を見つめていた。

「ねえ、シシーバさん」

 ナジカが言った。

「このまま寝る? ナミンには、がすんだら呼んでくださいって言われているのだけど」

「えっ」

 びっくりしてシシーバはナジカを見た。ナジカは天井を向いたままあっけらかんと話す。風呂上がりに寝間着を着せてもらうとき、すぐに脱がされることを考えておむつはつけなかったので、寝る前に一度侍女を呼ぶ必要がある、と。

「無理にしなくてもいいよ。私こんな身体だから、いろいろ不都合なこともあるだろうし」

 こんなことを花嫁に言わせるべきではなかった。シシーバが一生ナジカを守ると覚悟したように、ナジカはシシーバに一生拒絶され続けることを覚悟してここへ来たのだ。

「したくないわけではない、……というかむしろ、したくてたまらない、のですが……」

 謝る代わりにシシーバは正直な気持ちを話し、そこに一般的な理由を探そうとした。

 夜だから。隣に女が寝ているから。結婚を決めて女遊びをやめたから。けれどもそれらの理由だけでは、逆接の後に続く思いを説明することができなかった。

「この二年間、俺はずっとあなたに会いたかった。……だからこれで、十分と思うべきなんだ」

 シシーバはナジカの手を握った。身体を重ねることと、子作りとがひと続きにある人の身の不便さを思う。跡継ぎなんていらない。ただナジカに触れたいだけだ。けれども彼女の身を危険にさらすのが、どうしようもなく恐ろしかった。

「可愛いな。可愛すぎるよ、シシーバさん」

 ナジカが顔だけをこちらに向けて微笑んだ。可愛いと言われても、男としては嬉しくないのだが。

「でもね、私はあなたの子どもができたら嬉しいよ。死ぬかもしれないって怯えるよりは、産めるかもしれないって希望を持っていたいな」

「前向きだなあ」

「あなたのおかげだよ。だいたい私一度死んだようなものだから、もう怖いものなんてないし」

 少女のように純真な眼差しだった。ナジカはいつでも、自分にできることをする人なのだ。

 シシーバはようやく身体を起こした。

「ナミンにはもう寝ていいと伝えてくる。後のことは俺がやるよ」

「いいの?」

「当たり前だろ」

「シシーバ、まだ私に同情してくれているの?」

 聡明なナジカらしからぬ無粋な質問だ。その答えは、彼女の身体が自由であろうとなかろうと、言葉以外で伝えるべき夜だった。

 シシーバはナジカの傷ついた身体に戸惑いながらも無理のないように心を配り、彼女が漏らす吐息の一つ一つにまで耳を傾け、それを煩わしいとは思わなかった。ナジカも、できる範囲でシシーバを慈しんでくれた。これまで北方で経験してきたものとは全く違っていた。何もかもが初めてのようで、上手く伝えられたかどうかは分からない。少なくともシシーバは善処したつもりだ。けれども結局、子種を彼女の中に注いでくたくたになった後、荒い呼吸の中から言葉が転がり落ちた。

「ナジカ、……好きだ」

 激しく上下する夫の背中を抱きしめて、妻は「私もだよ、シシーバ」と答えてくれた。ひどく恥ずかしい。シシーバはもう二度と言うまいと心に決めた。枕元には、出番のなかった茶色の小筒が転がっていた。


***


 結婚式から三日後の朝、シシーバは将軍として初めて仕事場へ向かった。

 チェンマの東方将軍府はニアーダ城の北東に隣接している。戦い続きだった北とは違って、ここは平和だ。キョウ族の弱体化は、西方にも小康状態をもたらした。ユーゴーも、北方の憂いを断ったニアーダを下手に刺激するべきではないと判断しているのだろう。一万の兵を預かったとはいっても、シシーバが実際に戦場に出ることはしばらくなさそうだった。

 だからといって将軍が暇なわけではない。毎日の練兵、武器や兵馬の管理監督はもちろんのこと、有事に備えて立案された種々の防衛作戦を頭に入れておくだけでも大変だ。ユーゴーをはじめとした近隣諸国の動向にも常に気を配っていなければならない。与えられた小さな個室は大量の紙束に占拠され、シシーバは早速ぐったりしていた。

 息抜きに少し散歩でもしようと思って将軍府を出たら、いつの間にか小雨が降り出していた。暗い顔をしたサリアに偶然会ったのはそのときだ。

 声をかけると、サリアは弱々しい笑みを返した。ニアーダ城で働くボエン叔父さんに届け物をした帰りらしいが、目の下にはひどい隈ができている。結婚式の日も様子が変だったし、放っておけなかった。

「雨宿りでもして行くか? シシーバ将軍閣下がお茶を出してやってもいいぞ」

「ありがとう。将軍閣下のお言葉に甘えさせていただくわ」

 シシーバは部下にお湯を用意してもらい、自宅から持って来た蓮茶をふるまった。「ジョナワットの名産品で、茶葉に蓮の花の香りをつけてあるんだ」と得意になって教えたら、すぐに「ナジカ様の受け売りでしょ」と見抜かれてしまった。

「なんで分かるんだよ」

「なんで分からないと思うのよ、ダラハット」サリアが切り返す。「あなた、いままでお茶になんて全然興味なかったでしょ」

 サリアの言う通り、蓮茶の淹れ方は一昨日ナジカに教わったばかりだった。「このお茶、すごくおいしいわね」とサリアは言うが、シシーバにはお茶なんてどれも同じ味に思える。

 サリアが茶碗を置いたのを潮に、シシーバは切り出した。

「その顔、最近ちゃんと寝てないだろ。バライシュと喧嘩でもしたのか?」

 わざと軽い調子で「喧嘩」という言葉を使ったのは、サリアの悩みが大きくはないことを願ったからだ。けれども、サリアは頷かなかった。

「喧嘩なんてしてないわ。バライシュは優しいもの」

「優しいのが嫌なのか?」

「少し違うわね。優しくしてくれるのがつらいのよ」

 意味を図りかねて、シシーバは黙って続く言葉を待った。

「……バライシュには、他に女の人がいるみたいなの」

「まさか」

 シシーバは一笑に付そうとしたが、サリアには確信があるようだった。

 バライシュは先王陛下とジュディミス王子の死にひどく苦しみ、サリアにまで冷たく当たるようになっていた。それが一年半ほど前、突然優しくなった。サリアが異変を察知したのはそのときだという。

 ある日サリアが所用で憲兵隊本部を訪ねたら、バライシュはすでに密輸捜査からは外されていて、市中巡回に出ていると聞かされた。捜査で家に帰れないというのは嘘だったのだ。

 シシーバも驚いた。父上の意向で密輸捜査班に入ったバライシュが異動とは、おそらくは父上も知らないのだろう。

「サリアはその……女の人を見たのか?」

「実際に見たわけじゃないわ。でも、私に嘘をついて家に帰らない理由が他にある?」

 状況から考えればそうかもしれない。それでも、シシーバにはまだ信じられなかった。

「私、すごく不安だったわ。バライシュが先王陛下の後を追って死んでしまうんじゃないかって……だから元気になってくれてよかった。そう思いたかったの。たとえ、それが私じゃなくて別の誰かのおかげでも。だけど……」

 サリアは懸命に笑おうとしたが、結局うまくいかずに顔を覆って泣いた。

 シシーバには傍で見ていることしかできなかった。すでに妻を持つ身だ。たとえ髪や肩でも、他の女性の身体に触れることは慎まなければならない。もちろんサリアのことは大事だが、少年時代に抱いた恋心はもうない。バライシュも同じだというのか。サリアだけが昔と変わらず、バライシュを愛し続けているのだろうか。

「……こんな話、新婚さんに聞かせてしまって本当にごめんなさい。お願いダラハット、誰にも言わないで。バライシュ本人にも」

 寂しげな笑顔を残し、サリアは赤い目のままで将軍室を出て行く。シシーバは引き止めることすらできなかった。

 雨は止むどころか、いっそう激しさを増していた。

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