三 バライシュ
ニアーダ王国暦五〇六年 一月
半年以上が過ぎても、時間は止まったままだった。
「陛下、陛下、どうかお許しください……!」
あの日、二つの黒い棺が目の前を通り過ぎたとき、バライシュはそう叫んでいた。
陛下を、王子を、助けてさしあげられなかった。
サリアもコーウェン様も、サエも、メイサディ隊長も、みな口を揃えて「バライシュは何も悪くない」と言う。だがそれは何の慰めにもならなかった。「悪くない」は「役立たず」と同じ意味だ。憲兵として密輸品を摘発したからといって、どうしたというのだ。自分がいなくても、誰かが同じ仕事をしたに違いない。陛下から直々に「
絶望したバライシュに更に衝撃を与えたのは、シシーバが姫との結婚を破談にしなかったことだった。
姫にはお気の毒だが、二人の縁談は立ち消えになるものと誰もが思っていた。キューアン家の嫡子たるシシーバが、子をなせないどころか歩くことさえできなくなった女性を
だがシシーバは喪が明けたら姫と結婚すると、独断で決めてしまった。コーウェン様は内心反対だったそうだが、「姫様のお気持ちを考えるとな……」とため息をついた。
なぜシシーバは、そこまで姫との結婚にこだわったのだろうか。
――俺とバライシュで、命を懸けてこの国を守ろう。
親友は幼い日の言葉を頑なに守り続けている。そうバライシュは解釈した。バライシュにとって、国とはソニハット国王陛下のことだ。陛下亡き後も、遺された陛下のご息女を一生懸けてお守りするのだ。名家の嫡子に生まれたシシーバには、なおも陛下に尽くす道が残されている。
しかしバライシュにできることはもう何もなかった。あれほど熱心だった武器密輸事件の捜査も、完全に頓挫してしまった。アテュイス様が国王と同等の権限を手にしてしまった以上、たとえどんな証拠をつかんだとしてももみ消されるだけだ。バライシュは憲兵の仕事に対する熱意を失っていた。隠れ家にも立ち寄っていない。サエがどうしているのかも分からなかった。
「バライシュ……」
朝が寒い季節はもう終わりかかっているのに、バライシュはなかなか布団から出ようとはしない。サリアに身体をゆすられてようやくのろのろと起き上がり、どうにか着替えをすませた。
サリアは今日も二人分の朝食を作っていた。
「僕の分は作らなくていいと言ったはずだ」
「でも少しくらい食べないと、身体に毒よ? あなた、ここ最近ずっと……」
「うるさいな」
きつい言葉が口をついて出た。サリアの怯えた目を見て、すぐに後悔の念がよぎる。あの日以来、バライシュは一度もサリアの笑顔を見ていない気がした。
「食べたくないんだ。……ごめん。行ってくる」
サリアを振り返る心の余裕さえない。気をつけてね、という寂しげな声を背後に聞く。
こんなのはただの八つ当たりだ。サリアにすまないと思う気持ちもあった。それでも、自分ではどうすることもできなかった。陛下のいない世界におめおめと生き残っている自分が許せなかった。結婚していなければ陛下の後を追って死ぬこともできたのにと思うと、ときどきサリアの存在さえ煩わしく感じてしまう。
憲兵隊本部に立ち寄ると、いきなりメイサディ隊長の部屋に呼び出された。
「バライシュ。こいつはいったいどういうことだ」
普段はにこやかなメイサディ隊長が、険しい顔でバライシュを睨んでいる。その隣には、手足を縄で椅子に縛られ、猿ぐつわを嚙まされたサエの姿があった。
「バハイフ、ほふぇんははい……」
泣きながらサエが言う。たぶん謝っているのだろう。バライシュが他人事のようにぼんやり見つめていると、メイサディ隊長は大きなため息をついた。
早朝に城を出たアテュイス様を、サエはずっと尾行していたらしい。それを別の任務に当たっていたメイサディ隊長が偶然見つけた。不審に思って逆に尾行すると、サエはやがてアテュイス様を諦めて古びた一軒家に駆けこんでいった。
「お前が使っていた隠れ家だな?」
「……はい」
メイサディ隊長が、足元に何かを投げ出した。木材と鉄の部品を組み合わせて作られたそれは、初め何かの工具のように見えたが、よくよく見ると小型の
「この子が持っていたものだ」
これにはさすがにバライシュも肝を冷やした。弩は西方発祥の射撃武器で、弓より扱いが易しいため狩猟民族であるコーク族なら子どものうちから触っている。どこにこんなものを隠し持っていたのか。これを使って、サエは何をしようとしていたのか。
「……私の命令です」バライシュは言ったが、声が震えた。「私がこの子に、家と食事を与えてやるからアテュイス様を殺せと命じました。この子に罪はありません」
サエが必死で叫ぶが、言葉にはならない。下手な嘘だったが、メイサディ隊長はそれ以上追及しなかった。
「お前がそう言うなら、この子の罪は問わんことにする」
メイサディ隊長が縄と猿ぐつわを解くと、サエはバライシュに飛びついてわんわん泣き出した。
「ごめんなさい。バライシュ元気ないは、アチュイス悪い思った。だから……」
「いいんだ」バライシュはサエを抱きしめた。サエはサエなりのやり方で、「ありがとう」を返そうとしただけなのだ。「悪いのは、僕だ」
「……だがバライシュ、お前は異動だ」メイサディ隊長が厳しく言いつけた。「お前には、今日から市中巡回班に入ってもらう」
それはメイサディ隊長が与えた罰というよりも、愛情のように感じられた。市中巡回班は二人一組で細かく当番が決められていて、捜査班のように忙しくはないが自由に動き回ることはできない。隊長は、バライシュが思い余って暴挙に出ないように鎖で繋いだのだ。
「嫁さんを泣かすようなことだけはするなよ」
メイサディ隊長も、シシーバと同じことを言う。
「……はい」
バライシュは目を伏せた。これまでの人生で目指してきたものすべてが、空虚な終わりを迎えたような気がした。もう自分には何もないと感じた。しかし実際には、これが始まりだったのだ。
***
摂政となったアテュイス様の新体制は、市中巡回の憲兵隊にまで影響を及ぼし始めた。
バライシュが異動になって間もなく、アテュイス様は憲兵隊にチェンマ市内の取締強化を命じた。市内に浮浪者がいればその長幼を問わず逮捕するか、市外へ追放せよと。抵抗するようならその場で殺して構わないとの但し書きまで付いていた。
「サエ、君は今日から僕の娘だ」
バライシュが決断したのは、取り急ぎサエを憲兵から守る必要が生まれたからだ。バライシュが隠れ家を正式にサエの家と決めたとき、サエは目にいっぱい涙を溜めていた。
「バライシュ、『お父さん』、呼んでいいか?」
わずかな戸惑いの後、バライシュは「もちろんだ」と答えた。
その日から、バライシュは再び自宅と隠れ家を行き来するようになった。隠れ家にいるときはサエと一緒にまずい料理を作って食べ、同じ布団で眠った。娘のために、家の裏手に穴を掘って石張りの風呂まで作ってやった。サエといるときは不思議と陛下のことをくよくよと考えずにすんだ。隠れ家では、バライシュは「バライシュ」ではなく単なる「お父さん」だった。
異動のことをサリアは知らない。「内偵捜査をするから二、三日帰れない」と嘘をついても、「行ってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれる妻を見ると罪悪感を覚えた。
バライシュはサリアに優しく接しようと心に決めた。夫婦仲は再び良好になり、自宅に帰った夜は必ずと言っていいほどサリアを抱いた。早く子どもを授かればいいと思った。そうしたら、何の気兼ねなくサエのことを打ち明けられる。
一方でバライシュは黙々と市中巡回任務をこなしていた。さすがに浮浪者を殺しはしなかったが、かつての自分と同じ立場の人々を
夏になる頃、アテュイス様は風紀を乱すとしてチェンマ市内における売春宿の営業を禁止した。タオスやナコンからは急速に色街が廃れ、良く言えば落ち着いた街になり、悪く言えば活気を失った。もちろん隠れて春を売る宿も後を立たず、それを摘発するのも憲兵たちの仕事になった。
ある蒸し暑い晩のこと、バライシュはタオスの外れにある料理屋へと向かった。この店で男娼らしき少年を見たと市民から通報があったのだ。
その日の相棒はシンという中年の新人だった。少し前に、憲兵が増員されたばかりだった。
「男を買う男の気が知れねえなあ」
シンはそう言うが、バライシュからすれば女を買う男も同じくらい気が知れなかった。他人の前で服を脱ぐのでさえ嫌なのに、そのうえ身体を交わすなんて考えただけでもぞっとする。
「男娼はともかく、売春禁止はやり過ぎじゃねえか? お上が変わってから堅っ苦しくていけねえや。女ぐらい買わせろってんだ、なあ? バイラックにいた頃が懐かしいぜ」
「バイラック?」バライシュは思わず聞き返した。
シンは得意げに語った。彼はほんの数か月前まで
「俺たちの部隊長が若くて絵に描いたようないい男でなあ、街に出りゃあ商売してない女までぞろぞろ寄ってくるくらいだった。一番いい女を隊長様に献上して、俺たちおっさん連中はそのおこぼれにあずからせていただくって寸法よ」
シシーバのことではないな、とバライシュは思った。あの純真なシシーバが、女遊びにふけるわけがない。
訪れた店は一見高級な料理屋のようだった。バライシュたちは木戸で仕切られた小部屋に通された。寝床があるわけでもないし、男娼を呼ぶには狭すぎる。注文を取りに来た若い女中に「今日は星がきれいだな。まるで夜中に太陽が出たようだ」と告げる。憲兵隊に届いた情報によると、それが男娼を求めるときの
男娼がいるならそれらしき物音が立つだろうと思ったが、周囲の小部屋からはやかましい歓談が聞こえるだけだった。隠し扉を探したり、便所と間違えたふりをして厨房に入ってみたりしても、とくに何も見つからない。
シンが待つ小部屋の中から、物が割れる音と叫び声が聞こえたのはそのときだ。
「触るな!」
子どもの声だ。
バライシュは急いで部屋に戻った。足元に酒杯の破片が散らばっている。シンが酒を運んできた女中を押し倒していた。最初に来たのとは別の女中だ。束ねていたはずの黒髪が乱れ、服がはだけて胸元が露わになっていた。
「やめろシン、何をやっている!」
「バライシュ、こいつだ! 男娼だぞ!」
確かに、女中の胸は平たかった。少年だ。そのみぞおちから脇腹にかけて、稲妻のような白い傷が残っている。
「見るな、無礼者!」
少年がバライシュの青い目を睨んだ。
――緑。
その色を認識した瞬間、バライシュの身体はまるで操られたかのように動いた。シンを少年から引きはがし、背後から締め上げる。シンはしばらくわめきもがいていたが、やがて泡を噴いて気絶した。
騒ぎを聞きつけて、店主や客が集まってきた。
「どうした、センリ。大丈夫か?」
「
男たちがシンを抱えて店から放り出している間、バライシュは少年の顔をぼうっと見ていた。やはり透き通った緑の瞳だった。かつて十歳だったバライシュは、二十三歳になってもなおその美しさを形容する言葉を持たなかった。
「お客さん、助けてくれてありがとうございます。お礼をしたいから、ちょっと裏へ来てくれません?」
行灯の柔らかな光の中で、センリの黒髪は虹色に照り輝き、赤い唇が艶めかしく動いた。天に選ばれた者だけが持つ眼差しを向けられると、バライシュは従わざるを得なかった。
いつの間にか、バライシュは涙を流していた。
それが、バライシュとセンリ――ジュディミス・ニアーダとの出会いだった。
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