二 シシーバ

 訃報が届くのに八日、帰るまでに八日。こんなにバイラックからチェンマまでの距離をもどかしく思ったことはない。

 国葬では、シシーバも喪章をつけた馬に乗って葬列の末端に加わった。ホルタ王弟殿下のご厚意だった。

 ニアーダ城を出た葬列は大通りをゆっくりと南下し、葬儀の行われるトーネン寺へ向かう。先頭で管楽隊が挽歌を奏で、馬車に引かれた二つの黒い棺が後に続く。棺の中身は空だという。お二人がお亡くなりになってから、もうかなり経っている。ご遺体はすでに荼毘だびに付された後らしい。

 棺の後ろには、弔旗を掲げた衛兵隊と王族が続く。王族の先頭は本来次の国王になるホルタ王弟殿下のはずだが、病身で長時間馬に乗ることができないために、その長男アテュイス親王殿下が代わりに務めた。いつも派手な格好をしているアテュイス様もこの日ばかりは黒い礼装に身を包み、蒼白で険しい顔をしていた。次に泣き腫らした顔のチュンナク親王殿下、そして王位にはほとんど関わりのない血筋の遠い王族たちが続いた。その中にシシーバもいる。ナジカの姿はない。

 土砂崩れだったという。クスタスの丘へつつじ見物にお出かけになった国王陛下ご一家を、突然の豪雨が襲った。不安定な斜面に立っていた櫓が地滑りによって倒壊し、陛下とジュディミス王子のお命は影武者もろともあっけなく奪われてしまった。いくら王位を狙う者の陰謀に目を光らせても、天の配剤には太刀打ちできない。ナジカだけは一命を取り留めたが、怪我がひどくてとても葬儀に参列できるような状態ではないという。

 沿道には大勢の市民が駆けつけ、すすり泣く声があちこちから聞こえた。警備に当たっている憲兵たちですら、任務を忘れて泣いているほどだった。それだけ陛下と王子は民衆から敬愛されていたのだ。

 葬列が道程の半ばを過ぎたころ、シシーバはバライシュの姿を見つけた。警備どころか立ってさえいられず、他の憲兵に慰められるほど慟哭する親友の姿を見るのは、胸を突き刺されるようにつらかった。

 だがシシーバは亡くなられたお二人のことよりも、残されたナジカのことばかりが気にかかっていた。

「シシーバさん、お疲れのところ申し訳ないんですが、この後マナを見舞ってやってくれませんか」

 昼過ぎに葬儀が終わった後、わざわざチュンナク様がシシーバに声をかけてきた。一瞬誰のことかと戸惑ったが、それがナジカの二の名ブムナだと思い出した後で、その呼び方をよそよそしいと感じている自分に驚いた。

「マナも、あなたに会えば元気が出ると思います。話は僕がつけておきますから……」

 そう言ってチュンナク様はまたしくしく泣いた。

「私などで姫のお力になれるのでしたら」

 シシーバは即答したが、すぐに城には向かわず一旦実家に戻り、風呂に入って葬儀用の礼装から黒いトガラに着替えた。葬儀で染みついた香の匂いや人々の悲嘆をナジカのもとへ持ち込みたくなかった。そうこうしているうちに夕方近くになってしまったが、明日よりも今日のうちに行くべきだろうと思ったし、シシーバ自身も早くナジカに会いたかった。

 ナジカが療養している部屋は、臘梅宮よりもずっと城の奥部にあった。廊下にはきつく焚かれた香の匂いが漂っていて、顔を見る前からシシーバはナジカと再会したような気分になった。

 部屋に入ると窓からはただ白い城壁が見えるばかりだった。もっと景色のよい部屋があるのではないかとシシーバは思ったが、その「よい景色」のためにナジカは父と弟を失ったのだとすぐに気づいた。いまのナジカは、普通なら心の慰めになるものにさえ傷つくのだ。「親が決めた結婚相手」たる自分は、果たしてどちらだろうか。

「……久しぶりだね、シシーバさん。来てくれてありがとう」

 ナジカは寝台の上にぐったりと横たわり、血の気が失せた顔だけをシシーバに向けて力なく微笑んだ。化粧をしていないせいか、前回会ったときよりずっと幼く見える。悲劇に見舞われながらも泣いた様子がなく、緑の瞳は澄んだままだった。ナジカと視線を交わした侍女が、すっとその場を外した。

「この部屋、臭うでしょ? ごめんね」

「いえ……」

「ひどい目に遭ったよ」とナジカは言う。彼女が激痛で目を覚ますと、家族がみんな死んだと告げられた。それなのに父の死に顔は見せてもらえず、弟の遺体は見つかってすらいないと言う。ナジカ自身の身体にも、異変が起きていた。

「私、腰から下の感覚がほとんどないの。お医者さんが言うには、もう二度と自分の足で歩けないって。それどころか、一生おむつ暮らしだって。参るよね」

 どこか自嘲気味に笑うナジカに対して、シシーバは何と答えればいいのか分からなかった。あまりにも痛ましくて、何か言えば涙が溢れ出そうだった。ナジカが泣かないのに、自分が泣くわけにはいかない。

「もう結婚は、無理だね」

「もちろん、喪が明けるまでは無理でしょうが……」

「違う。ずっと無理なの」ナジカはさらに笑った。「お医者さんがね、腰から下が動かないということは、子どもが産めないということだって。子どもを作るのも大変だし、できても私の命と引き換えにお腹を切るしかないだろうって。シシーバさん、一人っ子だよね? この結婚はなかったことにしましょう」

「そんな」

 それしか言えないほど、シシーバはひどく混乱した。ナジカが一生歩けないと聞いても、まだ結婚する気でいた。それはナジカに対する愛情ではなく、執念に近かった。シシーバにはこの結婚のために、大将軍になるために、すべてを懸けてきた。それが、少し雨が多く降ったくらいで台無しになるなんて理不尽すぎる。

 シシーバは叫び出したくなる衝動を、両の拳を固く握りしめて堪えた。

「あーあ、こんなことになるくらいならあの日、すぐにでもあなたと結婚していればよかった。そうしたら私はつつじ見物なんかに行かずにすんだのに。父様とジュディミスだけが死んで、悲嘆に暮れる私をシシーバさんが優しく抱きしめてくれて、なんならくちづけの一つ二つしてくれて、そのうちきれいさっぱり忘れて生きていけたのに。全部後の祭りだよね。……こんなの、死んだほうがましだったよ……」

 ナジカの目尻から、ようやく涙が一筋伝って落ちた。それを拭おうと、彼女は自分の右手を浮かせた。

 天はただ健気に生きていただけの女から何もかもを奪い去り、いまやこの世にその涙を拭うものは彼女自身の両手以外になかった。シシーバは思い切ってナジカの手を取った。その手を握らせた強い感情の名は、やはり愛ではなく怒りだった。驚くナジカの頬に指先で触れ、シシーバは代わりに涙を拭った。

「ナジカ、やはり私と結婚しましょう」

「やめて」ナジカの目から、さらに涙が溢れた。「一時いっときの同情で、軽々しく言わないでほしいな」

「たぶん、そうだと思います」シシーバは正直に答えた。「でも同情しているだけましです。そもそも私たちは、親が決めただけの結婚相手にすぎなかったじゃありませんか」

「ひどいな。私はけっこう、シシーバさんのこと好きなのに」

「『顔が』、ですよね?」

「うん、まあ、そうだね」ナジカは言葉を濁した。「……でも、子どもはどうするの?」

「養子を取ればいい。俺も孤児だった子と兄弟のように育ちました。親のない哀れな子を引きとって、たくさん育てましょう。いっそ孤児院ができるくらい」

 それはほんの思いつきだったが、口に出すとぜひ実現させるべきだとも感じた。天が理不尽なら、地を這う人間は寄り添って運命に抗うしかないのではないか。

「いまシシーバさん、『俺』って言ったね」

「本当だ」

 手が弱々しく握り返されるのを感じた。シシーバはナジカの上半身を静かに抱え起こすと、彼女は「痛い」と顔をしかめた。

「あばらも何本か折れているみたいで」

「それでは、とびきり優しくしてさしあげなくては」

 ナジカはこわごわシシーバの胸に頬を埋めてくる。シシーバが包み込むように腕を回しその髪を撫でると、彼女は堰を切ったように泣き出した。涙で湿っていく胸元が熱い。婚前に姫の身体に触れるなんて、とんでもないことをしている自覚はある。ナジカにも、シシーバの激しい鼓動が聞こえているに違いなかった。

 顔を上げたナジカと目が合うと、二人はどちらからともなく長いくちづけを交わした。つい気分が昂揚したシシーバは、ナジカの口が小さく開いた隙に舌を滑り込ませた。それにぎこちなく応じた後で、ナジカがきつく睨んできた。

「いまの、よく分からないけど、何だかものすごかった。さてはシシーバさん、北で相当遊んできたでしょう」

「ばれてしまいましたか」

「許すから、もう一回やって」

「いや、ここまでにしておきましょう。これ以上は、俺のほうが我慢できなくなる」

は……私にも善処できるものなのかな?」

 シシーバが一瞬答えに詰まると、ナジカが笑った。

「まあいいや。そのへんのことは、喪が明けるまでによく調べておくよ」

「すみません……」急にひどく恥ずかしくなった。

「やっぱり可愛いな」再び床についたナジカが呟く。「好きだよ、シシーバ」

「……俺もです、ナジカ」

 おざなりに返答したつもりだったのに、なぜか涙が一粒落ちた。もしもお互いに嘘をついていないとしたら、それはシシーバが諦めてきたはずのものがいまここにあるという意味だった。


***


 葬儀の後、シシーバはバライシュやサリアと話をする暇もなくすぐ北に戻り、年明けには弱冠二十歳で小将軍へ昇進した。

 同時にホルタ王弟殿下が国王に即位した。しかし新王陛下の病状は思わしくなく、親王から第一王子になったアテュイス様が摂政として代わりに政務を執り行うことになった。

 まさにシシーバの恐れていた通りになった。新年早々、アテュイス王子から作戦方針の変更が文書で通達された。そこにはソニハット王時代までの国境警備にとどまらず、こちらから打って出てキョウ族を殲滅せよと記されていた。シシーバや他の将軍たちは反対の声を上げたが、当時の北方大将軍カーズ・ヒパラット・エイカーンはやがて国王になるアテュイス王子の顔色を窺って、唯々諾々いいだくだくと従うことを決めてしまった。

 ニアーダ王国暦五〇六年の春になると、シシーバは五千に増えた兵隊を率いて、キンドウ国との国境を越えた。

 長期戦を覚悟せざるを得なかった。きっと喪が明ける頃までには帰れないだろう。自然と考えがナジカのほうへ向かっている自分に気づく。早くチェンマに帰りたい。その思いは、厳しい戦いの中に身を置くシシーバにとって、確かに心の支えになっていた。

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