第四章 悲劇

一 バライシュ


 ニアーダ王国暦五〇五年 初夏


 サエという十歳の少女が、赤い門の前で人を待っていた。

 太陽がのろのろと傾く季節だった。夕刻を過ぎたというのに、空はまだ薄ぼんやりと明るかった。ニアーダ城の西門には今日も孤児たちが群がっている。王族をはじめ、城に出入りする貴人には優しい人が多い。ねだればたいてい銭を落としてくれる。正門は憲兵や護衛兵がいてなかなか近づけないが、王族が狭い西門から出入りするときは従者も少なく、足元の孤児を目に留めてくれる可能性が高いのだ。

 孤児たちに特に人気があるのは、陛下の甥であるチュンナク親王――のちのチュンナク王――だ。小柄で丸っこい身体つきをした優しい顔立ちの若君で、わざわざ孤児に恵んでやるための銭袋を用意しているほどだ。妻子あるチュンナク様はニアーダ城外にある銀杏殿という離宮に住んでいて、政務のために数日に一回登城して夕方に西門を出る。いま孤児たちが待っているのもその人だろう。

 だが、サエはお金をもらいに来たわけではない。彼女も孤児には違いないが、探しているのは別の親王だった。

 不意に門が開いた。白い馬首が覗いた途端、孤児がいっせいに手を伸ばして、やかましく声を上げだした。しかし馬上の人は小銭ひとつ落としてはやらず、孤児たちを見下ろして冷たく言い放った。

「おどきなさい。チュンナクなら、今日は来ませんよ」

 その一言だけで、孤児たちは蜘蛛の子を散らすようにして逃げ出して行った。茶色というより金色に近い長髪と鋭い瞳。白地に錦糸で花の刺繍が入ったきらびやかなお召し物。彼はチュンナク親王の兄、アテュイス親王だ。

 アテュイス様は強面の用心棒を一人だけ連れて、悠々と街を行く。彼が通ると人々が畏まり、道を空けて地べたにひれ伏す。そんな民たちにアテュイス様は一瞥いちべつすらも与えはしない。サエは悟られぬように距離を取り、その後を追った。

 ――さて、どんな剣をおくりましょうかね。

 アテュイス様が従者に話しかけるのを、サエは耳をそばだてて聞いていた。

 ――北へおくるには時間がかかりますから、はやめにつくらせなくては。

 西門から直進し続けたアテュイス様は、ある店の前で馬を降りる。入口にかかった藍染あいぞめの幕をくぐるとき一度振り返ったが、サエはとっさに身を隠したので見咎められずにすんだ。アテュイス様が中へ入ったのを見届けると、サエは興奮した様子でその場から走り去っていった。


***


「バライシュ! バライシュ!」

 サエが笑顔を輝かせながら駆け込んできた。大きな声で本名を呼ぶなと言うのに、なかなか直らない。近隣住民には、はるか西方のヴィーゼン王国から来た行商人のサイモンと名乗っているのだが。

 チェンマの東端にある一軒の民家。前の家主は分からない。長らく空き家になっていて朽ちかけていたところを、ひと月ほど前にバライシュが自分で修繕し隠れ家として勝手に使っている。小さな板の間一つと狭い炊事場だけの家だが、ナコンからもさほど遠くないので、憲兵の仕事が夜遅くなったときには寝泊まりができて便利だった。

 サエがやって来たのは、バライシュが軍から借りてきた帳簿を調べている最中のことだった。

「バライシュ、聞け! わたし、今日こそ、ショウコみつけたよ!」

 サエは嬉々として、バライシュにいま見聞きしてきたことを語る。

、『剣を北へおくる』言った。まちがいないよ! ミツユのクロマク、ぜったいだよ!」

「藍染の幕がかかった店、と言ったか?」

「そうそう。ニシモン出る、まっすぐ、その店ある。きっと、ブキ仕入れたんだよ!」

 バライシュはようやく帳簿を置いて、サエに笑いかけた。

「サエ。残念だが、それは美術商の店だ。戦場で使えるような武器は売っていない」

「でも、、『北へおくる』言ったよ?」

「『おくる』は『おくる』でも、『贈る』だ。『送る』じゃない」

 バライシュは空中に文字を書いて教えた。文字の綴りは違うが、発音は同じだ。

「ニアーダの軍人が出世すると、お祝いに宝剣……つまり、飾り物の剣を贈る習わしがある。おそらくアテュイス様は、お祝いの品を探しに行ったのだろう」

 バライシュには宝剣の贈り先も見当がついていた。サリアから聞いた話によると、シシーバが姫君との結婚を前に小将軍へと出世するらしい。姫を危険な北方に連れて行くわけにはいかないから、もうじきチェンマに戻ってくるだろう。しかしバライシュは、サリアほどには親友の帰りを喜べなかった。「命令」に背いてアテュイス様を探っていると知ったら、きっとシシーバは怒るに違いない。

「ありゃあ? またシッパイかあ?」

「気にするな。僕だっていまだに何もつかめていない」

 バライシュはがっくりと肩を落とすサエの頭を撫でてやった。随分可愛い憲兵さんだ。娘が生まれたらこんな感じだろうかと思うが、いまは子どもを作っている余裕はない。

「さて、僕はそろそろ行くよ。少し用事があるんだ」

 くるくる巻いた金髪のかつらと黒い帽子をかぶり、バライシュは「ヴィーゼン王国の行商人サイモン」に早変わりする。

「バライシュ、今日は家、帰るか?」

「そうだな……。いい加減帰らないと、サリアに心配されそうだ」

「そうするがいい。ヨメが悲しいは、すごくだめよ」

 下手くそなニアーダ語で説教されて、バライシュは苦笑いしながら外へ出た。サリアのもとへは、もう三日帰っていない。

 バライシュが密輸商人を逮捕した後も、武器はキョウ族へ流出し続けていた。北方でキョウ族から押収された剣を調べたところ、そのどれもがチェンマ郊外の刀剣工房で作られており、ニアーダ軍が使っているものと全く同じだった。バライシュは工房から帳簿を借りて中身を精査しているが、不審な点はいまのところ見当たらない。

 この空き家でサエに出会ったのはひと月ほど前だ。バライシュが土壁の補修をしていたとき、どこからともなくふらふらとやってきて「腹減る、飯くれ」と言ってきた少女、それがサエだった。バライシュはサエにまずい粥を炊いてやり、自分がいないときはこの家を好きに使っていいと言った。

 彼女の言葉がたどたどしいのは、もともとコーク族の生まれだからだ。コーク族はニアーダ西部の山間に暮らしていた少数民族だ。古来より独自の言語と文化を持ち、狩りや農耕による自給自足の生活を送っていたが、三か月ほど前ユーゴー帝国に「国境を侵犯して狩りをしている」などと難癖をつけられて攻め滅ぼされてしまった。サエはどうにか逃げのびてチェンマにたどり着いたものの、両親は殺され同族の仲間たちとは離ればなれになってしまったらしい。

「ありがとう、もらう、ありがとう、かえす」

 それがコーク族の教えだとサエは言う。要するに、受けた恩は必ず返すという意味だろう。

 すぐにバライシュがアテュイスを追っていると察したサエは、頼んでもいないのにアテュイスの尾行を代行するようになった。危ないからやめろと何度も言ったが、「熊なら、こわい。、人間」などと言って聞く耳をもたない。恩人に報いたい気持ちはバライシュにも痛いほど分かるから、強く咎める気にはなれなかった。

 このひと月、サエを養子に取ろうかと考えなかったわけではない。しかしバライシュはサリアの反応が不安だった。「子どもは諦めよう」という意味に取られて、無意味に傷つけるのではないか。そんな恐れを抱くのは、もう何日も彼女に触れてさえいないからかもしれない。それなのに、バライシュは妻の柔肌を恋しいとは思っていなかった。決して愛情がなくなったわけではない。バライシュは一つのことに集中しすぎると、後はすべて雑事に思えてしまう性質の人間なのだ。

 とにかくいまは、自分の使命を果たさなければ。

 バライシュの足はチェンマ随一の繁華街、タオスへと向かった。安酒が飲める大衆食堂や、ナコンにあるような妖しげな宿が立ち並び、夜でも無数の提灯が吊るされて燃えるように明るい。人出がいつもにもまして多いのは、今日から芝居小屋に旅芸人の一座がやって来たからだろう。バライシュも安い二階席の席料を払って中へ入り、最も不人気な右前方の席を取った。舞台は見えづらいが、観客席なら広く見渡せる。

 開演まではまだだいぶ時間があるのに、一階席は八割がた埋まっていた。バライシュは目的の人物を一階の最前列に見つけて、さっと席を立った。チュンナク親王だ。

 チュンナク様は好事家こうずかで、特に観劇好きとして有名だった。公演初日には政務を休んででも必ず芝居小屋に来て、その後行きつけの食堂で庶民と一緒に酒を飲む。王族らしからぬ遊び人ではあるが、兄のアテュイス様とは違って気さくで親しみやすい性格と愛嬌のある風貌は、親王のころから人々に愛されていた。

 バライシュはチュンナク様の前を通り過ぎるとき、わざと財布を落とした。親切なチュンナク様は、案の定「落としましたよ」と声をかけてくれる。

「オー、ありがとうゴザイマース」バライシュは西方人らしく訛ったニアーダ語で言った。「オヤ? アナタ様ハもしかして、チュンナク王子では?」

「王子じゃなくて、親王ですけど」チュンナク様はえへへと笑う。

「そうなのデスカ? 私ノような外国人ニモ、お優シイ方! アナタ様が王に、なるベキデスヨ!」

 ひざまずいて大げさにおだてると、チュンナク様は「いやいや、僕はそういうのはあんまり……」と言いつつも満更まんざらではなさそうだった。「チュンナク様は優しすぎて王の器ではない」――王城で言われる評判の逆を言うことで、バライシュはチュンナク様の自尊心をくすぐった。さらに芝居の話題を振って、チュンナクに気持ちよく話をさせる。好きな演目や贔屓ひいきの俳優について熱く語らせた後、とどめにもう一回持ち上げておく。

「チュンナク様モ、王様にナレバ、将来、お芝居ノ主人公に、なれるカモですネ!」

「僕が? あはは、それはとんだ三文芝居になりそうだなあ!」

 チュンナク様はまん丸い腹を揺らして笑った。

 バライシュはご機嫌になったチュンナク様と芝居の後に飲みに行く約束を取りつけ、二階席に戻って芝居を観た。大昔の王子様が悪党を懲らしめるだけの単純な物語ながら、派手な化粧を施した役者が舞台狭しと大立ち回りを演じるのはなかなか見応えがあった。チュンナク様も惜しみない拍手を送っているのが見える。

 芝居が面白かったおかげで、酒席でもチュンナク様はすこぶる上機嫌だった。酒も食もよく進み、ひっきりなしに喋り続けた。アテュイス様の良からぬ企みについて何か口を滑らせないかと、バライシュはさりげなく話題を誘導してみたが、決定的な情報はなかなか得られなかった。

 ただ、チュンナク様からこんな話が聞けたのは収穫だった。

「あなたが外国の方だから言えるんですけどね、兄貴は僕と違って、王になる気満々だったんです。ジュディミス君が生まれるまでは、うちの親父の次に王になるはずでしたからね。ところが十歳のときにジュディミス君が生まれて、兄貴は一気に王位から遠ざかってしまった。だから兄貴はジュディミス君のことが昔から大嫌いなんです」

 チュンナク様はこれで〆だと言って、牛肉がいっぱい載った汁麺を注文する。その後でふと表情を曇らせた。

「でも、兄貴は国王になるべき人間じゃないと思うんです。あなたのような外国の方を国外へ追放しようとするでしょうからね。兄貴は国をとざすことがニアーダのためになると信じてるみたいだけど、そんなわけないじゃないですか。周りの国から孤立するだけです。もしそんなことになったら、兄貴を止められるのは実の弟である僕しかいないと思ってるんです」

 バライシュは密かに目を見張った。この若き親王は、見かけよりもずっと真剣に祖国を憂いているようだ。

 結局、バライシュは明け方までチュンナク様に付き合った。鶏が鳴く頃に隠れ家に戻り、ぐっすり寝入っているサエの隣で一緒に眠る。サリアが待つ家にはやはり帰らなかった。

 バライシュはチュンナク様に思い切って尋ねていた。

「アテュイス様ハ、王子ヲ、殺したいノデスカ?」

 チュンナク様は一笑に付した。

「まさか! いくらあの兄貴でも、そこまでは思ってないですよ」

 チュンナク様の言う通りであればいいとバライシュも願った。もしバライシュの推理が全くの見当違いで、密輸の黒幕はアテュイス様ではなく誰も陛下やジュディミス王子の命を狙っていないならば、それが一番いいに決まっている。

 だが、そのわずか三日後――。

 ニアーダ中が突然の豪雨に見舞われたその日、ソニハット国王陛下とジュディミス王子の訃報が同時にもたらされた。

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