抄訳1

抄訳1 ――ジュディミス・ニアーダの回想録より

 あの朝はまだ、よく晴れていたはずだ。

 その頃ニアーダ王家では、毎年初夏になると家族揃ってクスタスの丘につつじ見物に出かけるのが恒例だった。クスタスはチェンマの北西にある小高い丘で、時季が来ると濃い赤色の花と真っ白な花が入り交ざって咲き乱れた。そのもっとも見晴らしの良い場所に、王家だけが立ち入れる二階建てのやぐらこしらえてあった。私たちにとっては、数少ない外出の機会だった。

 いくら美しい景色でも毎年さして代わり映えするものではないから、私は年々つつじなどどうでもよくなっていたのだが、その年だけは違っていた。ナジカ姉様と一緒につつじを見られる最後の年だったのだ。

 姉様がお嫁に行かれると聞いて、私は少なからず動揺していた。

 私と姉様は、十一も年が離れていた。姉様は私の母代わりでもあった。本当の母様は、私を産んですぐに亡くなられた。いまでも私のせいで母様が亡くなられたのだと思っている。引け目を感じて父様に甘えられなかった私を、姉様は可愛がってくださった。王家に生まれて良かったことなど何一つないが、姉様の弟に生まれたことだけは幸せだったと思う。

 それまで姉様は、名だたる良家の子息たちからの求婚を断り続けていらっしゃった。

「あの人は、自分の野心を満たすことしか考えていない」相手が文官か武官かを問わず、姉様が求婚をお断りになる理由はいつも同じだった。「小さいジュディミスを丸め込んで、権力をほしいままにしたいだけだね」

 だからキューアン家の息子シシーバとの縁談が持ち上がったときも、私はどうせ成立するまいと高をくくっていた。相手は大将軍の一人息子で、姉様より四つも年下だという。どうせ父親に倣って大将軍になりたいだけの、甘やかされて育ったお坊ちゃまだろう。そんな男が、姉様のお気に召すはずがないと決め込んでいたのだ。

 ところが姉様は、一度会っただけのその人とあっさり結婚を決めてしまわれた。私は裏切られたような気持ちになった。いったい彼のどこが良かったのか気になってしかたなかったが、結局聞けないままだった。

 クスタスに向けて出発する前から、私は不機嫌だった。さすがに行きたくないとぐずるほど子どもではなかったが、馬車に乗ったときも、丘に辿り着いたときも、ろくに口をきかなかった。しかし父様も姉様も、私をお叱りにはならなかった。二人とも私がむっつりしている理由を察しておられるようで、それがまた余計気に障った。

 私たち一家三人はそれぞれ一人ずつの影武者を連れて、櫓へ上った。丘の上は少し肌寒かった。さっきまでは青空だったのに、いつの間にか小雨がぱらついていて、せっかくの景色は台無しだった。しかしいくら景色がきれいだったとしても、私の目には入らなかっただろう。姉様と外出できるのはこれが最後だ。こんな態度のままでは後悔するだろうと頭では分かっていたのに、どうしても受け入れられずに葛藤していた。

 父様はひと通り景色をご覧になった後、寒いからとおっしゃって自分の影武者を連れて一階へお降りになった。父様だって姉様とお話ししたくてたまらなかっただろうに、私に譲ってくださったのだ。とはいえ城の外では常に影武者がついて回るから、姉様と二人きりになれるわけではなかった。

「今年もきれいに咲いているね、ジュディミス」

 姉様のほうから話しかけてくださったのに、私は返事をしなかった。「ジュディミス」という幼名が憎たらしい。古くからの慣習で、王族の男子は十三歳になるまで正式な名前を与えられなかった。私は当時十二歳だったから、名前を頂けるまであと一年あった。ジュディミスの名で呼ばれるたびに、自分の無力さが身にしみた。いやらしい男たちが、私を利用したいがために姉様に群がるのに、私には何もできなかった。そればかりか、賢い姉様はそういう男を退け、私を守ってくださっていた。本来なら、男の私が姉様をお守りしなければならなかったのに。

「殿下、姫にお返事をなさいませ」

 私の影武者は、影のくせにはっきりとものを言う娘だった。私の影は男ですらなかったのだ。長く付き添ってくれていたのに、彼女の名前は知らないままだった。影にいらぬ情を移さないためのしきたりだったが、いまでは名前くらい聞いておけばよかったと後悔している。

「……雨だよ」

 渋々答えた私に、姉様は根気強く微笑んでくださった。

「そうだね。でも私には、今年のつつじが一番きれいに見えるよ。あなたと一緒に見る最後だからかな」

 姉様はなんの躊躇もなく核心を突かれる方だった。私はまた答えなかった。影武者が私を睨むが、姉様を無視したわけではなかった。単に胸がふさいで言葉が出なかっただけだ。

「ジュディミスは、私がお嫁に行くのは嫌?」

 嫌に決まっている。しかし私は頷かなかった。姉様の結婚にけちをつける真似はしたくなかったからだ。私は己の幼稚さと戦った挙句、どうにかみっともない駄々っ子にはならずにすんだ。その代わりに、ずっと気になっていた質問が口をついて出た。

「姉様は、シシーバ・キューアンの何が良かったの?」

 私は姉様を見上げた。あの頃の私は、姉様よりずっと背が低かった。

「顔だね」

「顔?」

 厳しく結婚相手をお選びだったのに、最後は顔でお決めになるなんて。さすがにご冗談だろうと思ったけれど、私と同じ色の目を細めて微笑まれた姉様は、どこかお幸せそうに見えた。

 そのとき私にははっきりと分かった。ああ、姉様はシシーバという男に恋をなさっているのだ。お好きな方とご結婚できるのだから、なおさらお祝いしてさしあげなくては。それなのに、私の両目からは勝手に涙が落ちた。われながら情けなく、悔しかった。

 姉様は私の頭を撫でてくださり、「ごめんね」とおっしゃった。違う。姉様に謝っていただきたいわけではない。「どうかお幸せに」、ただそうお伝えしたいだけなのに、どうして言葉が出ないのだ。

 いつの間にか雨足が激しくなっていた。空は真っ暗になり、櫓の中にも冷たい飛沫しぶきが入り込んできた。

 私が櫓のへりに立つと、姉様が私に向かって何かおっしゃった。しかしその言葉は、ざんざんと降り注ぐ雨にかき消された。黒い空が瞬いた。間髪入れずに、耳をつんざく轟音。近くに雷が落ちたのだろうか? 私は姉様を振り返った。――しかし、それは落雷の音ではなかった。

 突然足元が激しく揺れた。私の身体は後ろ向きに吹き飛び、櫓の外に投げ出された。身体は無数の雨粒に打たれて、一瞬のうちにずぶ濡れになる。

「ジュディミス……!」

 急に時間の流れが遅くなった。私はお倒れになる姉様のお姿と、その悲鳴をはっきりと知覚した。私の身体が宙を舞い、ゆっくりと落ちていく。何が起こったのかは分からなかったが、何が起こるのかは分かった。嫌だ。まだ姉様にお伝えしていないのに。姉様。どうか、どうかお幸せに。

 私が覚えているのは、そこまでだ。

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