三 シシーバ

 桶いっぱいのお湯を頭からかぶる。軽い衝撃の後、前髪を伝って滴がぽたぽたと落ちた。汗はきれいに流れても、不安はまとわりついて離れない。

 アテュイス様に会ったことを、バライシュに話すべきではなかった。

 バライシュは昔から、思い立ったら脇目も振らず突き進む男だ。だからこそ孤児の生まれから上兵タキになることができたのだろうが、憶測だけでアテュイス様を嗅ぎ回るのは危険すぎる。口では自重すると約束してくれたものの、シシーバの命令と陛下の御身を天秤にかけたとき、バライシュがどちらを取るかは考えるまでもなかった。

 風呂といささか早すぎる朝食の後、シシーバは思い切って父上の私室へと向かった。こんな早朝に訪ねるのは失礼だと分かっていたものの、いまを逃せば昼の出発までに父上と二人きりになれる時間はもうなかった。

「父上、シシーバです。どうしてもお話ししたいことがあって参りました」

 木戸の前に立って呼びかけると、しばらくして父上が内側から開けてくれた。

 父上は見るからに寝起きだった。寝間着のたわんだ襟元から、首元に小さな傷がいくつも見える。こんな姿を見るのは初めてだった。父上でも寝起きは髪が乱れているのだと、シシーバは小さな感動を覚えた。

「朝早くから申し訳ないです。まだお休みだったのではありませんか?」

「気にするな。まあ座れ」

 髪を手櫛で整えながら父上は言った。小さな机と寝台があるだけの部屋だから、シシーバは父上と一緒に寝台に腰かけた。

 シシーバはまず風呂でのことを話し、バライシュが早まった行動に出ないように目を配ってほしいと頼んだ。

「あいつは憲兵の立場を利用して、アテュイス様の周辺を調べ上げるつもりだと思います。ですが、もしもアテュイス様に気づかれればただではすまないでしょう」

 父上は渋い顔で頷いた。

「よかれと思ってバライシュを密輸捜査に回したのだが……今回は裏目に出たようだな」

「あれは父上のご意向だったのですか」

 てっきり、バライシュが優秀だから抜擢されたものだとシシーバは思っていた。

「お前も知っている通り、アテュイス様は外国人を毛嫌いしておられる。バライシュが将軍候補になれなかったのはそのためだ。私も、バライシュは誰より忠義心厚いニアーダ人だとご説得申し上げたのだが、聞き入れてはいただけなかった。憲兵隊に配属するなら市中巡回班や軍規取締班ではなく、バライシュの容姿と有能さを活かせる任務を与えたいとお願いして、何とか了承していただけたのだ。市中巡回では浮浪児を追い払ったり逮捕したりせねばならんこともある。バライシュにはこくすぎる仕事だ」

 父上がせめてもの計らいをしてくれたことを、おそらくはバライシュも知らないのだろう。もしも知っていたなら、彼はしつこいくらいに父上への感謝を口にしているはずだ。

「……父上、私はとても嬉しいです」

「嬉しい?」

「父上がバライシュのことを、私と同じく本当の息子のように思ってくださっているのがよく分かりました」

「当たり前だ」父上が笑った。「バライシュは、陛下から託された子だぞ」

「陛下ですか」シシーバも微笑を漏らした。「私にとっては、バライシュが陛下の拾い子でなかったとしても、大切な兄弟です」

 シシーバは「ここだけの話ですが」と前置きしてから言った。

「私には王家の方々よりも、バライシュやサリアのほうがずっと大事です。極端な話、二人が毎日幸せに暮らせるなら、王家がどうなろうと別にかまいません。でもいま陛下にもしものことがあったら、この国の平和は瞬く間に失われてしまう気がします。私は北方でひどい光景をたくさん見て、つくづく戦争が嫌になりました。あの二人には同じものを見せたくありません。私が、……俺が陛下をお守りするのは、そのためです」

 バライシュは「陛下のためなら命など惜しくない」と言う。シシーバも同じ気持ちだが、それはバライシュやサリアのためだった。陛下をお守りすることが、ニアーダの平和と二人の幸福を守ることにつながると信じているからだ。

「バライシュはうちに来てからずっと、陛下や俺や、この家のために生きてきたと思います。そろそろ自分の幸せを大事にしてほしいんです。きな臭い陰謀のことは、全部俺が引き受けます。俺の兄上になってくれたあいつに、少しでも恩を返したい」

 シシーバはすっきりした気分だった。初めて父上に腹を割って話ができて、とても嬉しかったのだ。

 ところが、父上は何も言ってくれなかった。その顔からは笑みが消え、視線は何を見るともなく暗く固まっていた。

 怖くなって、シシーバは父上から目を逸らしてしまった。さっきまで二人の間にあった和やかな空気が淀んでいく。つい不敬で、軟弱なことを口にしてしまった気がした。場を取り繕う言葉は思いつかない。父上は言い訳が大嫌いだ。沈黙したまま隣り合うのは気まずくてたまらないのに、しびれたように動けなかった。

 不意に父上がシシーバの頭を掴んだ。強い力で父上の肩に引き寄せられ、シシーバはその後に来る衝撃と痛みを覚悟して身を強張らせた。しかし拳骨が飛んでくることはなく、ただ少し髪を撫でられただけだった。不器用な手つきだった。そのとき、シシーバは父上が自分に手を上げたことなど一度もなかったことを思い出した。

「……父上?」

 耳元で、父上の深い吐息が震えるのを感じた。もしかして泣いているのだろうか。シシーバにはとても信じられなかった。父上の涙などこの世でもっとも想像しがたいものだったし、まして自分の言葉がなぜ父上を泣かせるのか全く分からなかった。

「お前は……」ようやく父上が口を開いた。「お前の、幸せはよいのか」

 シシーバは身体から力を抜き、父親の肩に頭を預けた。

「俺は、とっくに幸せです」

 生まれたときから、自分は恵まれていたと思う。衣食住に全く不自由せず、高い水準の教育を受けられたこと。バライシュやサリアと過ごせたこと、ネイルさんをはじめたくさんの人たちに面倒を見てもらえたこと、そして父上の子であったこと。どんな大人になればいいのか、父上は身をもって示してくれていた。

「シシーバ。私も、お前さえ幸せならば他のことは全部どうでもいいのだ。これまでそう思ってやってきた。それを忘れるな」

 まさか父上の口からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。聞きたかったのかどうかも分からなかった。胸が張り裂けそうなほど嬉しいのに、同時にどこか苦しくもあった。父上からごく一般の親と変わらぬ愛情を受け取るのは怖かった。むしろ陛下のために死ねと言ってほしい。死んだら「よくぞ死んだ」と手を叩いて褒めてほしい。そのほうがずっと気楽だった。

 シシーバは身を起こし、父上の光る両目を見て言った。

「ありがとうございます。……何だか俺、嫁入り前の娘みたいですね」

「そうだな。お前は嫁をもらうほうなのにな」

 父上も笑ってくれた。不思議と涙は出なかった。それどころか冗談さえ言える。自分も少しは大人になったのかもしれないとシシーバは思った。


***


 馬車がキューアン邸の門前に到着した。王家が用立ててくれただけあって、黒塗りの立派な馬車だ。

 実家での短い休息は終わり、再び北方へ向けて出発する時間だ。シシーバは見送りに来てくれた人たちに丁寧に挨拶をした。父上やネイルさんたち使用人だけでなく、ボエン叔父さんもいた。叔父さんは足が悪いのに、わざわざ来てくれたのだ。

「バライシュとサリアは、何やってるんだろうねえ」

 叔父さんがぼやいた。シシーバも二人に会えないまま出発するのは寂しかったが、王家の馭者ぎょしゃをいつまでも待たせるわけにはいかない。仕方なくシシーバが馬車に乗り込んだときだった。サリアが息せき切ってキューアン邸の前に走ってきた。バライシュはいなかった。

「遅くなってごめんなさい!」

 サリアは、バライシュが風邪を引いて家で休んでいると皆に説明した後、シシーバだけに聞こえる声で囁いた。

「バライシュの様子が変なの。何か悩んでるみたい」

「風呂上がりにすぐ服を着ないからだな」シシーバも大きな声で笑うのを皆に聞かせた後で、サリアに囁き返した。「心配いらない。もし何か気になることがあったら、父上に知らせるといい」

 不安げなサリアと目を合わせ、「大丈夫だ」と笑顔を作って励ます。いまのシシーバにできるのはこれくらいだ。バライシュのことは気がかりだが、家まで顔を見に行くような時間はない。

「次に帰ってくるのは半年後よね? あなたの結婚式、楽しみにしてるわ」

「うん、ありがとう。サリアも元気で。……バライシュをよろしくな」

 馬車が動き出した。これから八日かけてシシーバはバイラックへ戻る。半年後に帰るときまではキョウ族との戦いに集中しなければならない。馬車がキューアン邸の前を離れると、シシーバは振り返ってまで手を振ることはしなかった。

 ひとりになった途端、どっと疲れが出た。馬車の揺れに誘われて、いつの間にかシシーバは夢も見ないほど深い眠りに落ちていた。

 この後シシーバは、半年と経たぬうちにまたチェンマへ帰ることになる。ニアーダ暦五〇五年、晩冬。まだ梅すら咲かぬのに、夏の雨季ははるか先のことだった。雷を帯びた黒雲が、この国に大きな悲劇――後世のニアーダ人なら誰もが知る悲劇を、連れてこようとは知るよしもなかったのである。

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