二 バライシュ
シシーバは、随分大人になった。
バライシュが妻のサリアとともにキューアン邸を訪れたとき、シシーバもニアーダ城から戻ったばかりだった。バイラックからの長旅で疲れているだろうに、彼は客間で二人を出迎えてくれた。
久しぶりに見たシシーバの姿に、バライシュは一瞬言葉を詰まらせた。三年前はまだ幼さを宿していた頬は月日によって
「痩せたな、シシーバ」
「やつれたんだよ」シシーバはトガラの革帯を解きながら答えた。「お前は少し太ったな?」
「私の料理がおいしすぎるのかしらね」バライシュが答える前に、サリアが胸を張った。
「さては『おいしい』って言われて、作りすぎるんだな? だめだぞバライシュ、サリアはすぐ調子に乗るんだからな」
「ちょっと!」
シシーバが憎まれ口を叩いてサリアが怒ったふりをする光景も、胸が痛いほど懐かしい。それにしても、自分はそんなに太ったのだろうか。バライシュは思わず腹をさすった。
「それで、お姫様はどんな人だったの?」
サリアが興味ありげに尋ねた。
「とても聡明な、凛としたお方だった。弟君への愛情も深くて、素晴らしい女性だと思う」
「好きになれそう?」
「どうかな。まあ、仲良くするように努力はするよ」
シシーバはにこやかに淀みなく答えた。サリアがそれを聞くのは酷ではないか――そんなバライシュの心配はただの取り越し苦労だったようだ。当然といえば当然かもしれなかった。シシーバがチェンマを離れてから、もう三年も経つのだから。
「そっちこそ、仲良くやってるのか?」
「もちろんよ。バライシュは優しいもの」
「尻に敷いてるんだろ?」
「違うわよ!」
サリアは久しぶりに会った従兄弟に、いかに自分の夫が素晴らしいかを力説した。バライシュはたくさん褒められて嬉しかったが、ついこないだバライシュが朝食の支度を手伝おうとして、米を黒焦げにしてしまったのをばらされたときは顔から火が出そうになった。シシーバはときどき茶化しながらも、終始楽しそうに話を聞いてくれていた。
シシーバの表情にわずかな異変が起きたのは、サリアが別の話題を振ったときだった。
「ねえ、やっぱり戦場って大変?」
シシーバの目にかすかに困惑の色が浮かんだ。
「サリア。そんなことを聞くものじゃない」
「どうして? シシーバの大活躍、私も聞きたいわ」
「女に聞かせるような話では……」
シシーバは遮るように「大したことないよ」言った。
「馬に乗って、偉そうに
「そんなものなの?」
嘘に決まっていた。しかしサリアは納得した様子で、「それじゃあ、
「俺はバライシュの活躍譚が聞きたいな。キョウ族に武器を横流ししてたやつを捕まえてくれたんだろ? すごくありがたいよ」
シシーバはさりげなく話題をすり変え、如才ない笑顔を取り戻した。かえってバライシュは心配になる。シシーバにはこの場ではとても語れない話がたくさんあるように見て取れたからだ。
「シシーバ、いつまでこっちにいられる?」
「明日の昼には出るつもりだ」
「早すぎない? もっとゆっくりしていけばいいのに」
サリアの言うことはもっともに思えたが、シシーバは首を振った。
「バイラックまでは、馬をどんなに飛ばしても片道八日はかかるんだ。部隊長がそう長く不在にしていられないよ」
「それなら、明日朝のうちに手合わせしよう」バライシュは勝手に決めた。さいわい憲兵の仕事も明日は非番だ。「朝日が出たら、鶏舎の前に来い」
「ええっ、嘘だろ……」
シシーバは頭を抱えたが、嫌だとは言わなかった。バライシュにとって真の目的は手合わせではないことを、彼も分かっていたようである。
***
打ち合うこと数合、三年ぶりの対戦はバライシュが籠手を打って勝った。シシーバの疲れを考えると、最初から結果は見えていた。
二人はどちらからともなく風呂場へ向かった。父さんがすでに湯を沸かしてくれていた。サリアは家で朝食を作っているので来ていないが、それでも秘密の話をするならやはりここに限る。バライシュが先に入るのも昔と同じだ。
「僕はそんなに太っただろうか」
風呂上がりにまず聞くと、シシーバは笑った。
「そんなこと気にしてたのか? お前はもっと太ってもいいくらいだよ」
「最近、剣の稽古はできているのか?」
「全然」シシーバは肩をすくめた。「練兵の時間はあるけど、大勢の兵にざっと指導するだけだ。お前は相変わらず強くてほっとしたよ」
「お前も、稽古していない割に腕はなまっていないようだ」
「まあ、出撃すれば嫌でも剣を使うからな」
バライシュは「稽古」などというのどかな言葉を使った自分を恥じた。シシーバは真剣で殺し合いをしているのだ。話題に困って黙々と身体を拭いていると、やがてシシーバのほうから口を開いた。
「……北で、アテュイス様にお会いしたんだ」
「ホルタ王弟殿下のご長男か」
アテュイス親王殿下。バライシュはその人に対して思うところがあった。国王陛下の甥で、実質的な王位継承権は第二位。兵学に明るく、軍にも大きな影響力を持っている。外国人を蔑視し、敵対国に対して強硬姿勢を貫くべきと主張していると聞く。バライシュが憲兵隊にしか入れなかったのは、アテュイス様のご意向だろうということは薄々感づいていた。
その人のことを、シシーバは「怖いお方だ」と評した。アテュイス様は、キョウ族なら無抵抗の子どもでさえ容赦なく殺すという。万一彼に王位が転がりこめば、国境付近の戦火は拡大するだろうとシシーバは懸念していた。
「キョウ族になら勝てると思う。でも、ユーゴーみたいな大国には……」
最後まで言わずに、シシーバは口をつぐんだ。バライシュがチェンマでサリアと幸せに暮らしている間に、シシーバは北の果てで口にするのも憚られるほど不吉な未来を見ていたのだ。
「実は僕も、気になっていることがある」
バライシュは肩に布をひっかけただけの格好で話し始めた。
先ごろ捕らえた密輸商人は陛下を弱腰と非難していた。キョウ族が武器を手にしてニアーダに抵抗するようになれば、アテュイス様の唱える強硬路線が支持されやすくなる。密輸の黒幕は、アテュイス様に王位を継がせたい人間なのではないか。
バライシュの推論を聞くシシーバは、渋い顔をしていた。
「あり得ない話じゃないとは思うけど……」
「もしかして、アテュイス様ご自身が黒幕なのだろうか」
言葉は疑問の形を取りはしたものの、口にした途端に確信に変わった。陛下の対外姿勢を良しとしないアテュイス様が、王位
「すぐにでもアテュイス様の周辺を調べなければ」
「バライシュ」
シシーバは強い口調で言った。
「相手は王族だぞ。何の確証もないのに下手に動くのは危険だ」
「しかし何もしなければ、確証も得られないだろう」
「父上もそれとなく探りを入れてくれている。もう少し待て」
「僕の考えを言わせてもらう」
こう言えばシシーバは黙って聞いてくれることを、バライシュは知っていた。
「これは一刻を争う事態だ。陛下やジュディミス王子の身にもしものことが起きてからでは取り返しがつかない。だから僕はアテュイス様を調べる。お二人をお守りするためなら、命など惜しくは……」
「馬鹿言うな。サリアのことも考えろよ」
しかしこのときばかりは、シシーバはバライシュに反論した。
シシーバはきわめて冷静だった。断ち切れぬサリアへの想いから言うのではなく、妻帯者への一般的な忠告として言っているにすぎなかった。
「俺は陛下の
バライシュにとっては、「お前では陛下の役には立てない」と宣告されているも同然だった。
シシーバは自ら火中の栗を拾いに行くのだ。毎日王位を狙う魔の手に神経を尖らせ、とくに愛してもいない妻と
「バライシュ、しばらくは自重するんだ。分かったな? これは俺からの命令だ」
「……分かった」
バライシュはそう返事せざるを得なかった。
「俺も風呂に入ってくる。お前もさっさと服着ないと、風邪引くぞ」
シシーバは道着の帯を解き始めた。あらわになったシシーバの首や腕には、三年前にはなかった小さな傷痕がいくつも残っていた。鎧や籠手でも守りきれない部位だ。「偉そうに
「どうした?」
「いや……何でもない」
バライシュは笑顔を作ってごまかそうとしたが、シシーバはまだ
「もう帰ったほうがいいんじゃないのか? サリアが朝ごはん作って待ってるんだろ」
「ああ、そうするよ」
「後で見送りに来てくれよな」
そうだ。僕の家は、もうここではない。
唐突に、親友が遠くに行ってしまったような気がした。だが、シシーバ自身は何も変わらない。そもそもニアーダ屈指の名家に生まれたシシーバと、西方人の捨て子にすぎないバライシュでは、生まれたときから何もかもが違っていた。シシーバは夜空の星のごとく眩しく、また手の届かない存在だったのに、近くにいると勘違いしていただけだ。
打ちひしがれた気分で家に帰ると、サリアは庭に出て洗濯物を干していた。足元には鳥かごが置いてあり、紺色の着物と薄桃色の着物が仲良く並んで風にそよいでいる。
「お帰りなさい! どうだった? シシーバには勝てた?」
笑顔を輝かせて振り向いた妻を、バライシュは無言できつく抱きしめた。
「どうしたの……?」
「……分からない」
ただそう答えた。腕の中で困ったようにもがいていたサリアはやがて身体から力を抜き、そっとバライシュの腰に腕を絡ませてきた。
サリアはバライシュの葛藤など何も知らないはずだ。それでもその手はすべてを察しているかのように優しくて、何もかもどうでもよくなってしまいそうになる。アテュイス様も、シシーバも、陛下のことでさえも。サリアとの平穏で幸せな暮らしは、強烈にバライシュを誘惑した。シシーバには、この安らぎは決して手に入らないのだろう。
「朝ごはん、できてるわよ」
「うん」
「シシーバのお見送りには行くんでしょう?」
バライシュはしばし考えて、「いや」と答えた。
「少し頭が痛むんだ。風邪を引いたのかもしれない。うつしてもいけないし、残念だが僕は行かないことにするよ。シシーバによろしく言っておいてくれ」
「大丈夫?」
頭痛はもちろん口実だった。サリアが背伸びして、掌でバライシュの額を覆う。冷たい掌の感触が心地良かった。
「熱はないみたいだけど」
「心配いらない。ごはんを食べて少し寝たら治るだろう」
陛下か、サリアか。どちらかを選ばなければならないのなら、僕は――。
小鳥がいつになく鋭く鳴いた。しかし言葉を覚える鳥ではなかったから、それは単なる音でしかなかった。
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