二 シシーバ

 門が開くと一斉に軍馬の群れが飛び出した。ひづめが黒土を蹴散らし、飛礫つぶてが四方八方に飛び散る。

 バイラックは、首都チェンマから早馬でおよそ八日の距離にある北方警固の拠点都市である。キョウ族来襲の報せを受け、国境守備隊は今日も出撃を余儀なくされた。部隊長に出世したシシーバは、麾下きか五百人のうちから百人あまりの精兵を連れて現地へと馬を走らせた。

 北のキンドウ国との国境線は、東西に長すぎて十分な警備が行き届いていない。キンドウ南部の草原地帯に暮らす騎馬民族のキョウ族は、しばしばニアーダの国境を侵しては狩りや遊牧をする。それだけならばまだ目をつぶってもいいが、村を襲って略奪行為を働くのは許しがたい。

 カン川は、その清流で二つの国を隔てるだけでなく、周辺の村々に恵みをもたらしている。そこへキョウ族も水を求めて寄ってくる。困ったことに、未開の先住民たる彼らには国境という意識が希薄なのだ。

 一昔前なら、守備隊が来るとキョウ族はたいていすぐに逃亡していた。しかし最近ではどこからか質の良い刀剣を仕入れ、強硬に抗戦してくる。元来馬の扱いに長けた民族であるだけに、いまやキョウ族は手ごわい敵であった。

 守備隊が到着したとき、すでに村は燃えていた。道端には血を流した村人の死体がいくつも転がっている。黒い煙がもうもうと上がり、草木や死体の焦げる臭いが鼻腔を刺激する。キューアン邸の鶏舎も、本物の戦場とは全く比べ物にならなかった。

 出撃の際、シシーバは必ず自ら前線に立った。戦場は嫌いだが、命懸けの戦いを下兵ミマニだけに任せるのは性に合わない。

「キョウ族を逃がすな! 抵抗する者は一人残らず殺せ!」

 鞘から剣を抜き放って号令する。入隊後わずか二年で部隊長に抜擢されたのは異例の速さだった。自分より年上ばかりの下兵ミマニたちへ命令するのも、いまではすっかり板についている。

 シシーバは燃え盛る家屋の陰に、キョウ族の戦士を発見した。

 目元に赤い戦化粧を施し、白い戦装束をまとった男が、怯える老人に剣を突きつけて怒鳴っている。抑揚の激しいキョウ族語を、シシーバも少しは理解できるようになっていた。

〈ここは俺たちの土地だ! ニアーダ人は出て行け!〉

 わめきながら男が剣を振り下ろしたとき、シシーバは老人をかばって身体で剣を止めた。剣が首元をかすめたが、大した傷ではない。シシーバは剣を繰り出して相手の胸に突き刺した。皮膚が裂ける痛みにも、人を殺す手応えにも、もう慣れていた。

 助けた老人はこの村の長だった。いわく、キョウ族の男が村長の家から金貨の入った箱を盗み出した。まだ遠くへは行っていないはずだという。村人全員で貯めた大事な金を何とか取り戻してくれと泣きつかれて、シシーバはただ「分かった」とだけ答えた。水や食糧のみならず、金にまで手を出すとは。感情の半分は凍てついているのに、怒りだけはよく燃えた。

 村の背後は壁のように切り立った山だから、逃げるならカン川を渡って国境を北に越えるしかないが、警備に当たっていた兵によるとそれらしき男が現れた様子はないという。ならば、まだ村のどこかに隠れているのかもしれない。

 村を襲ったキョウ族は皆殺しにしたはずだ。身を隠せるような茂みはなく、多くはない家々もそのほとんどが燃えてしまったのに、盗人は見つからない。逃がしてしまったのか? 諦めかけたそのとき、ふと耳に入った音があった。鶏の声だ。

 鶏小屋は燃えていなかった。稽古道具を置いていたキューアン邸の納屋よりもいくらか小さく、中には雄鶏と雌鶏がそれぞれ二羽ずつ分けて飼われているだけだ。その隅に、いびつな形に膨らんだ大きな布袋が置かれている。

 シシーバは馬を降り、鶏を逃さぬようにそろりと小屋の中へ入った。剣を短刀に持ち替えて袋を切り裂くと、その中から箱を抱えた盗人が姿を現した。シシーバは驚いた。両手を挙げて降伏の態度を示しているその男は、まだ十歳を少し過ぎたばかりの少年だったのだ。

 震えながら、少年は必死に命乞いをしている。ごめんなさい、殺さないで、母さん、病気、薬、欲しい。

 少年の言葉を信じたわけではなかったし、かりに信じるとしても盗みを働いていいことにはならない。それでもシシーバの心が動いたのは、貧相な少年の身体つきがどことなく出会った頃のバライシュを思い出させたからだった。

〈子どもは殺さない。金を置け。立て〉

 シシーバは上手くないキョウ族語と身振り手振りで伝えると、自分の腰布を解き、鶏小屋の水に浸して少年の顔を拭いてやった。戦化粧を落として戦装束を脱がせれば、簡単には村の子どもと見分けられないだろう。

〈お母さんのところへ帰れ。もう二度と、国境を越えて来るな〉

 少年は頷き、鶏小屋から出て行った。シシーバも箱を抱えて外へ出る。敵に温情をかけるとは部隊長にあるまじき行為かもしれないが、金は取り戻したんだからこれでいいんだ――そう思ったとき、シシーバの目前で少年の胸に矢が突き刺さった。

 倒れる前、彼は一度振り返ってシシーバを見た。何の言葉も発しなかったが、何を言いたかったかはいやというほど分かった。

 崩れ落ちた少年の向こうから、騎乗した射手が姿を現した。色素の薄い髪を長く伸ばしているが、ニアーダ人の男性である。戦場にはそぐわない真っ白な着物は、トガラとヒオラを足して二で割ったような奇妙な服だ。まっすぐ伸びた背筋と、何の悪気もなく他人を見下ろす視線は、やんごとなき人間ならではのものだ。その人が誰なのか確信する前に、シシーバはひざまずいた。

「僕はアテュイス・ニアーダです。あなたがシシーバ君ですか」

 意外にも、その人は優しげな口調で言った。

 アテュイス・ジーン・ギアッカ・ニアーダ。のちのアテュイス王は、このときまだ親王だった。ソニハット王の甥にあたるその人は、バライシュと同い年だと聞いている。しかしその身から滲み出る高貴さが、彼をもっと年長に見せていた。

「なぜ、キョウ族を逃がそうとしたのですか?」

 その声に、シシーバの甘さをなじる響きはない。アテュイス様は心底不思議がっていた。それがシシーバにはかえって恐ろしかった。視界に入ったキョウ族を生かしておく選択肢など、この人の中には初めから存在しないのだ。

「……まだ、子どもでしたので」

「子どもはいずれ大人になりますよ。優しいのはけっこうですが、戦場では命取りになりかねません」

「はい、肝に銘じます。殿下のお手を汚させてしまい、誠に申し訳なく存じます」

「なに、僕も王族の端くれですから。わが国のために働いたまでです」

 このお方は、なぜこんなところまでやって来たのだろう。下を向いたままでは、その表情すら窺い知ることもできない。シシーバの頬を冷たい汗が伝って落ちた。

 アテュイス様が馬から降りる気配がした。神聖な王族でありながら、彼は血で汚れたシシーバの肩に躊躇なく触れた。

「怪我をしているではありませんか。早く手当をしなければ」

「ただのかすり傷です。ご心配には及びません」シシーバは傷を右手で覆い隠した。

「そう畏まらず顔を上げてください、シシーバ君。僕はあなたと仲良くしたいのですよ。だって―」

 アテュイス様の顔を見上げたとき悪寒が走った。白磁のような顔に微笑を浮かべながらも、灰色の瞳は獲物を狙う蛇のように光っていた。

「僕たちは近いうちに、従兄弟いとこ同士になるのですから」


***


 父上からの手紙は昨日届いたばかりだった。バライシュとサリアの結婚が決まったことと、秋の結婚式には帰れるかという問い、そして自分には陛下の御息女との縁談がまとまりそうだと書かれていた。妻となる姫君の名前は、まだ覚えていない。

 バイラックの営舎に帰還した後、シシーバは返事を書いた。キョウ族との戦いが厳しいことを理由に結婚式には出られないことを詫び、「縁談の件も万事よろしく頼む。姫との顔合わせの日取りが決まったら帰る」との旨を書き添えた。

「失礼しやす! シシーバ隊長、今晩ご一緒にどうです?」

 シシーバが自室で物思いにふけっていると、中年兵士の三人組が入って来た。全員兵役でやって来た下兵ミマニだ。彼らは家からも口うるさい嫁からも遠く離れ、ここバイラックで思い切り羽を伸ばしている。戦場に出て殺し合いをすることも、特に何とも思っていないらしかった。年若いシシーバを慕ってくれてありがたいのだが、元はどこで何の仕事をしていた連中なのかは考えないことにしていた。

「いや……今日はいいよ。傷が開くと困るし」シシーバは首元の膏薬こうやくを指して言った。

「相変わらず無茶をしますねえ。じゃ、またの機会にぜひ」

「楽しんでくるといい。安い女を買うなよ」

 自分がこんな言葉を口にしているなんて、バライシュやサリアには想像もつかないだろう。

「了解であります!」とおどけて返事する三人を作り笑いで見送った後で、シシーバは人知れず深いため息をついた。

 姫との縁談に関する話題が加わったことを除けば、実家から届く手紙は変わらずのどかだった。バライシュとサリアはお互いへの純粋な愛情を保ち続け、ついに結ばれようとしている。一方で自分は血で血を洗う生活に慣れ、その憂さを忘れるために女を買うことも覚えた。実家からの便りが届くたび、シシーバは三人で過ごした日々を思い出しては現状との落差に傷ついた。帰れないというのは嘘だ。帰りたくなかったのだ。結婚式で幸せな二人を見るのは、荒んだいまの自分をまざまざと見せつけられるのと同じだった。

 父上からの手紙には、こうも書かれていた。

「この一年で、陛下の近臣が相次いで三人も不審な死を遂げている。王城内には、幼いジュディミス王子を亡き者にし、ホルタ王弟殿下に王位を継承させようとする動きがあるようだ。我がキューアン家はニアーダ王家との関係を密接にし、身命を賭してジュディミス王子をお守りせねばならない」

 シシーバと王女との結婚は、そのための布石なのだ。

 アテュイス様は兵士たちへの慰問と称してはるばるチェンマからやって来た。だが王族がけがれた戦場にまで出てくることは通常あり得ない。しかもあのとき、アテュイス様は護衛すら連れていなかった。真の目的はじっくりシシーバを品定めすることだったに違いない。あの人が自分にどういう評価を下したのか、知りたくもなかった。

 嫌な予感がした。現在の王位継承権第一位はソニハット国王陛下の末子にして唯一の男子、弱冠十一歳のジュディミス王子である。もしジュディミス王子に万一のことがあった場合、王位継承権はホルタ王弟殿下に移る。しかし父上によると、王弟殿下は最近病気がちでとても政務には堪えられそうもないという。そうなると王の成人した息子が摂政として実権を握ることになる。――そしてホルタ王弟殿下の長男は、あのアテュイス様だ。

 滅多なことを考えるものではない。国王陛下は変わらず壮健であらせられるし、ジュディミス王子も健やかに成長なさっておいでだと聞く。何も心配はないはずだ。

 シシーバは逃げるように布団に潜り込んだ。戦場での疲れが眠りに誘ってはくれたが、あのキョウ族の少年が夢に出てきた。彼は胸に矢が刺さったまま、振り返ってこう言うのだ。

「よくも僕を騙したな」

 その声は少年のものとは思えないほど低かった。いつの間にか、少年はバライシュに姿を変えていた。青い両目と口からどろどろと血を流す親友の姿に、シシーバは叫び声を上げて飛び起きた。目覚めると、全身汗みずくで涙が溢れ出ていた。

 驚いた他の部隊長たちが、部屋まで様子を見に来ていた。

「大丈夫か?」と誰かが言ったが、シシーバは「少し嫌な夢を見ただけだ」と答えた。部隊長は同じ軍の仲間だが、将軍の座を懸けた競争相手でもある。隙を見せた瞬間に足を引っ張られかねない。

「しばらく軍務を休んだらどうだ?」

 その声も、真に自分を心配してのものだとは思えなかった。その間に出撃があれば戦功を奪われてしまう。ここには、シシーバの友は一人もいないのだ。

「大丈夫だ」

 大丈夫でなくてはならないのだ、とシシーバは自分に言い聞かせた。

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