第二章 任務

一 バライシュ

 ニアーダ王国暦五〇四年 夏


 王都チェンマにも、陛下のご威光が届かぬ影があった。

 ニアーダ城から南東へ馬を走らせると、小一時間ほどでナコン港に行き着く。ニアーダ湾に面したこの港には、東方将軍府の軍船や貿易船が多く停泊している。大きな港のそばで色街が栄えるのは、どこの国でも似たようなものだろう。

 夏の夜が潮風を孕んで湿り気を帯びていた。北へ延びる「宿屋通り」にはだいだいの丸提灯が点々と連なり、つかの間陸に上がった海の男たちを一夜の夢へと妖しく誘う。二階の窓に木製の網目格子があれば、ここは女を買える宿だという目印だ。

「お姉サン、今日ハ、一段と磯ノ香リが強イですネ」

 つばの大きな黒い帽子を目深にかぶったユーゴー人ふうの男が、片言かあことのニアーダ語で玄関先の女に告げた。「ええ、どうしてだと思います?」と艶っぽく微笑む女に、「南風ガ、吹くからデショウ」との返答。その手には、牛革の大きな黒い鞄がある。

「こちらへ」

 男は廊下を連れられて行った。あちこちの部屋から陽気な管弦の調べや嬌声が漏れ聞こえてくる。突き当たりまで進むが、そこには板壁しかない。しかし女がコツコツと二度叩くと、向こう側からも叩き返す音がする。今度は小刻みに三度、二度、二度と叩く。すると板壁と見えていたそれは扉となって開き、地下へ続く隠し通路が現れた。

「お待ちしておりました」

 行灯あんどんが一つ点っただけの地下室はほの暗い。赤い毛氈もうせんの上に、質素な机と椅子が二つ。男は手前の椅子に腰かけた。正面にはこの宿の主人らしい男が座っている。その他にも入口に一人、奥に二人、計三人の用心棒がいる。

「お約束の品は、お持ちいただけましたかな?」

「ソノ前に、お金を見せてクダサイ」

 主人が足元から木箱を取り出してみせた。男がそれを開けると、中身はぴかぴか光る大量の金貨だった。

「これでよいでしょうか? では、手前様もお約束通り『例の物』をお願いします」

 しかし男は鞄をすぐには手渡そうとせず、主人にこう聞いた。

「私たちノ阿片アヘンハ、良く売れマスカ?」

「ええ、ええ、それはもうお陰様で、最近は楽をさせていただいております」

 主人は手揉みしてにやにやと笑っている。

「痛み止めトカ、良く眠れる薬トカ言って、売るのデスカ?」

「その通りです。最初は金を取らず、ただで分けてやるんです。一度使わせたらもうこっちのものですからね。後は放っておいても、死に物狂いで金をかき集めて売ってくれと言うようになります」

 帽子の下で、笑みをたたえていた男の口角がぴくりと動いた。

「悪い……トハ、思わないのデスカ?」

 主人は大笑して、「まさか」と即答する。

「嘘はついていない。ちゃんと痛み止めや睡眠薬の効果はありますよ。まあ、ちょっとばかり中毒性が高いってだけでね。だいたい良薬がただで手に入ると思うほうがどうかしていると思いませんか。貧乏人というやつは、どれだけ無知で厚かましいのか」

 帽子の下で、男の双眸そうぼうが青く光った。

 さあ早く品物を―と促す主人の鼻先に、白刃がひらめく。鮮血が糸を引いて飛んだ。主人の卑しい笑みは驚愕へと変わり、彼は椅子ごとひっくり返る。いつの間にか鞄が開いていて、男の手には短刀が握られていた。

「こいつ、憲兵だぞ!」

 用心棒の一人が叫ぶやいなや、男は木箱を投げつけた。金貨がきらめきながら飛び散る。怯んだ三人を手際よく叩きのめしたとき、階上でも騒ぎが起こった。男の仲間たちが一斉に突入してきたのだろう。

 帽子が足元に落ちている。それを拾い上げる持ち主の髪は、行灯の光を浴びてにび色に輝いていた。

「お手柄だったな、バライシュ」

 振り向くと小柄で浅黒い肌の中年男がにこにこと笑っていた。バライシュの上官、メイサディ隊長だ。

「殺したのか?」

「いえ、そこまでは」白目をむいて気絶した主人に縄をかけながら答える。バライシュの一閃は、主人の分厚い面の皮を一枚切り裂いただけだ。「殺してやりたいくらい、頭に来ましたが」

 わはは、とメイサディ隊長が豪快に笑う。

「大人になったもんだ。入隊直後のお前なら、こいつはいまごろ首と身体が繋がってなかったろうなあ。――ともあれ良くやった。半年も内偵した苦労が報われたな。陛下もお喜びになるだろう」

「はい」険しかったバライシュの目元が、ようやく緩んだ。「ですが、戦いはまだ始まったばかりです」


***


 憲兵隊に入隊してから、はや二年が経つ。

 バライシュの主な任務は密輸品の取締、とりわけ阿片などの麻薬を取り扱う密輸商人の摘発である。阿片はユーゴー帝国からキーワックやラマヤットといった南方の国々を経由して海からやって来る。バライシュは西方人系の容姿を生かしてユーゴーからの売人を装い、チェンマ市中に阿片を売りさばいていた悪徳商人をあぶり出したのだった。

 捜査班は憲兵隊の花形だ。当初は軍に入れず落胆していたバライシュだったが、いまではこの仕事も悪くないと思えるようになった。敵対国たるユーゴーの狙いは、ニアーダ中に阿片を蔓延させて国民を骨抜きにすることだ。戦場には出ずとも、バライシュにも敵と戦っている自負があった。

 入隊するまで、憲兵には良い印象がなかった。バライシュがかつて孤児だったころ、市中巡回の憲兵たちに厳しく追い回されていたからだ。しかしいざ中に入ってみると、メイサディ隊長はじめ意外と気のいい連中ばかりで、孤児に対してはむしろ同情的な者が多かった。それもそのはず、憲兵に配属される上兵タキのほとんどがさほど裕福でない家庭の出身なのだ。彼らが上兵タキになったのは安定した収入を求めたからだが、みな読み書きを覚えるだけで精一杯で、将軍候補を目指せるほど高度な教育を受ける余裕などなかった。バライシュはキューアン家に拾われた僥倖ぎょうこうを改めて実感した。

 養父母のネイル夫妻は変わらずキューアン家に仕え、住み込みで働いている。だからバライシュが帰る先も変わらずキューアン邸だった。嫡子のシシーバは北方へ行ってしまったのに、自分だけが屋敷に居座り続けているのは少し奇妙ではあった。

 ナコンから夜遅く帰ってきたバライシュは翌日も早朝に起床した。その日は非番だったが、子どもの頃からの癖で鶏が鳴くより先に目が覚めてしまうのだ。そういうときはひとりで鶏舎に行き、竹刀ビリンを振るう。

 バライシュが入隊してから間もなく、サリアも朝稽古に来られなくなった。母親が重病にかかってしまい、看病と家事に追われていたからだ。その母親も、一年と少し前に帰らぬ人になった。いつも勝気なサリアが葬儀では人目もはばからず泣いていて、バライシュは気の利いた慰めの言葉ひとつ思いつかない自分を歯がゆく思った。

 その日以来、バライシュはあまりサリアと話せていない。シシーバがいないところで彼女に会うのはどうにも気が引けた。バライシュが朝仕事に向かうとき、玄関先を掃除するサリアと顔を合わせるくらいだ。疲れているだろうに、いつも笑顔で「行ってらっしゃい」と挨拶をしてくれるサリアを見るのは切なかった。

「バライシュ、今日の水汲みは手伝わなくていい。朝ごはんをすませてトガラに着替えてきなさい」

 朝稽古を終えると父さんが言った。今日はお客さんが来るそうだ。誰かと尋ね返したが、「知っている人だよ」と微笑むだけで教えてくれなかった。トガラを着て迎える相手ということは目上の人物だろうが、見当がつかない。いぶかしく思いつつも、バライシュは言われた通りにした。トガラを着たのは辞令が出た日以来だ。

「せっかくの休みなのに、悪いな」

 客間で待っているとコーウェン様がお見えになった。コーウェン様のお召し物はいつも通り質の良さそうなものだったが、トガラではなかった。客人とはもしかしてお忍びでいらした陛下なのではないか、というバライシュのかすかな期待は消えた。

「お久しぶりだね、バライシュ君。たいそうご活躍だそうじゃないか」

 コーウェン様のあとに続いて現れた客人は、トガラを着て杖を突いていた。

 その人の名は、ボエン・ダヤム・キューアン。コーウェン様の弟でシシーバの叔父、そしてサリアの父親にあたる人だった。ただ目鼻立ちのはっきりした三人とはあまり似ておらず、ボエン叔父さんの顔は平べったくて目は糸のように細い。

 もちろんボエン叔父さんとバライシュに血縁はないが、シシーバと同じように親しみを込めて「叔父さん」と呼んでいた。叔父さんは生まれつき足が悪かったために軍人にはなれず、役人になってニアーダ城の書物庫を管理する仕事をしている。だがもし足が悪くなかったとしても軍人にはならなかっただろうとバライシュは思う。叔父さんはコーウェン様と違ってのんびり屋でどこか飄々としている。規律が厳しい軍隊には向かない人だ。

 ボエン叔父さんの話は当たり障りのない挨拶から始まった。叔母さんの葬儀に来てくれたお礼、最愛の妻を亡くして落ち込んでいたけれどようやく立ち直ってきたこと、こないだイーマー市場で新しい杖を買ったこと。

 バライシュも尋ねられるままに自分の近況を話したが、足の悪いボエン叔父さんがわざわざやって来た理由を図りかねていた。暑いのにトガラを着ているのだから、単なる茶飲み話をしに来たのではないはずだ。

「ボエン、無駄話が過ぎるぞ。いい加減本題に入らんか」

 しびれを切らしてコーウェン様が言った。天下の東方大将軍からのお叱りを、「あはは、ごめんごめん」ですませられるのはボエン叔父さんくらいだろう。

「じゃあ、本題ね」ボエン叔父さんは微笑みを浮かべたまま、まっすぐバライシュの目を見た。

「バライシュ君、うちのサリアに、結婚を申し込んでやってくれないかな」

 驚きのあまり、一瞬頭が真っ白になった。その後は歓喜よりも当惑がバライシュの心を占め、それが隠すべくもなく顔に出ていることも自覚していた。

「僕自身は、サリアをここに連れてきて直接『私と結婚して!』って言わせたらいいと思うんだけど、兄さんが『結婚は男のほうから申し込むのが常識だ』ってうるさくってさあ」

「うるさくて悪かったな」コーウェン様が苦笑する。

「回りくどくてごめんね。うちの嫁さんの喪も明けたことだし、そろそろいいんじゃないかと思うんだけど。だめかな?」

「……シシーバは」しばしの沈黙の後に口からこぼれ出たのは、恩義ある親友の名前だった。「知っているのですか」

「おやおや、なぜシシーバに許可を取る必要があるのだ、バライシュ?」

 コーウェン様がにやりと笑う。バライシュは自分が失言したことに気がついたが、もう遅かった。

「お前、それでよく密偵が務まるな。口には気をつけろよ」

「まあ無理もないよね、うちの娘は誰から見ても可愛いからね」

 ボエン叔父さんはのんきに言ってのけた。顔面から血の気が引いた後、今度は耳の先まで熱くなる。バライシュは心の中でシシーバに深く詫びた。

「お前ならそう言うだろうと思って、実は前もってシシーバには手紙で伺いを立ててある。その返事が一昨日届いた。お前宛だ」

 コーウェン様は茶色の封書を差し出した。


  バライシュへ


  俺は大将軍になる。

  お前は、お前の望むようにしろ。


  シシーバ・ダラハット・キューアン


 走り書きのようだが、確かにシシーバの筆跡だ。その懐かしさだけでも、バライシュの胸を熱くするには十分だった。

 最近北方ではキョウ族との衝突が頻発していて、シシーバもかなり忙しいらしい。手紙がごく短いのはそのせいだろうとコーウェン様は言う。だがバライシュはそうは思わなかった。シシーバは何を書くべきか、かなり悩んだはずだ。つらつらと恨み言を書くほど女々しくはないが、大げさな祝辞を送るのも空々しい。本心も嘘も書かない代わりに、彼は命令したのだ。それはもっともシシーバらしく、もっとも誠実な返答だとバライシュには感じられた。

「シシーバには別の縁談を用意してある。さる高貴なお方だ」

 コーウェン様の言葉に、バライシュは顔を上げた。キューアン家より高貴な家柄など、ニアーダには一つくらいしかない。きっとシシーバはその女性に会ったことすらないだろう。

「バライシュよ、何代にもわたって家勢かせいを保ち続けるというのは簡単なことではない。あの子に結婚相手を好きに選ぶ自由は、初めからなかったのだ。お前が青い目に生まれたせいで、憲兵隊に回されたのと同じようにな」

 いつも厳格なコーウェン様がシシーバのことを「あの子」と呼んだのを、バライシュは初めて聞いた気がした。

 バライシュは固く目を閉じた。シシーバに向かって「お前はキューアン家の跡継ぎなんだ」と何度言ったかわからない。それがシシーバにとってどれほど残酷な言葉だったか考えもしないで。

 ボエン叔父さんが身を乗り出してきた。

「あのね、バライシュ君。この世にはいくら望んでもどうにもならないことがあるよね。君の目は僕みたいな茶色にならないし、僕は君のように走ることはできない。だからこそ、叶えられる望みはできるだけ叶えたほうがいいと思うんだ。僕みたいにね」

 ボエン叔父さんの妻、つまり亡くなったサリアの母親は平民よりも下の賤しい身分だった。法の定めで、貴族の男は平民以上の女としか結婚できない。だから叔父さんは周囲の反対を押し切って貴族位を捨てた。おっとりしているように見えても、やはりキューアン家の熱い血が流れているのだ。

「僕はを叶えてあげたい。だからこんな格好でここに来たんだよ。……僕が何を言いたいか、分かってくれるよね?」

 バライシュは頷いた。

「……これから、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「もちろんだよ。僕はここでしばらく兄さんとお茶でも飲んでるね」

 バライシュは屋敷を飛び出した。キューアン邸の門を出て三軒先の角を曲がるとサリアの家だ。たったこれだけの距離を行くのに、二年もかかってしまった。矢も楯もたまらず走ってきたくせに、見慣れた小さな引き戸の前に立ったとき、バライシュは急に言葉に迷った。当然のことながら、結婚の申し込みなんてしたことがない。それ以前に何と言ってサリアを玄関先に呼び出せばいいのだろう。心臓だけが急いでいて、頭と体は固まっていた。

 不意に戸が開いた。バライシュは声を上げそうになるのを、すんでのところでこらえた。それを見てサリアが笑った。最高の笑顔だ。ほっとしてバライシュも笑った。サリアに右手を掴まれて、バライシュは家の中へと導かれていく。そのとき左手で玄関を閉めるのは、忘れなかった。

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