三 シシーバ

 その気になれば、サリアにはすぐ追いつくことができた。それでもシシーバがわざとゆっくり走ったのは、サリアが人気ひとけのない場所に着くのを待つべきだと思ったからだ。泣いているところなんて、サリアは誰にも見られたくないだろう。やはりシシーバはサリアに「手加減」をしてしまう。

 サリアは裏庭まで走り、竹林の陰で立ち止まった。すぐそばには池がある。去年バライシュが鶏を追って落ちた池だ。

「……面白かった?」

 背を向けたまま、サリアが尋ねてきた。

「弱いくせに調子に乗ってる私を見て、二人で笑ってたのよね?」

「そうじゃない」そんなつもりは一切なかった。ましてバライシュは関係ない。

「じゃあ、どうしてずっと手加減なんかしてたのよ」

「それは……」

 本当のことは言えなかった。サリアのことが大事だから痛めつけるのが怖かったんだ、などと。それはほとんど愛の告白と同じに思えた。言っても無意味だ。サリアが好きなのはバライシュなのだから。

 シシーバが言いよどんでいると、サリアがくるりと振り向いた。その顔には意外にも、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。

「……なんてね。本当は、とっくに気づいてたよ。あなたに騙されてるふりをしてただけ」

「えっ……嘘泣き?」シシーバは目を丸くした。

「もう、ダラハットったらなんて顔」サリアはくすくす笑った。「私だって剣士の端くれなのよ」

 今度はシシーバが、「どうして」と聞く立場になった。

「どうしてかしらね」サリアは池の端にしゃがみ込んだ。シシーバも隣に腰を下ろすと、きらめく水面の下で鯉が寄ってきて口をぱくぱくさせているのが見えた。あの後、バライシュは本当に池底の泥を浚ってくれた。

「たぶん、居心地が良かったんだと思うな」

 強くて容赦ないバライシュと、ひ弱なお坊っちゃまのシシーバ。三人で過ごすのんびりした楽しい毎日。「いつまでも変わらずにいたかったのよね」とサリアは言う。

「俺も同じだ」

 すっと胸のつかえが取れたような気がした。大人になんかなりたくなかった。成長して、別々の生きものになってしまうのが怖かったのだ。シシーバは男に、サリアは女に。

「私に打たれて、きっと痛かったときもあったよね。ごめんね」

「いいんだよ、俺がサリアを叩くよりは。男と女じゃ、どうしたって差があるもんな」

「それは違うわ」サリアがきっぱりと言った。「男が私より強いんじゃなくて、あなたとバライシュが私より強いだけ。何もかも『男と女だから』って片付けないで。……でないと、女に生まれたこと自体否定したくなってしまう」

「……ごめん」

 サリアは自分の膝に顔を埋めた。今度こそ泣いているのだと思い、シシーバはその肩を抱きたい衝動にわれながら戸惑った。しかし実際には、サリアは気丈にも涙を落とすことなく顔を上げた。

「本当に軍人になっちゃうのね。私、あなたが心配でたまらないわ。一緒について行けたらいいのに」

「大丈夫だよ、俺は強いから。さっき見た通りだ」

「でも、あなたは優しいもの」

 そう言ってサリアは笑顔を見せた。シシーバが一番好きな、弾けるような笑顔ではなかった。どこか寂しげで大人びた表情だった。シシーバは無性に悲しくなり、涙が溢れるのに任せて泣いた。サリアの前で恥ずかしく思う気持ちは不思議と起こらなかった。シシーバは慰めるより、慰められるほうの人間だった――少なくとも、今日までは。だからいまは泣いていいのだ。泣くべきなのだ。上兵タキになってしまえば、もう二度と子どもには戻れないのだから。

「相変わらず泣き虫ね」

「……それでも、俺は大将軍になる男だよ」

「そうね。楽しみにしてるわ、ダラハット」

 サリアが呼ぶ二の名ブムナの、軽やかな響きが好きだった。うつむくシシーバの髪の上を、優しい手が通り過ぎていく。サリアが自分の身体に触れるのは、きっとこれが最後だろうとシシーバは思った。


***


 ニアーダ王国暦五〇二年 八月一日


 その日、鶏は鳴かなかった。

 ニアーダの夏は雨が多い。朝日を隠された鶏の代わりに、バライシュがシシーバを起こしてくれた。

「今日が何の日か忘れたのか。上兵タキの先輩が、辞令を持ってお見えになる」

 シシーバは飛び起きた。二人が上兵タキ登用試験に合格してから、およそ一か月後のことだった。

 バライシュにも手伝ってもらい、慌てて海老茶色のトガラに着替える。トガラはニアーダ男性の正装だ。丈の長い着物を重ね着し、腰に黒い牛革の帯を締めたとき、身も引き締まる思いがした。バライシュも濃紺のトガラを着ている。緊張のためか、その頬は普段よりいっそう白かった。今日、二人の入隊先が発表されるのだ。

「遅いぞ、シシーバ」

 客間では父上がやはり臙脂えんじ色のトガラを着て待っていた。コーウェン・バンクパット・キューアンは、海軍を含むニアーダ東方軍と首都警固を統括する東方大将軍である。新兵の配置についても最終決定権を持っており、当然二人がどこへ入隊するのかもすでに知っているはずだが、シシーバは事前に尋ねなかった。たとえほんのわずかでも、「大将軍の息子」という特権を利用したくはなかったからだ。

「シシーバ、お前はどこに行きたい?」

 シシーバと顔はよく似ているのに、醸し出す威厳は全く違う。四十五歳という年齢と、王侯貴族の家長にだけ許された髭。そして何より実際の戦場を知る人の威厳だ。父上はシシーバが生まれる前、南の隣国キーワックとの戦争で活躍して出世した。

「北か西だといいと思っています」シシーバはにこやかに答えた。軍の話をするときだけは、緊張せずに父上と話せる。

「ほう? お前のことだから、平和な南か、私がいる東がいいと言うかと思っていたが」

「戦場に出ないと出世できませんから。それに、父上の軍では命がいくらあっても足りなそうです。遠慮なくこき使われそうで」

「よく分かっているじゃないか」父上が笑った。「バライシュ、お前はどうだ」

「僕は」言いかけたバライシュから言葉を奪って、シシーバが後を続けた。「『陛下のお役に立てるなら、どこでも構いません』だろ?」

 父上がさらに笑い、青ざめていたバライシュの頬が赤くなった。

 自分でも意外だったが、シシーバは冗談を言えるほどに落ち着いていた。暑いから早くトガラを脱いでしまいたい。そんなのんきなことを考える余裕さえあった。

 やがて黒い軍装の上兵タキが、雨よけの外套から滴を垂らしながらキューアン邸を訪れた。辞令の通達に下兵ミマニではなくわざわざ上兵タキが当たるのは、下兵ミマニには文字を読めない人間が多かったからだ。

「辞令を読み上げます」緊張した面持ちで若い上兵タキが告げた。

 シシーバの配属は北方の国境地帯、バイラックの守備隊だった。キョウ族との衝突が繰り返される過酷な戦場は、将軍になる者が一度は必ず経験しなければならない任地だ。シシーバは元気よく承諾の返事をした。自分が恐ろしい場所へ行くという実感はまるでなく、ただ希望が叶ったことに対する喜びだけがあった。

 ところがバライシュの配属先は、想像だにしていなかったものだった。

「バライシュ・ネイル、チェンマ憲兵隊本部。……辞令は以上です」

 バライシュはわずかに目を見開いた後、瞑目めいもくして「ありがとうございます」と頭を下げた。

「憲兵隊?」シシーバは父上の顔を見た。「どういうことです、父上」

 憲兵隊は本来軍規維持のための警察組織だが、首都チェンマの本部では治安維持も兼ねている。市民を厳しく取り締まるため嫌われやすく、「汚れ仕事」と呼ばれて誰もやりたがらない。憲兵隊は軍にあって軍にあらず、将軍候補にはなれない。登用試験での成績下位者から順に配属されるのが常だ。

「ええと……北方への出発ならびに憲兵隊の入隊式は、十日後です。……なお、決定に不服があれば、本日中に申し立てをすれば考慮されることがありますが……」

 おずおずと言う上兵タキに、シシーバは「不服に決まっている!」と叫んだ。申し立てるべき相手は、いま目の前にいる。

「なぜバライシュが憲兵隊なんかに? こいつの成績が悪かったわけがない!」

「もちろん優秀だったとも」父上は目を伏せた。「しかし、軍務に携わっておられる王族の方々の中には、バライシュのような人間をたやすくお認めにはなれない方もいらっしゃるのだ」

 父上の言わんとすることは、シシーバにはすぐに分かった。バライシュが「青い目」だからだ。

「バライシュよ、『陛下のお役に立てるなら、どこでも』構わんと申したよな?」

「はい」バライシュは表情ひとつ変えなかった。

「だからって、父上……」

 なぜこんな理不尽な辞令におとなしく従わなければならないのか。バライシュはれっきとしたニアーダ人だ。陛下への忠誠心は誰よりも厚い。肌や目や髪の色が違うからといって、何だというのか。

 だが反論しかけたシシーバを、バライシュが制した。彼は辞令に文句を言うどころか、父上に頭を下げてこれまで養ってくれたことへの礼を言い、激しい雨の中やって来た上兵タキを気遣いさえした。

「シシーバ、配属は別々になってしまったが、これからお互い陛下のために頑張ろう」

 いつも表情に乏しいバライシュが微笑を作った。「これ以上何も言うな」という意思表示だ。それはつまり、バライシュ自身も内心ではこの決定に納得しかねているということだった。

「では、私は着替えて父と仕事に戻ります。憲兵隊に入隊する前に、雨戸の点検を全部すませておかなくては」

「うむ。……すまんな」

 父上が口にしたのは謝罪なのか、それとも使用人に対するねぎらいなのか、シシーバには分からない。

「バライシュ、俺が将軍になったら、きっとお前を引き抜いてやるからな」

 それはシシーバに言える精一杯の慰めだったが、バライシュはもう何も答えなかった。

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