二 バライシュ

 永遠に朝が来ない夜のような毎日だった。あの方に救われるまでは。

 バライシュ・ネイルは捨て子だった。両親の顔は知らない。物心ついたときにはもう路地裏暮らしで、年齢は同じ境遇の仲間たちから聞いた。仲間たちと同様に名前は無く、「青い目」「白い顔」などと適当に呼ばれていた。

 当然ながら生活は極めて貧しく、こそこそと残飯を漁って食いつないでいた。ときには気まぐれに食べ物を恵んでくれる人もいたが、本気で彼らを助けてくれる人は現れなかった。浮浪児は野良犬と同じで街の鼻つまみ者だったし、特に異邦人の血を引く「青い目」は嫌われていた。当時ニアーダ王国は北方の騎馬民族キョウ族や、西方のユーゴー帝国にたびたび国境を脅かされていたからだ。雨の夜に民家の軒先で眠っていると、無慈悲な家主に追い出されることもあった。憲兵に捕まって敵国の間諜ではないかと疑われることもあった。チェンマの路地裏しか知らない少年には、「敵国」の意味すら分からないのに。

 そんな生活でも楽しみはあった。月に一度だけ、近所の寺で貧民救済のために食糧や衣服が振る舞われるのだ。その日だけはお天道様の下でまともな料理が食べられる。少年は毎月寺の赤い門をくぐるのを心待ちにしていた。

 その寺はニアーダの国教であるシャーニン教の寺院だった。剃髪した尼僧にそうが、説話を語り聞かせてくれた。ニアーダは太陽神バースの子孫が作った国だ。だから、暦や時計もすべて太陽の動きを基に作られているのだと。

「この国は、神の国なのですよ」

 尼僧は優しく微笑んだが、当時の少年にはさっぱり理解できなかった。

「神様」とは何だろう。どうやらものすごく偉くて、何でもできる不思議な力を持っている人らしい。生きている間に良い行いをした人は、死んだ後に神様が天国に連れていってくれる。そこではお腹を空かすことも、目の色が違うからといって石を投げられることもなく、ずっと幸せに暮らせるという。でもそんな人がいるなら、どうして僕を青い目なんかにしたんだろう。

 やがて少年は十歳になり、年を数えるのに両手の指を使い切ってしまった。十より大きい数は知らなかった。十歳の次は何歳になるんだろう?

 ところがその年、夏に日照りが続いたせいでニアーダ国中が大飢饉に見舞われた。仲間たちは秋すら越えられずにばたばたと死んでいった。果たしてみんなは天国に行けたのだろうか。そうであってほしかった。少年も飲まず食わずの日が何日も続いて、いまにも力尽きそうだった。

 そうだ、あのお寺に行こう。

 少年が朦朧もうろうとする頭で思い浮かべたのは、鮮やかな丹塗にぬりの門と尼僧の笑顔だった。食べ物を分けてもらおうと考えたのではなかった。自分はもうすぐ死ぬのだろうと覚悟していた。十までしか数を知らないから、十歳で死ぬのだ。どうせ死ぬなら大好きな場所で死にたかった。骨と皮だけになった身体で、少年はよろよろと歩き出し、そして赤い門に辿り着いてすぐに意識を失った。だから目を覚ましたとき、そこは天国なのだと思った。

 最初に目に飛び込んできたのは、髭を生やした男の人。その緑の瞳と目が合った瞬間に、思わず呟いた。

「……神様」

 その人はまばゆい光の中に立っていて、とても現世の人とは思えなかった。美しいものを映したことのない「青い目」には、その人の姿を上手に形容するすべがなかった。ただ見ていると胸をぎゅっと締めつけられるような、それでいてじんわりと温められるような気持ちになった。少年は自然とお礼が言いたくなったが、思うように声が出ず、身体も動かなかった。

「無理に起きずともよい」

 心地よい低音の響きだった。額を撫でてくれるてのひらにやわらかな熱を感じたとき、少年はまだ自分が生きているのだと知った。

 急に視界がはっきりしてきた。自分はいま屋根のある部屋の、屋根のある寝ぐらにいる。身体はふかふかしたものに包まれていて温かい。部屋はとても広い。光だと思っていたのは、部屋を区切る白い幕だった。

 身体もゆっくりとなら動かせそうだ。少年は身を起こして、か細い声で「ありがとう」と言った。

「そなた、名は何と申す?」

 神様に尋ねられても、名無しの少年には首を振ることしかできなかった。「名前がないのか?」と言われて頷いたとき、なぜだかものすごく恥ずかしくなった。

 神様はふむ、としばし考えて言った。

「では、お前の名は、今日から『バライシュ助ける者』というのはどうか? 私にもう一人男児が生まれれば、つけようと思っていた名なのだが」

「バ、ライ、シュ……バライシュ……」

 少年は与えられた名前を、何度も舌の上で転がして味わった。その味は舌ではなく、耳と喉の震えによって感じるものだ。少年の胸の奥に、じんわりと喜びが染みわたってきた。

 僕は、バライシュ。今日から名前をもつ人間なんだ。

「気に入ってくれたか?」

 バライシュは感激して何度も頷いた。神様は、本当にいるんだ!

「ありがとう、神様!」

 神様は高らかに笑った。その人が神様ではなく王様だと知ったのは、ずっと後になってからだった。

 空腹のあまり方向感覚を失っていたバライシュは、寺の赤門とニアーダ城の裏門を間違えていたらしい。そこへ偶然、お忍びで外出なさっていたソニハット国王陛下が通りがかられた。なんと陛下はおん自らバライシュをお抱えになり、ご寝所へお連れになったのだという。あの美しい人が、薄汚い僕なんかを! バライシュはあまりの畏れ多さとありがたさに震えて泣いた。

 陛下は親交の深い東方大将軍コーウェン・バンクパット・キューアンに、バライシュの引き取り手はいないかと相談した。ちょうどコーウェン様が奥様と離縁したばかりの時期だった。寂しい思いをしている一人息子シシーバの兄代わりになればと、コーウェン様はバライシュを引き取ってくれた。しかし身分違いの養子は禁じられているため、バライシュは戸籍上ネイル夫妻の養子になった。

 陛下に命を救われただけでも幸運すぎるのに、キューアン家に迎えられてバライシュの人生はさらに好転した。ネイル夫妻という温かい養父母に恵まれたうえ、コーウェン様の計らいで嫡子のシシーバや分家の娘サリアと一緒に学問や剣術を教えてもらえた。バライシュはいつか陛下のご恩に報いたい一心で真剣に取り組んだ。「使用人の子でも、シシーバと同じキューアン家の子として扱う」とコーウェン様は言ってくださったが、拾われた恩を少しでも返したくて、養父母の仕事も手伝うことにした。

 シシーバやサリアと一緒に学ぶのはとても楽しかった。初めは文字も読めなかったバライシュに、二人とも親切に教えてくれた。特にバライシュは算術が好きだった。十の次は十一で、その次は十二。十万でも百万でも数えられるようになったとき、一気に明るい未来が開けた気がした。

「俺は大人になったら大将軍になるんだ。そしたらバライシュを副将にしてあげようか?」

 初めて会ったときから、シシーバは繰り返し言っていた。大将軍はニアーダの東西南北に一人ずつ、全部で四人しかいない軍人の最高位である。とはいえ当時七歳のシシーバに、大将軍を目指す強い動機などあるはずもない。祖父も父親も大将軍だったから、シシーバも当然同じ道を辿るものと定められていただけだ。

「僕は、陛下に恩返しができるなら何でもいい」

「じゃあ、俺とバライシュで、命を懸けてこの国を守ろう。バライシュが一緒なら、俺もやる気が出るよ」

 シシーバは口先だけの子どもではなかった。彼はとても聡明だし、サリアに負けてばかりだった剣術も、いつの間にか三歳年上で身体の大きいバライシュとも互角に戦えるほど上達した。バライシュの贔屓目ひいきめかもしれないが、大将軍になるという夢も決して大それたものではないように思えた。


***


 ニアーダ暦五〇二年 夏


 バライシュ十九歳、シシーバ十六歳の夏。上兵タキ登用試験の日は、明日に迫っていた。

 当時のニアーダ王国では、成人男子に二年間の兵役が課せられていた。兵役によって召集された兵士を「下兵ミマニ」と呼ぶのに対し、「上兵タキ」はいわば職業軍人のことだ。その登用試験はキトーラ(シャーニン教の教典)や用兵学、算術などに関する筆記問題と、剣の実技試験からなる。合格すれば将軍候補として軍団に配属され、まずは十人隊の隊長としてキョウ族やユーゴー帝国との国境紛争に従軍することになる。そこで戦果を挙げれば配下が徐々に増え、部隊長、小将軍、将軍と出世できるのだ。

「いいなあ、男子は」

 朝稽古の後でサリアが呟いた。いくら勉強しても、剣が強くても、女は軍人になることができない。

「ダラハットより私のほうが、よっぽど戦場で役に立つと思うんだけどな」

 もちろんその日も、サリアに対してバライシュは軽くあしらい、シシーバは手加減をして勝ちを譲った。いつかのように打ち損じてシシーバの身体に蚯蚓腫れを作るようなことはなかったが、それでもバライシュは快く思わなかった。

「でも俺は、サリアには戦場になんか出てほしくないな。危ないし」

 口をついて出た言葉は、紛れもない本心だったろう。けれどもシシーバは、おどけた言葉の中にそれを隠した。

「それにもしサリアと同じ隊になったら、手合わせ手合わせって毎日うるさそうだしな」

「ちょっと、何よそれ!」

 わざとらしくふくれっ面を作ったサリアが、笑うシシーバを竹刀ビリンで叩くふりをしている。

「私は本当に心配だわ、こんな軟弱なお坊ちゃまが戦場に出るなんて。ねえバライシュ?」

 サリアがきらきらした瞳を向けてきた。彼女が自分のことを憎からず思ってくれているのは、バライシュにも薄々分かっていた。だがバライシュは素直に喜べなかった。サリアが自分に抱いているのは、自分より強い年上の男に対するいとけない憧れにすぎないのではないか。サリアが本当に気を許しているのは、自分ではなくシシーバのほうだ。それに人相が悪い自分よりも端正な顔立ちのシシーバのほうが、美しいサリアには釣り合っているとも思う。

 バライシュはサリアから強いて目を逸らし、再び竹刀ビリンを手にした。

「シシーバ、僕と手合わせしろ」

「え? さっきやったじゃないか」

「今度は本気で、だ」

 シシーバが目で訴えかけてくる。「命令と違うぞ」と。それでもバライシュは、これ以上サリアが本当のシシーバを知らずにいるのは我慢ならなかった。

「どういうこと?」サリアがきょとんとした顔で尋ねる。

「サリア、よく見ていろ」

 シシーバが弱いふりをやめれば、サリアの見る目も変わるだろう。竹刀ビリンをシシーバに突きつける。シシーバも深くため息をつきつつ、渋々竹刀ビリンを取った。試合開始の礼からして雰囲気が違うのが、サリアにも伝わったはずだ。計算された無駄のない剣さばき、体格差をものともしない素早い立ち回りと力強さ、何よりバライシュに注がれる真剣な眼差し。それらすべてが、これまで一度もサリアが目にしたことのないシシーバの姿だった。

 二人が互いの頭を打ち合って勝負が引き分けに終わったとき、サリアが思わずこぼした。

「何よ、これ……」

 汗をしたたらせながら、シシーバは言い訳を探している。サリアの頬が紅潮していく。手加減されていたのに気づかなかったとは、武人にとってこの上ない恥だ。サリアは涙を落とす前に駆け出してしまった。

「もう……お前のせいだからな、バライシュ!」

 言い捨ててシシーバが後を追った。全くその通りだとバライシュは思う。

 確かに自分の人生は幸運に恵まれている。だがシシーバの人生にとっては、バライシュは闖入者ちんにゅうしゃにすぎない。それなのに、シシーバはバライシュを温かく受け入れてくれた。もし彼に拒まれていたら、バライシュはただの使用人として一生を過ごすことになっただろう。それでも孤児の暮らしよりははるかにましだが、陛下への報恩は叶わなくなってしまう。バライシュの未来が開けたのは、シシーバのおかげなのだ。

 つまりバライシュにとってシシーバは親友であり兄弟であると同時に、恩人だった。これ以上自分の「幸運」のために、恩人の人生をかき乱してはいけない。

 だからサリアは、シシーバを好きになるべきなのだ。

 ひとり残されたバライシュは片付けを始めた。シシーバの竹刀ビリンが転がっている。竹刀ビリンでも愛剣と思って大切にせよと、コーウェン様に教わったのを忘れたのか。拾おうとバライシュがかがんだとき、鶏舎の中の雄鶏と目が合った。かくかくと首を傾げていても、鶏は何かを思い悩みはしない。昨日を忘れ明日を憂えず、朝日が昇るたびに驚いて鳴くだけだ。やがて飼主にほふられて、その肉を晩餐の卓上に捧げることも知らない。バライシュはそれを羨ましいと感じ、そう感じた自分に驚いた。これほど恵まれた環境にいて、まだ望むものがあるのか。

「バライシュ、稽古が終わったなら水汲みを手伝ってくれんか」

 納屋の中に稽古道具をしまい込んでいると、父さんが呼ぶ声がした。そろそろ洗濯女たちが仕事を始める時間だ。

「すぐ行く」と返事をして、バライシュは使用人の仕事へと戻っていった。

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