三 バライシュ

 真冬なのに暖かい日だった。窓からやわらかな光が差し込み、枕元では籠に入った小鳥が愛らしくさえずっている。バライシュが目覚めたときには、サリアはもう台所にいた。

「おはよう、バライシュ。もうすぐ朝ごはんができるわよ」

 夫婦になった二人の住まいは、キューアン邸からもサリアの実家からもそう離れていない。寝室と居間、そして台所がひと続きになった小さな家だ。壁に飾られた花柄や幾何学模様の織物はサリアが選んだ。キューアン邸の鶏舎と大して変わらない広さだが、バライシュは初めて持った自分の家に深い安らぎを覚えていた。

「……すまない。今日は手伝おうと思っていたんだが」

「いいのよ、ゆっくり寝てて。まだ時間があるでしょ」

 使用人暮らしが長かったせいか、サリアに家事を任せきりにするのを申し訳なく感じてしまう。バライシュが身体を起こそうとしたとき、白い小鳥がピヨピヨ鳴いた。

「ほら、その子も寝てなさいって言ってる」

「うん……」

「損な性分ね。まあ、そういうところが好きなんだけど」

 小鳥は結婚半年の記念にバライシュからサリアへ贈ったものだ。バライシュが仕事で不在の間、サリアの話し相手になればと思って選んだつもりだったのに、どうやら言葉を覚える種類ではなかったらしい。それでもその真っ白な姿は、花嫁衣装ヒオラを身にまとったサリアの美しい姿をまるで昨日のことのように思い出させてくれる。

 結局バライシュは朝食の支度をサリアに任せ、短いまどろみを楽しんだ。「そろそろ起きて」とサリアに言われなければ、そのまま二度寝していただろう。あくびをしながら起きると、サリアは着替えまで準備してくれていた。

「自分がこんなに寝ぼすけだとは、知らなかったな」

「そうね。ダラハットと同じだわ」

 サリアの口から親友の二の名ブムナを聞くのは、随分と久しぶりな気がした。

「あいつは元気なんだろうか」

 シシーバは結婚式にも顔を見せなかった。それほど北方は忙しいのだろうか。

「そういえば、ダラハットがもうすぐ帰ってくるらしいわよ。伯父様から聞いたの。近々お姫様との顔合わせをするらしくて」

「そうなのか?」

 バライシュには初耳だった。昨日サリアがキューアン邸に寄った際に聞いた話だという。

「伯父様、とても嬉しそうだったわ。もう三年近くも会っていないんですものね。ダラハット、すごく活躍してるみたいよ。本当に大将軍になるかもしれないわね」

 サリアは無邪気に従兄弟いとこの活躍を喜んでいる。戦場で活躍するということがどういうことなのか、彼女にはあまり分かっていないのだろう。バライシュも憲兵だから、危ない目に遭うことも血なまぐさい現場に立ち会うこともある。戦場はもっと酷いはずだ。もちろん親友の活躍は喜ばしいことだが、あの心優しいシシーバがと思うと少し複雑な気分だった。

 食卓にサリアの手料理が並んだ。炊き立ての白飯が豊かに甘く香っている。鮎の塩焼きに蕪と青菜の唐辛子漬が添えられ、鶏骨から出汁を取った汁物には、黄色と白の溶き卵と香草が浮かんで目にも鮮やかだ。

「味、薄くないかしら」

「そんなことはない。おいしいよ」

「よかった」

 サリアが笑うと、バライシュの心も安らいだ。いまではサリアのいない生活など考えられなくなっていた。かつてはこの女性を友に譲ろうと考えたことが信じられない。

「シシーバとご結婚なさる姫君も、君のように素晴らしい方だといいな」

 つい率直な気持ちを口にしてしまって、照れくさくなった。サリアと結婚してから口元が緩みがちな自覚はあるが、言葉までこぼれ出してしまうのは問題かもしれない。

「ありがとう。でも、きっと私なんかよりずっと素敵な方よ。だってあなたの尊敬する国王陛下の娘さんなんでしょう」

「でも、君ほどの女性はいない」

 開き直って言ってみたら、サリアは眉をひそめた。

「もう、どうしたのバライシュ? もしかして何か私に隠し事でもしてるの?」

「そんなことは……」

 思わぬ返事に慌てた。ただ褒めたくなったから褒めただけなのに、どうしてそうなるのだろう。女心というのは不思議なものだ。わざとらしい怒り顔も可愛いなどと思ってしまうのだから、われながら始末に負えないとバライシュは思う。

「ふざけたこと言ってないで、早く食べないと遅れちゃうわよ」

 ふざけているつもりはなかったが、バライシュはこれ以上の弁解を諦めて朝食をきれいに平らげた。

「それじゃ、行ってくる」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 玄関先まで見送ってくれるサリアとくちづけを交わし、バライシュは「今日はなるべく早く帰る」と告げた。そこには言外の意味がある。結婚から半年、夫婦は子どもを強く望んでいるが、サリアにまだその兆候はない。サリアは微笑み、言葉の代わりに夫の袖をきゅっとつかむことで応えた。

「朝ごはん、明日こそは僕も手伝う」

「はいはい」

 バライシュには自分がとても欲深い人間に思えた。孤児だった自分が大飢饉を生き延びただけでも幸運なのに、養父母に出会い、親友に出会い、そして愛する人と結婚できてなお、新しい家族を求めている。

 歩きながら、バライシュは考える。

 ――僕は、陛下に恩返しができるならなんでもいい。

 陛下に「助ける者」の名を賜った日から、バライシュの思いは変わらない。サリアとの結婚生活はこの上なく幸せだ。憲兵の仕事もそれなりにうまく行っている。けれども、バライシュはまだ満足していない。

 ――俺とバライシュで、命を懸けてこの国を守ろう。

 もちろん、密輸の取締が重要な任務であることは分かっている。けれども最前線で文字通り命を懸けて戦っているシシーバと比べたら、自分の働きなどまだまだだ。

 陛下のために身命を尽くし、家庭の幸せも守る。一人の人間に、二つの望みを同時に達成できるものだろうか。どちらかを選べば、もう一方は諦めねばならないのではないか。

 愛するサリアの笑顔を思い浮かべ、絶対に嫌だ、とバライシュは思った。戦場に出ずとも、もっと陛下に―この国に貢献できるはずだ。そしてサリアのことも、もっと大切にする。

 バライシュは外套に顎をうずめ、こみ上げてくる笑みを隠した。

 僕は、本当に欲深いな。


***


 家では優しい夫も、仕事となると冷徹な憲兵に変貌した。

「このまま黙っていても、何もいいことはないぞ」

 その日、バライシュは憲兵隊本部でメイサディ隊長とともに自ら捕らえた武器商人の男を尋問していた。憲兵隊本部自体が土壁の殺風景な建物だが、地下にある取調室はさらにどんよりと暗く、商人を睨むバライシュの青い両目だけが炯々けいけいと輝いている。

 机を挟んで差し向かいにいるのは、一見どこにでもいるおとなしそうな中年男。だが彼は密輸商人だった。仕入れた武器を馬車に積み込んで北方へ輸送し、あろうことかキョウ族に安く横流ししようとしていた。武器の密輸出だけでも重罪なのに、あまつさえシシーバの敵方を支援していたと思うと、男に対して余計に腹が立った。

 バライシュが知りたいのは武器の仕入元だが、男はその外見に似ず頑固で、逮捕から三日経っても一向に口を割ろうとしない。

「手荒な真似はしたくない。話してくれさえすれば、お前の罪は軽くてすむ。武器はどこから仕入れた?」

「……罪、ねえ」

 突然、男がせせら笑った。

「あんたみたいな奴が、罪を裁く側にいるつもりかね」

 男の言葉を聞いたとき、バライシュは自分の容姿について言われているのだと思った。

「お前のような奴に言われたくないな。確かに私はこんな見た目だが、陛下に忠誠を誓っている」

「馬鹿だな。それが罪だって言ってるんだよ」男は滔々とうとうとまくし立てる。「確かにあんたは憲兵だ。法にのっとり、王の手足になって働くのが仕事だろう。だが、その王様が間違っているとしたら? あんたの大好きな王様こそが、実はこの国に害をなしているとしたらどうだ? ソニハット国王の優柔不断さが蛮族からの侵略を招き、国民を苦しめているとは思――」

 言い終わる前に、男の身体は机ごと壁際まで飛んだ。陛下を名指しで侮辱したことがバライシュの逆鱗に触れたのだ。男は鼻血を噴きながらもげらげらと笑いだした。長く緊張状態を強いられたせいで精神のたがが外れてしまったのかもしれないが、それがますますバライシュの怒りに油を注いだ。

「ならば、なぜその蛮族に手を貸した!」

 バライシュは男に馬乗りになって、何度も殴りつけた。メイサディ隊長が止めたとき、男は死んではいないものの意識を失っていた。その鼻はひしゃげて折れた歯が床に何本も転がり、バライシュの手は袖まで血まみれになっていた。朝方にサリアが掴んだ袖だと思うと、急に頭が冷えてきた。

「どうする。水でもかけて起こすか?」

 メイサディ隊長は叱る代わりに言った。バライシュは首を振る。

「申し訳ありません、隊長」

「お前は陛下のこととなると見境がなくなる。忠誠心は立派だが、判断を誤らんようにしろ。……しかし、こいつの言ったことは気になるな。キョウ族に武器を流すことが、まるでこの国のためになるかのような口ぶりじゃなかったか?」

 バライシュたちは、武器の仕入元はユーゴー帝国だと目星をつけていた。北方でキョウ族と小競り合いをさせ、ニアーダを疲弊させるのが狙いだろうと。しかし、陛下への不満を爆発させた男の態度は、売国奴というよりむしろ過激な愛国者のようだった。黒幕がユーゴーでないなら、いったい誰なのか。

「キョウ族が強くなって、国内に得をする奴がいるってのかねえ」

 メイサディ隊長の何気ない一言に、バライシュははっとした。

「どうした、バライシュ?」

 頭に浮かんだ考えを口にするのは憚られた。あまりにも不敬なうえに、何の根拠もなかったからだ。

 キョウ族が強くなると損をするのは国王陛下だ。もし国内の何者かが裏で糸を引いているなら、その目的は国民の危機感と陛下に対する不満を煽ることなのではないか。――だとしたら、その人物は王位を欲する、陛下の近親者なのではないか。

 そのときはまだ、ひとつの仮説にすぎなかった。

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