第一章 鶏声

一 シシーバ

 ニアーダ王国暦五〇一年 初夏


 雄鶏おんどりのけたたましい声で目が覚めた。そんなに朝日が珍しいのか。

 シシーバ・ダラハット・キューアンは、眠い目をこすりながら白い道着に着替えた。寝坊がばれたら父上に叱られる。後世に名を残す英雄も、十五歳の頃は早起きと父親の説教が苦手な少年だったそうだ。

 板張りの廊下を裸足でばたばたと走る。洗面台の手桶にはもう水が張られていた。使用人のネイルさんはもうとっくに起きている。ということは、その息子バライシュもだろう。

 シシーバは壁にかかった竹枠の鏡を覗きこんだ。この鏡はニアーダ湾よりもはるか海の向こうの島国で作られた工芸品だ。その国では男も長い髪を結っているらしい。シシーバはニアーダ人で良かったとつくづく思う。ニアーダの男は短髪だから、跳ね上がった寝癖を濡らして整えるだけでいい。水はすでにぬるかった。夏が近い。

 シシーバはそのまま靴を履かずに外へ出た。よその武家は立派な武道場を持っていることも多いのに、ニアーダ屈指の名門たるキューアン家では鶏舎のすぐそばで剣の稽古をする。「戦は屋敷でするものではない。小奇麗な武道場での鍛錬など役に立たん」というのが父上の方針だ。だから家の敷地内で一番戦場に近い場所を、息子たちの稽古場に選んだ。チェンマの貴族ならどこの家でも鶏舎くらいあるが、子どもを近寄らせるのは父上くらいのものだろう。シシーバも剣を習い始めてから十年、ぷんと鼻につく糞の臭いには慣れている。ただ、鶏の首を刎ねたときの血なまぐささだけはいまだに苦手だ。

「遅いわよ、ダラハット坊っちゃま」

 今日もサリアに笑われた。サリア・ミアノ・キューアンは、近所に住むシシーバと同い年の従姉妹いとこだ。従姉妹とはいっても、分家のサリアは平民でしかも女だから、本家の嫡子たるシシーバを一の名ジムナで呼ぶことは許されていない。それでもこの快活な少女は一緒に稽古に参加し、シシーバを二の名ブムナで呼びつけて朝寝坊を遠慮なくからかってくれる。

「バライシュは?」

「鶏が逃げちゃったらしくて、ネイルさんと一緒に追いかけてるの。いっぱいいるんだから、一羽くらい逃がしたってよさそうなものなのにね」

「俺もそう思うけど、あいつは馬鹿真面目だからなあ」

 シシーバは身体をほぐしながら答えた。サリアとの稽古の前には必ず竹刀ビリンの状態を細かく確認する。束ねた竹にささくれが立っていないか、鍔止めが緩んでいないか、先端はしっかり革で巻かれているか。一方サリアはすでに革製の防具を身につけていて、準備万端のようだ。

「まあいっか、ダラハットでも。早く防具をつけて、私と手合わせしてちょうだい」

「その言い方はひどくないか?」

「だって、あなた弱いんだもの」従姉妹からの手厳しい一言。この十日間の対戦成績は二勝八敗、シシーバは随分サリアに負け越していた。

「今日は勝つさ。俺は未来の大将軍、シシーバ・ダラハット・キューアン様だからな」

「言ったわね」

 シシーバも防具を着けて右手に竹刀ビリンを握り、サリアと向かい合った。ニアーダ剣術の作法にのっとり、互いに竹刀ビリンを八の字に振った後いったん刀身を合わせる。そして弾き合うのが、試合開始の合図だ。

 サリアは甲高い声を上げてまっすぐ向かってくる。いつもそうだ。その切っ先を巻き込んでいなすと、一瞬彼女の右脇ががら空きになる。だがシシーバは打たなかった。サリアはすぐに体勢を立て直して向かってくる。立て続けに四撃。そして五撃目を弾いたときシシーバは大きく腕を振り上げた。今度はシシーバに隙ができる。サリアが横ざまに竹刀ビリンを振り、渾身の一撃を打ち込んだ。狙いが少しばかり胴当どうあてを外れていた。右脇腹に衝撃と痛みが走り、息が詰まる。シシーバは竹刀ビリンを取り落として、大げさに尻餅をついた。

「今日も私の勝ちね、ダラハット!」

 サリアが兜を取ると、尻尾のような束ね髪がふわりと揺れた。彼女が笑うと大輪の花が咲くようだ。地味な道着を着ていてもやはり美しい。シシーバが痛みを堪えてえへへと笑ったのは、この表情を曇らせたくなかったからだ。

 サリアは打ち損じに気づかず、シシーバの剣技について批評を加えている。筋はいいのに押しが足りない、集中力も足りない。そもそも朝が苦手なのを克服するべき、云々。シシーバが密かに脇腹をさすろうとしたとき、頭上から声がした。

「すまない、思いのほか手こずってしまって」

 ネイルさんと一緒に現れた少年がバライシュだ。彼はシシーバより三歳年上で、当時十八歳だった。後世ではシシーバとバライシュは友人だったとされているが、必ずしも的確な表現ではないだろう。二人は同じ屋敷で、兄弟のように育ってきたのだ。

 バライシュの祖先はおそらく西方人だろう。くすんだ銀髪で、肌は透き通るように白い。背丈もこの屋敷に住む誰よりも大きかった。額と鼻梁がせり出して眉は薄く、落ちくぼんだ眼窩には青い目がぎらぎらと光る。歴史に名を残す大悪党にふさわしい強面こわもてだが、バライシュは見かけによらず生真面目な少年だったという。

 バライシュの髪と顔には、べったりと黒い泥がついていた。鶏を追いかけるのに夢中で、裏庭の池に落ちてしまったらしい。彼のたくましい腕の中でしょんぼりしている鶏は、きっと今日の夕飯になるだろう。

「鯉が跳ねて、僕の頭の上に落ちてきた。痛かった」「池の底に意外と泥が溜まっていた。そのうちさらわなければ」――バライシュが泥を拭いながら真顔で話すのがおかしくて、シシーバとサリアは大笑いした。池に落ちてしまった直後に、誰が「泥が溜まっている、掃除しなくては」なんて思うだろう?

「ねえバライシュ、早く手合わせしましょう! ずっとあなたを待っていたのよ。ダラハットじゃ相手にならないんだもの」

 バライシュがちらとシシーバに目配せする。咎めるような視線を、シシーバはにこにこ笑って受け流した。

「今日こそは勝つんだから!」

「……仕方ないな」

 防具はおろか道着すら着ないまま、バライシュが竹刀ビリンを手にした。

 この十日間、バライシュ対サリアの対戦成績は十対〇。というより、バライシュは一度もサリアに負けたことがない。サリアは張り切ってバライシュに挑んだが、結果はいつもと同じだった。今日はバライシュが早々にサリアの籠手を打って勝負がついた。竹刀ビリンが革を叩く音に、シシーバは思わず目を閉じた。

「また負けたかぁ」サリアは打たれた左腕を撫でている。バライシュの剣は速くて力強い。籠手があっても骨まで響くほどだ。それなのにサリアはむしろ嬉しそうだった。シシーバは二人から目を逸らそうと思うのに、つい見てしまう。サリアが目を輝かせてバライシュに教えを乞うと、バライシュは戸惑いがちにそっぽを向いて、「君は勢いだけで突っ込み過ぎだ」と答えた。

「私、今日はもう帰るね。母さんが昨日から風邪を引いて寝込んじゃってさ、父さんが起きる前に朝ごはん作らなきゃ」

「そんなの、うちから食事を運ばせるのに」

 シシーバが申し出たが、サリアは首を振った。

「そこまでご本家に甘えられないわ。花嫁修業と思って頑張るよ」

「そうか。じゃあ頑張って」

「あなたもね、未来の大将軍さん!」

 サリアは笑顔で手を振る。彼女は本家のような、奥方が食事の支度をする必要がない家には嫁ぐ気がないのだ――もちろんシシーバだって、サリアを嫁にもらうつもりはない。分家の従姉妹なんかと結婚しても、大将軍になるためには何の役にも立たないからだ。自分は父上が決めた相手と結婚するのだろうとシシーバは思っている。たぶん、どこか有力な文官家の娘だろう。家事とも剣術とも無縁で、蝶よ花よと育てられてきた深窓の令嬢だ。母上もそういう人だった。結局キューアン家の厳格な教育方針になじめずに父上と険悪になり、シシーバを捨てて実家に逃げ帰ってしまった。名家の結婚なんて、そんなものだ。

「さて」サリアの姿が見えなくなったのを確認すると、バライシュが竹刀ビリンを掲げた。いつの間にか防具も身につけている。

「勝負だ、シシーバ」

「望むところだ」

 シシーバは背筋を伸ばした。二人の対戦成績は、四勝四敗二分である。

 激しく竹刀ビリンがぶつかり合った。二人ともさほど声を上げず静かに戦う剣士だ。バライシュの視線はそれこそ真剣のように鋭いが、シシーバも自分が負けているとは思わない。バライシュは上背うわぜいがあるから、離れすぎては不利だ。シシーバは上下左右から飛んでくる容赦ない攻撃を冷静に防ぎつつも、同時に適切な間合いを計算してバライシュの隙を窺っていた。

 勝負が動いたのは、バライシュが突きを繰り出してきたときだ。シシーバは刀身を絡ませ、突きの勢いを逆手にとって間合いを詰めた。好機。―しかし先ほどサリアに打たれた右脇腹がずきりと痛み、わずかにシシーバの姿勢を乱した。そこにすかさずバライシュの剣が降ってきた。シシーバの額を打つ直前で、バライシュは剣を止めた。

「今日はお前の勝ちだな、バライシュ」

「いいや、引き分けだ」バライシュは剣を収めた。「怪我人相手では、勝負にならない」

「俺はどこも怪我なんて」

「僕は風呂に行く。シシーバも来るだろう?」

 有無を言わさぬ口調だった。

「はいはい」シシーバは苦笑した。これでは、どちらが坊っちゃまで、どちらが使用人か分からない。


***


「いい加減、サリアに弱いふりをするのはやめないか」

 いつだって風呂は年上のバライシュが先だ。彼は養父と一緒に汲んだ水で身体を洗った後、腰に一枚布を巻いただけの格好でシシーバの正面にどっかりと座っている。

 この脱衣所にある二つの丸椅子は、バライシュが木材を削って作ったものだ。二人はここでよく秘密の話をしていたという。サリアがいてもさすがにここまではついてこないし、汗を流してくると言えば別に不自然でもないからだ。

「とりあえず服を着てはどうかな、バライシュ君」

「今日はどこを打たれたんだ。見せてみろ」

 こうなるとバライシュは全く聞く耳を持たない。シシーバは「大したことないよ」と前置きして道着の帯を解いたが、サリアに打たれた右脇腹は想像以上にひどい蚯蚓みみず腫れになっていた。

「後で軟膏を塗ってやる」

「いいよ、自分で塗れるし。もういい年なんだから」

 シシーバは道着を直しながら言った。言った後で、胸の内に寂しさがこみ上げてくる。

「……バライシュこそ、少しは手加減してやるべきじゃないのか」

「『いい年だから』か?」

「そうだよ」

 昔はサリアのほうが圧倒的に強く、シシーバはいつもこてんぱんにやられて泣かされていた。それを慰めて軟膏を塗るのが、年長のバライシュの役目だった。

 しかしここ二、三年、いつの間にかシシーバはサリアを弱いと感じるようになっていた。バライシュと比べるとずっと動きが遅いし、鍔迫り合いになっても簡単に押し返せる。そう気づいたときには、シシーバはサリアの身長を追い越していた。

 ちょうどその頃から、サリアもときどき朝稽古を休むようになった。最初は体調が悪いと聞いていたから、シシーバはサリアが病気なのではないかと本気で心配したものだ。後に女性特有の理由だと聞いて安心はしたものの、今度は別の心配が生まれた。

「サリアは女だ。男の俺たちが、本気でサリアを叩くなんて乱暴じゃないか」

 シシーバはサリアを相手に、全力を出せなくなっていた。本当の腕前を隠すために、サリアの前ではバライシュにもわざとあっさり負けた。バライシュには、嫡子の権威を利用して誰にも言わないよう「命令」している。

「だからといって打たせてやることはない。サリアは分家の娘だが、お前はキューアン家の跡取りなんだ。お前にもし何かあったら、僕はコーウェン様に顔向けできない」

 バライシュの口癖だ。彼はよほど父上に恩義を感じているらしく、シシーバの兄代わりを立派に務めるのがせめてもの恩返しだと信じている。シシーバにとっては、恩返しなんて心底どうでもいいことなのだが。

「サリアより俺のほうが大事か」

「当然だ」バライシュは照れもせずに即答した。

「それはどうも。でも、俺はうっかり打ち損じて女の子の顔に傷を作るくらいなら、自分が打たれたほうがましだよ」

 サリアの顔に、とは言えなかった。

「手加減」という言葉は、シシーバの感覚とは少し違っていた。ただ単純に打てないのだ。サリアの華奢な腕や、胴当を押し上げる内側の膨らみが目に入ると、どうしても躊躇ちゅうちょしてしまう。いまやシシーバにとってサリアは剣を向ける相手ではなく、その剣で守るべき存在だった。

「僕の考えを言わせてもらう」

 これもバライシュの口癖だ。一応シシーバに敬意を払いはするが、彼は自分の意見をげはしない。

「女だろうと何だろうと、剣を握っている以上は武人だ。サリアもそう思っているはずだ。僕はその気持ちを尊重したい。だから絶対に手加減はしない。……しないが、頭や胸は狙わない」

「それを『手加減』って言うんだろ」

 シシーバは笑った。バライシュには敵わないと思う。いつでも自分なりの考えをしっかり持っているし、サリアの気持ちを汲みつつも絶対に傷つけないだけの技量がある。サリアにも好かれて当然だ。

「まあ、サリアの顔に傷がついたくらいじゃ、お前の愛は変わらないもんな?」

「なっ……? 何を言う! そう言うお前こそ……」

「さ、俺も風呂入ってこよう」

 ちょっとからかっただけで、バライシュは真っ赤になってうろたえた。分かりやすいやつめ。ささやかな意趣返しができて、シシーバは少しだけ胸の痛みを忘れた気になった。

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