暁天の双星

泡野瑤子

序文

序文 ――ターミ・ポアットによる回想

 あの空は作りものだったのではないかといまでも思っている。銀杏いちょうの濃い黄色にも負けず、鮮やかでわざとらしい青だった。三十年近く経っても、あの空は瞼の裏に焼きついたままだ。

 私が十歳のとき、同じ小学校に通う子ども全員――たったの八人だった――でチェンマ市街へ旅行した。いわゆる修学旅行だ。

 初めての首都は、山奥の農村から出たことがなかった私にとって、まるで別世界だった。あの頃は英明なる国王陛下のもと、わがニアーダ王国も経済成長の波に乗りつつある時代だった。真新しいビルとビルの間を晩秋の風が吹き抜け、舗装された道の上を外国車とお洒落な人たちが絶えず行き交っていた。

 あの空を見たのは、チェンマ市街の中心部にある銀杏平和記念公園を訪れたときだ。

 ちょうどお祭りの真っ最中だった。大広場の中央に、黄葉した大銀杏と銅像が立っている。その周りで色とりどりのドレスをまとった女性たちが、雅やかな音楽に合わせて踊っていた。絹布で仕立てられたドレスは、踊り手がくるりと回るたびに裾が朝顔の形に広がって、つやつやと輝いていた。

「このドレスは『ヒオラ』といって、この国に古くから伝わる民族衣装です。花の刺繍が見事ですよね。昔の女性は、お祭りの日や結婚式に着ていました。僕の母も、父と結婚するときは真っ白なヒオラを着たそうです」

 教えてくれたのは先生だ。まだ若いのに、何でも知っている人だった。

 チェンマからたった一人で赴任してきた先生は、村のどの男性とも違っていた。いつも銀縁眼鏡と清潔な服を身につけていて、肌も私たちと違って浅黒くなかった。穏やかで、子どもに手を上げることはもちろん、声を荒げるようなこともなかった。けれどもその優しさが仇となり、私以外の子はあまり真面目に先生の授業を聞いていなかったように思う。

「このお祭りは『シシーバ・キューアン記念祭』といいます。広場の真ん中に立っているのが、シシーバ将軍の銅像です。皆さん、彼が何をした人か知っていますか?」

 答える子はいなかった。私も知らないふりをしてしまった。もし答えていたら、男子たちにガリ勉だと嘲笑われていただろう。

 先生は諦めて、自分で解説を始めた。

 三百年ほど前、バライシュという憲兵が美女センリに唆されて野心を抱き、王に叛旗を翻した。バライシュはチェンマの街に火を放ち、大勢の市民を殺し、王子様が住む宮殿を乗っ取った。世に言う「バライシュの乱」だ。

 それを鎮圧したのは、バライシュの友人でもあった若き将軍シシーバ・ダラハット・キューアンだった。彼は単身宮殿へ突入し、バライシュとの激闘の末に相討ちになった。

 幼い頃から内気で読書好きだった私は、シシーバの物語に強い関心があった。どの本でも彼が美男子として描かれていたせいかもしれない。救国の英雄シシーバは、ニアーダ国民にもっとも愛されている偉人の一人だ。

「実はこの銀杏平和記念公園が、シシーバとバライシュが戦った場所なのです。当時ここには銀杏殿いちょうでんというお屋敷がありましたが、大銀杏以外はバライシュの乱で焼けてしまいました。その跡地に造られたのがこの公園です。王様はシシーバの銅像を建てて毎年彼の命日にお祭りを開き、その功績を称えるのです。……さて、踊りが終わったようです。近くで銅像を見てみましょう」

 私はシシーバ像を見上げた。

 銅像もやはり整った顔立ちをしていた。どこまでも高い青空の下、右手に剣を携えた鎧兜の若武者が遠くを見据えて微笑んでいる。その肩に、銀杏の葉がひらりと舞い落ちた。

 ――嘘くさい。

 火を噴いて崩れる極彩色の宮殿。目鼻に突き刺さる黒い煙。逃げ惑う人々の悲鳴。この場所でシシーバが笑っていたはずがない。この銅像は、後世の人に演出された嘘だ。

 本当はどんな顔をしていただろう。どんな気持ちだっただろう。ひとり宮殿に乗り込んだときは。バライシュと対峙したときは。斬ったときは。斬られたときは。命が尽きるときは――。

「ターミは本当に、シシーバが好きなんだね」

 先生の声が、私を現実に引き戻した。他の子たちはもう好き好きに走り回っていて、いつまでも銅像を見ているのは私だけだった。

「バライシュの乱が起きた場所にしては、平和すぎる気がする」

「そうだね」と先生が目を細めた。その瞳は、ニアーダ人には珍しいエメラルド色だ。二人だけのとき、先生は親しげな口調で話してくれた。

「でも『平和記念公園』があるのは、かつて平和が失われたことがある場所だけだ」

 先生の口調は柔らかだったが、的を射ていた。


***


 村へ戻ってから十日余りが経ったその日、私は昼下がりの教室でひとり外を見つめていた。

 汚れたガラスの向こう側で、ショールをかぶった老婆が畑の草むしりをしている。畦道をのそのそ歩いていた野良猫は、私と目が合うと草むらへ逃げ込んでしまった。

 小学校生活もあと一年を残すのみだった。私は卒業後、隣町の中学校へ進学したがったが、両親は難色を示した。

 私たちの村は、車といえば中古の耕運機かトラックしかなく、誰もがどこかしらに泥はねのついたズボンを穿いているような土地だった。大人たちは子どもに勉強させても無意味だと考えていた。まして女子ならなおさらだ。男は農家を継ぎ、女はそこへ嫁ぐだけ。学などなくても生きていけるじゃないか――彼ら自身がそれを証明しているだけに、説得するのは容易ではなかった。

 けれども私が気落ちしていたのには、もう一つ別の理由があった。

「ターミ、まだいたの」

 先生が大きな鞄を抱えて教室へ入ってきた。

「先生、なんで学校を辞めちゃうの?」

 私が睨んでも、先生は微笑んだままだった。

「チェンマに帰って、僕の好きな人と暮らすんだ」

 その言葉が、幼い私の胸に深く突き刺さる。

「ひどい。私は先生のおかげで勉強が好きになったのに。先生が辞めるなら、私もう学校に来ない。中学校にも行かない!」

 私は涙を堪えながら叫んだ。馬鹿で幼稚な夢だと分かっていながら、私はいつか先生の隣で純白のヒオラを着るのを夢見ていた。将来に何の希望も持てないこの村では、先生だけが心の支えだったのだ。

 先生はようやく表情を曇らせた。

「勉強をやめちゃ駄目だ、ターミ」

「でも先生がいなくちゃ、何のために勉強すればいいのか分からないよ。勉強して何になるの。役に立った? 先生だって、こんな田舎で私たちみたいな猿に教えるために勉強してきたわけじゃないでしょ」

 先生は視線を落としたまま、しばらく黙っていた。何かをためらっているようだった。小さく息を吐いた後、先生は鞄から一冊の本を取り出し、私に手渡した。

 正確に言うと、それは紙束を紐で綴じただけの冊子で、厚紙の表紙はすでにぼろぼろになっていた。


《「バライシュの乱」に関する民間伝承の歴史的検証》


 私はその序文に目を通して、息を呑んだ。

 いわく、バライシュの乱の発端となったセンリは美女ではなく男性で、しかも正統な王位継承者だったが、命を狙われたために女装して身を隠していた。バライシュは不当に奪われた王位をセンリに返すべく戦ったが敗れ、王家は二人に汚名を着せて真実を歴史の闇に葬り去った――。

「こんな話、信じられない」

「でも、本当なんだ」

 綺麗な緑色の瞳で私を見つめて、先生は言った。

「僕は、センリ……いや、ソニハット王の子ジュディミス・ニアーダの、直系の子孫なんだよ」

 私はもう一度表紙を見た。私もよく知っている先生の名前と苗字の後に、王族だけに許されたニアーダ姓が続いていた。

「彼もバライシュも、言い伝えのような悪人じゃない。それなのに、僕は本当の名前を隠して生きなければならなかった。僕が勉強してきたのは、この国の人々に真実を伝えるためだ。でも……」

 聞かなくても分かった。この論文は、王家の名誉を傷つける。先生は大学にいられなくなったのだ。

「この村に来たのも、そのせい?」

「いいんだ。君みたいな賢い子に会えたから」

 私は急に怖くなった。先生はなぜ論文を私に見せたのか。何も知らないままなら、心穏やかでいられたのに。先生は、自分にかけられた呪いを私に押しつけたのではないか。

「自分の子どもに伝えればいい。好きな人と暮らすんでしょ」

 先生は曖昧に笑って私の言葉を聞き流し、呪いを完成させる仕上げの一言を放った。

「ターミ、君は猿なんかじゃない。学ぶのをやめない限りは」

 もう元の私には戻れなくなった。真実が知りたくてたまらなくなっていた。バライシュが悪人でないなら、彼を殺したシシーバは? 私が大好きだった物語は、全部嘘なのか。

 そして真実を知ったなら、きっと私も先生と同じように誰かに伝えずにはいられなくなるだろう。

 だからせめて、励ましの言葉が欲しかったのに。

「ひどいよ、先生」

 ごめんね、と先生は答えた。

 その日以来、私は一度も先生と再会していない。


***


 私はどうにか親を説得して学問の道へ進み、歴史学の教授になった。

 十余年にわたる調査の結果、私は先生の論文が正しいと確信した。けれども学会で発表することは、大学が許さないだろう。

 私は論文の代わりに小説『暁天ぎょうてん双星そうせい』を書き、伝手つてのある出版社に持ち込んだ。もちろん脚色もあるが、内容はほぼ史実に即している。

 もしかするとニアーダ王家に対する国民の尊敬を損ね、国中に呪いを拡げるだけかもしれない。少なからず反発もあるだろう。それでもなお私がこの小説を発表するのは、私たちには真実を知る権利があり、たとえ残酷な真実でも乗り越えられると信じるからだ。

 私はこの国と、この国の人々を愛している。私の書いた『暁天の双星』が、人々の目をひらき、より良い未来を築く糧となることを衷心より願う。


某年某月 銀杏舞う晴れた日に


ニアーダ王立大学歴史学部教授 ターミ・ポアット

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