84:お姉さんに冬の夜空の下で告げる

 僕がお姉さんを背後から抱き締めた恰好かっこうのまま、湯船へ腰を下ろす。

 二人は、熱い湯の中で丁度、密着しながら前後に並ぶように座った。


 僕の背中には、露天風呂の縁に置かれた石が当たっている。

 そこにもたれ掛かって上体を委ねると、美織さんも僕の胸に頭を預けてきた。

 湯船の中から天を仰げば、晴れ渡った冬の夜空に無数の星のきらめきが見える。


「……こうして居ると、二人で宇宙の一部分になったみたいだね」


 美織さんは、頬をほのかな桜色に染め、うっとりした口調でつぶやく。

 普段ならむずがゆい言葉かもしれないけど、今夜は妙に共感を覚えた。


 冷たく清澄な空気に満たされた闇の中、星々のまたたきに囲まれて――

 何もかも脱ぎ去った男女二人が、温水に裸身を揺蕩たゆたわせている。

 あたかも僕とお姉さんは、広くて深淵な世界に包まれているみたいだった。

 ひととき果てしないものに触れた心地がして、感傷を覚えずにいられない。



 ……もっとも、美織さんの夢想的な心理は、長く続かなかったようだ。


「世界の神秘に身を委ねていると、些細なことはどうでも良くなってくるけど」


 急にうんざりした面持ちになって、お姉さんは深い溜め息を漏らす。

 湯の中に座ったまま、半身後ろへ捻ると、僕の胸に頬をり付けた。


「明後日マンションに帰ったら、また仕事漬けの日々が待ってるんだよね……」


「気持ちはわかるけど、いきなり現実に戻らないでよ。休暇中なんだから……」


 改めて美織さんの身体を抱き締めながら、思わず苦笑を禁じ得なかった。


 このあいだの年末年始のこと。

 僕は、お姉さんがイラストの納期に追われて、四苦八苦する有様を間近で見ている。

 本来年内に仕事納めになるはずの案件が、大晦日を過ぎても終わらなかったせいだ。

 同じ時期にスーパーのアルバイトが休めなかった事情とは、わけが違うんだよなあ。


 一方で今春からの仕事では、いよいよ前々から準備していた企画が動き出す――

 そう、美織さんが知人の編集者さんから持ち掛けられたという、漫画連載の件だ。

 温泉旅行に来る半月前のお姉さんは、そっちの作業が押してしまうためもあり、昼夜を問わず無休で作画し続ける機械マシーンみたいになっていたっけ。


 ちなみに今月下旬に入って休暇を作り、ちょっと無理してでも遠乃原へ来たのは、そういった今後のスケジュールも影響している。

 本格的に漫画連載の仕事がはじまったら、お姉さんが次にまとまった休みを取れるのがいつになるか、見当も付かないからね……。



「もちろん私は絵を描くことを、好きだから仕事にしたんだけど」


 美織さんは、僕の胸の上へ人差し指をわせる。

 ちょっとだけ不機嫌そうで、ねた口調だった。


「こんなふうに裕介くんとべたべたできる時間も、忙しくなるとみるみる少なくなっちゃうのが悲しいなあ。まあだからって、仕事がなくなっても困るけど……」


「そうだね……。僕も美織さんとこうしているのは幸せだし、その機会が減るとさびしいな」


 恋人のうなじへ片手をえ、そっと首筋をでながら賛同した。

 お姉さんの長くて栗色の髪は今、タオルで結い上げられている。

 後頭部の生え際から、わずかにこぼれたほつれ毛が色っぽい。


「でも今後は可能な限りそばに居て、美織さんを支えるつもりだよ。だから二人で頑張ろう」


 僕にとって、それは近い将来に対する意思表示であり、同時に事実の確認だった――……




     〇  〇  〇




 実は昨年の秋頃から少しずつ、僕はお姉さんの仕事を色々と手伝いはじめている。

 すでに美織さんは当時、多忙さゆえ年末年始が危機的状況に陥りそうな気配があり、到底放置しておけなかったからだ。半月間に〆切が五回あった月は、傍目はためにもはらはらした。


 まあ手伝うと言っても、差し当たり僕が代行しているのは、取引先とやり取りする各種書類の作成や送付とか、帳簿管理を頼んでいる税理士さんに領収書をまとめて提出したりとか、定期的に成果物の納品スケジュールを確認したりとか――……

 そういう感じの、あくまで簡単な雑用程度なんだけど。


 ただ最近は、美織さんから漫画原稿制作アプリの使い方を習って、ちょっとしたモノクロ原稿の仕上げ作業もできるようになった。

 俗に言うベタ塗りとか、トーン効果の貼り込みとかってやつだ。

 だからいずれ漫画連載がはじまって、お姉さんがまた忙しくなったら、次からは作画そのものを手伝うつもりで意気込んでいる。いやその際には僕以外にも、たぶん本職のアシスタントさんを雇ったりするとは思うんだけどね。



 ――やっぱり裕介くんは、早くアルバイトを辞めるべきだと思うな~。


 近頃の美織さんは、相変わらず僕にスーパーの仕事を離職して欲しいと勧めてくる。

 ただし以前までと異なるのは、自分が扶養してあげる、とは言わなくなった部分だ。

 代わりに「漫画アシスタント兼専属マネージャー」として、僕を雇用したいらしい。

 そうすればフリーターじゃなくなっても、無職のヒモにはならずに済むというのだ。


 この提案には、正直困惑してしまう。

 僕は、漫画やイラストの仕事を手助けすることに関して、美織さんの身の回りを世話するのと同列の行為だと考えていたからだ。

 そこに雇用関係を持ち込む気はなかった。現在は給料も一円だってもらっちゃいない。

 ところがお姉さんは、正式な対価を払い、僕に職業的な身分を付与しようとしている。

 そうして、いずれ二人が結婚した際(!)には、専従者になればいいと主張していた。


 さすがに僕も、この申し出をただちに受け入れたりはしていない。

 いまだに「スーパー河丸」のアルバイトも、しっかり続けている。

 ……だが世間的な体裁ていさいの面で、職業がフリーターから漫画アシスタントになれるというのは、受け入れないわけにはいかない話だった。


 それこそ美織さんとの結婚を考えた場合、その肩書きが二人の結び付きを後押ししてくれると思ったからだ。「イラストレイター兼漫画家の配偶者が、生業を共にするアシスタント」というのは、客観的にも自然なことのような気がした。

 実際にお姉さんが知る同業者にも、そうした立場同士で結婚した人は多いらしい。

 さらにちょっと悪い笑みを浮かべながら、とんでもないことを付け加えて言った。


 ――それと私の実家の両親には、先日「アシスタントの男の子とお付き合いしてます」って、もう報告しちゃったからね~! 


 こうなってしまうと最早、まな板の上のこいというやつである。

 いやまだすぐにバイトを辞めるつもりはないが、時間の問題になっている感は否めない。

 そのうち僕もお姉さんの親御さんに挨拶するため、ご実家へ伺うことになるのだろうか。

 きっと、そうなるんだろうな。すでに萎縮せずにいられない。


 尚、こうした背景もあって――

 以前に「スーパー河丸」側から持ち掛けられていた、正社員採用の打診は断った。

 包み隠さず事情を伝えると、舟木店長は笑いながら「恋人がプロの漫画家で、アシスタントになるんじゃ仕方ないな」と納得してくれた。

 折角の機会だったし未練がないと言えば嘘になるけど、将来この選択が間違いじゃなかったと言い切るためにも、頑張らなきゃいけない。



 いずれにしろ振り返ってみれば、全部納まるべき姿に納まりつつあるようだ、と思う。

 こじらせお姉さんと僕だけの関係も、無二のかたちでありながら、ひとつの目的地を目指して進もうとしている。


 そこに本当の正しさがあるかは、正直わからない。

 いつか僕らが僕らなりの関係を、もっと自由に定義できる時代が来るのかもしれない。

 しかし現在の二人にとって、極力不都合が少ない着地点を選び取ろうとしつつある状況には、たぶん満足しなきゃいけないだろう。


 それによって少なくとも、ずっと僕はお姉さんと一緒に居続けられるはずなのだから。




     〇  〇  〇




「――美織さんを一生幸せにすることが、今は僕の夢なんだ」


 僕は湯船の中で、変わらず恋人を抱き締めたまま、み締めるように言った。

 にわかに美織さんは顔を上げると、かすかに目を見開き、僕の顔を見詰める。

 だがそれも一瞬のことで、すぐ照れ隠しみたいな、当惑気味の笑みを漏らす。


「あはは、そんなふうに言ってくれて嬉しいな。それだけでも、もう幸せだよ……」


「ねぇ美織さん、単に放言しているだけのつもりじゃないんだ。僕は本気なんだよ」


 意思が正しく伝わっていないと悟って、強くき伏せるように言った。

 今告げようとしていることは、元々お姉さんだって望んでいたはずだ。


 しかし僕はこれまで、色々な葛藤に思いわずらい続けてきた。

 いや正確には現在もまだ、不安や悩みは尽きることない。

 それでもやっと、二人の関係を決定的に進めるという、決意と覚悟が固まったんだ。

 だから僕は、お姉さんと目を合わせると、勇気をふるい起こして言い切ることにした。

 これはどうしたって、逃げずにはっきりさせる必要があったから。



「……美織さん、どうか僕と結婚してください。すぐには無理かもしれないけれど」



 美織さんの瞳がじわりとにじんで、ほのかに光をたたえた。

 微妙に顔が赤いのは、露天風呂の熱気に当てられたせいじゃあるまい。

 お姉さんの身体は僕の腕の中で、湯船の温度とあべこべに震えている。


「ほ、本当に――」


 いくらか間をはさんでから、美織さんはどこかおびえるように口を開いた。

 高揚しすぎて逆に弱々しく、現実感を喪失した人みたいな声音だった。


「本当に私でいいの? お姉さんのこと、裕介くんのお嫁さんにしてくれる?」


「美織さんの方こそ、僕を相手に選んでいいのかな。一生一緒に暮らすんだよ」


 恋人の反応を間近に見て、僕もまた至福の興奮を覚えていた。


「美織さんが居てくれなきゃ、甲斐性なしでこれっていう取柄もない僕なのにさ……」


「わっ、私は裕介くんがいい――君でなきゃ駄目なの、ずっとそう言ってきたよ……」


「……僕はね、美織さん。何か特別なことができたりはしない。だから美織さんと出会うまで、夢も目標も何もなかった。でも自分が何者でもなく、今生きていることに何の意味もなくても、美織さんを幸せにするために生きていたいって思うんだ」


 ほとんど夢見心地で、思いの丈を吐露せずに居られない。

 美織さんがそうであるのと同じで、やっぱり僕も泣きそうになるのをこらえていた。

 もちろん将来も一緒に居続ければ、綺麗事だけじゃ困難にぶつかるかもしれない。


 それでも僕はこのとき、本心から一点の曇りもなく、お姉さんを愛おしく想った。

 この人のためなら、たとえ何を犠牲にし、何を捧げて、何を失い、あるいは奪われ、徹底的な破滅を味わい、誰から嘲笑ちょうしょうされたとしてもかまわない、と――

 そんなふうに乞い願った気持ちを、生涯忘れたくはなかった。


「そう思えるようになったのも全部、美織さんと出会えたおかげだよ」


「……もう。ずるいよ裕介くん、こんなところでプロポーズなんて……」


 美織さんの目の端から、とうとう涙がひとしずく流れ落ちた。

 それが冬の夜の中で、ほのかな照明を浴び、きらりと輝く。

 僕は、はかない幻想を見たように感じ、一段と胸が高鳴った。


 不可視の何かにあやつられるようにして、恋人の頬に手を添える。

 お姉さんの涙を指でぬぐいながら、互いの顔をそっと近付けた。


「好きだよ美織さん。本当に大好きだ……」


「私も。私も裕介くんが好き、大好き……」


 相手の名前を呼び合いつつ、またもや唇を重ねる。

 何度も何度も、深く深く、飽きずに繰り返し……。


 僕も美織さんも、湯の中を裸身でただよいながら、底なしの愛におぼれていった。




 露天風呂を出て、和室に戻ると布団が敷いてあった。

 二人でその上へ倒れ込んだあとは、一心不乱に互いを求め合う。

 腰を合わせてひとつにつながり、幾度となく律動を共に刻んだ。


 僕がひたすら深くへ沈み、美織さんはそれを優しく包み込む。

 お姉さんとの性行為セックスは、これまでも常に忘れがたい体験だったけれど――

 この夜に交わしたそれは、かつてなく甘い感動を分かち合うものだった。


 僕は夕食よりも前、美織さんの浴衣姿を初めて見たときから、

「今夜は自分がお姉さんを大好きだって、必ず証明してみせる」

 と、性交渉にのぞむに当たって、内心勢い込んでいた。


 しかしいざ行為に及んでみると、美織さんの尽きせぬ魅力にますます引き込まれるばかりで、負けじと愛を叫び続けるのが、僕には精一杯だった。

 そうして、こんなに素敵な女性のためなら、やはりすべてを捨てても惜しくないと、いっそう強固な確信を得て、幸福にれるしかなかった。


 ただ一方で美織さんも、僕の熱情を受け入れる都度、恍惚として「もっと、もっと」と強請ねだり続け、汗ばむ肌を喜びに打ち震えさせる。

 そんな様子が尚更劣情を刺激し、僕は全身全霊を注いで、愛し尽くした。

 美織さんは、夢見るような嬌声きょうせいを発し、僕を殊更ことさらに深くへ導こうとする。



 そのまま二人は夜更けまで愛を交わし、ほとんど混然一体となっていた。

 最早互いの身体のどこからどこまでが、自分か相手かわからなくなるほど、愛して、愛して、け合っていた――……。

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