85:お姉さんと僕は、二人だけの未来へ歩き出す。

 翌日の朝。

 朝食を済ませて旅館を出ると、僕と美織さんは温泉街を少し離れた。

 遠乃原界隈かいわいに点在する名所旧跡を、観光して回ることにしたからだ。


 古びた山奥の神社仏閣とか、昭和の文豪が避暑に訪れた別荘跡など……

 物珍しさも手伝って、行く先々で各所の逸話や景勝を、存分に楽しんだ。

 尚、お姉さんは無論、目当ての場所に到着するたび(撮影許可が得られる範囲で)、デジタルカメラのシャッターを切り続けていた。どこまでも資料収集に余念がない。


 夕暮れ近くに旅館へ戻って以降は、おおむね初日と同じように過ごした。

 大浴場から上がって、夕食を取ったあと、二人で露天風呂につかかる。

 そうしてまた夜更けまで、布団の上で幾度となく互いを求め合った。


 ちなみにこれは余談だけれど。

 恋人同士で宿泊してみて、初めて「なぜ部屋毎に個別の内湯が付いているのか」という疑問に答えを得た気がする。これまでは大浴場や離れの露天風呂もあるんだから、そんなの必要ないんじゃないかって思っていたけど……。

 性交渉後、すぐに入浴できるのが便利なんだよな内湯。和室から外へ出ずに済む。

 家族や友達としか旅行したことがなかったら、一生気付かなかったかもしれない。



 まあ何にしろ温泉旅行の二日目も、そうしたわけでまたたく間に過ぎた。

 最終日は朝食のあと、午前中に「遠乃原温泉・平ふみ旅館」を発つ。

 タクシーでJR遠乃原駅に着くと、星澄行きの切符を買って、改札を通った。

 所定のプラットホームに二人で立ち、そのまま列車が来るのをしばらく待つ。


 ……と、そのとき。

 不意にちらちらと、微細な結晶がいくつもきらめいて見えた。

 雪だ。白く光るちいさな輝きが、周囲で宙を舞っている。


「何だか今日は朝から、けっこう冷えるなあと思っていたけれど……」


 美織さんは、白い息を吐きながら言った。

 手のひらを胸の高さにかかげ、降る雪を受け止める。

 もろくてはかない結晶は、皮膚の温度でたちまち消えた。


「ここはさすがに冬場の山地だねー。いきなり雪が降り出すだなんて」


「今年の県内は暖冬らしいけど、遠乃原はあまり関係ないみたいだよ」


 僕は、やや目をすがめて、頭上を見上げた。

 昨日まで晴れていた冬の空も、今日は幾分灰色がかっている。

 山地由来の冷涼さもあって、何もかもがうすら寒く感じられた。


「今思い出したけど、たしか遠乃原ってスキー場とかもあるんだっけ」


 美織さんは、つと駅舎の向こう側を眺めて言った。

 視線の先には、高い山々が幾重にも連なっている。

 おそらく、山腹にスキー場を探しているのだろう。


「いいなあスキー。次に来るときは、そういうのも面白そうかもねー」


「なるほどいいかもね。ところで美織さんって、スキー滑れたんだ?」


 提案に同意しつつ、素朴な疑問を抱いてたずねてみた。

 お姉さんは、きょとんとした面持ちで、かぶりを振る。


「いや全然無理だけど。むしろスキーやスノボどころか、運動全般まったくできないけど」


「そ、そうなんだ。いやわりとイメージ通りだけど、じゃあスキー場に行ってどうするの」


「うーん、やっぱり遭難ごっこかな? 猛吹雪の山小屋に二人っきりで一夜を過ごすやつ」


「妙なごっこ遊び提案しないでよ!? ていうか人命に係わるから雪山でそんなの禁止!」


「えーっ、ラブコメじゃ定番の鉄板展開だと思うけど。もしかして洞穴ほらあなの方が良かった?」


「避難場所の問題じゃありません!! それ大勢の人に多大な迷惑を掛けるからね絶対!」


「あはは、冗談だよ。れた服を脱いで温め合うのなら、他にもシチュエーションあるし」


「いやもうスキー場行く目的が意味不明すぎるよ……。いったい何がしたいの雪山で……」


 例によって奇矯ききょうな発言を繰り出してくるので、適宜てきぎツッコミを入れざるを得ない。

 ていうかお姉さん、いまだデートの計画を立てたりする際にサブカル的な知識が先行するの、どうにかなりませんかね。まあ魂に染み付いているみたいなので、無理っぽいけど。



 などと内心呆れていたら、美織さんもスキーに関する問いを投げ返してきた。


「裕介くんの方はどうなの。スキーでちゃんと滑れる?」


「あー。僕は一応、人並み程度にはできるつもりだけど」


 昔取った杵柄きねづかゆえ、うなずいて答える。


「出身地が雪国だからね。子供時代から馴染みがあるし」


 僕が生まれ育った地域では、小学生の頃から学校の体育でスキー学習がある。

 中学や高校でも同様の授業があったし、たしか大学でも運動系科目を履修すれば、雪上競技の類に接する機会があるはずだった。雪国の学校における、独特な慣習だと思う。


 そのため僕の地元じゃ、少なくとも男子でスキーが滑れない人間と会ったことはなかったし、女子でもまるで滑れないって子は少数派だった気がする。

 おかげで僕も、ただ雪山を滑るぶんには自信があった。

 まあスキー場の上級者コースで、一度も止まらず直滑降で滑り切れとか、モーグルの真似事をしてみせろとか、そんな無茶振りされたら困るけど……。


「そっかー。裕介くんって、出身は関東圏じゃなかったもんね」


 美織さんは、得心したようにつぶやく。

 そうして今一度、ゆっくり白い息を吐いた。

 数秒余りはさんでから、静かな口調で続ける。


「――いずれは私も、君の生まれ故郷に行かなくちゃなあ……」


 かたわらに立つ恋人を横目で見て、僕は改めて様子をうかがってみた。

 お姉さんの枯葉色っぽい瞳は、尚もじっと遠景を眺めている。


「本当に来てくれる? その、あんなに遠いところまでさ……」


「うん、行くよ必ず。君のご両親にきちんと挨拶しなくちゃね」


 控え目に問うと、美織さんは即答した。

 ちいさな声だが、きっぱりした返事だ。

 ……ただしジャケットのそでからのぞく手は、わずかに震えていた。

 きっと今日の寒さのせいで、こごえているだけじゃないだろう。



 ――いつか裕介くんのご両親にも、私たちの関係を認めてもらいたいの。


 美織さんは昨夜、二人で愛し合ったあとにそんなことを言っていた。

 それゆえ結婚する前に一度、僕の実家をおとずれなくちゃいけない、と。


 言うまでもなく美織さんのご両親にだって、僕が挨拶にうかがう必要はある。

 でもそちらはうちの実家へ行くことに比べると、障害は多くないだろう。

 まあ僕自身、自分が恋人の家族から手放しで歓迎されるような人間だとは思わない。

「大学中退してフリーターしている」というのは、あまり自慢できる経歴じゃないし。

 ただすでにあちらのご両親は、お姉さんが僕と交際していることを知っている。

 しかも一応、漫画アシスタントとして仕事を手伝っているのも、伝わっている。


 あと付け加えると(これは美織さんにとって少しさびしい話だが)――

 実際のところ、お姉さんのご両親は「もう娘も三十路手前だし、経済的に困ったりしていないみたいだから、早く気に入った相手と結婚して欲しい。それだけに七歳も年下の男性にもらってもらえるのは、逆に申し訳ないというか、恐縮してしまう」というような反応らしい。

 素直に喜ぶべきかは悩ましいが、僕にとっては受け入れてもらえるなら僥倖ぎょうこうだろう。



 ――だが一方で、うちの両親はいかなる態度を取るだろうか? 


 僕が大学を中退して以来、家族とは事実上の絶縁状態が続いている。

 かれこれ三年半以上も連絡を取っておらず、近況は互いに知らない。

 そんな息子が突然、結婚を約束した女性を連れて帰ってくるわけだ。

 おまけにその相手は七歳年上で、職業がイラストレイター兼漫画家。

 僕は現在漫画アシスタントとして、恋人の仕事を手伝っている……。


 そうした状況が父親や母親に伝わったら、正直どんな反応が返ってくるか想像も付かない。

 あきれられてこき下ろされるか、憤慨ふんがいされて怒鳴られるか、冷ややかに突き放されるか……。

 あるいは意外とまだ肉親のよしみで、体裁だけでも祝福される見込みもあるだろうか。

 まあ逆にひょっとしたら今度こそ、正式に縁を切られることもあり得るかもしれない。


 僕が今後自分の家族と会うことには、おそらく何かしらそういう結果がともなう。

 同じ場に居合わせるなら、それを美織さんも共に見届けることになるだろう。

 そうわかっているから、きっと今も不安で、震えが抑えられないんだと思う。


 ――それでも美織さんは、僕の家族には会わなくちゃいけないという。


 どうなるかは見当が付かないけど、筋を通す姿勢は取りたいみたいだ。

 エキセントリックでこじらせていても、根が真面目なお姉さんらしい。

 そんな年上の恋人を、僕はまた愛おしく感じたし――

 何があろうと、必ず守らなきゃいけないと思った。



「……怖がらなくても大丈夫だよ、美織さん」


 僕は、少しだけ立つ位置をずらし、お姉さんのすぐ隣に身を寄せた。

 かすかに冷気で赤くなった耳へ口を近付け、安心させるためにささやく。


「僕が全部、自分で決めたことなんだ。大学を辞めて、フリーターになって、美織さんを好きになって、結婚することにしたのは――何もかも、僕が自分の意思で決めた選択だよ」


 語り掛けながら、お姉さんの手をそっと握った。

 冷たい指に指をからめて、こちらのぬくみを伝える。


「だから仮に批難されたって、僕の美織さんに対する気持ちは変わらない。絶対に」


 そうだ。僕は僕が進む未来を、自ら考え、自ら選び取った。

 気に食わないと指弾する人間が居たとしても、それは僕自身の意思決定なのだ。

 僕はもう、他人の意思に迎合し、自分の思考を放棄するような生き方は止めた。

 だから何があったって、将来を共にしたい女性はただ一人だけと決まっている。


 それに恋人との未来が素晴らしい人生になることを、僕は当然確信しているが――

 もし万が一、失敗したと思うことがあったとしても、決して悔いたりしないだろう。

 なぜならそれこそ、価値判断を他人にゆだねず、自ら選択したからに他ならない。


 ままならない状況を、他人の意見に従ったせいだとし、自分に影響を与えた誰かをうらみながら生きるのは容易たやすい。だが失敗から何かを学ぶより、それはいっそうみじめだと思う。

 僕は今、将来に多く不安を抱えているが、過去にまさる豊かな希望も感じていた。



 美織さんは、こちらをのぞき込むように見詰めてくる。

 枯葉色っぽい瞳がうるみ、頬に薄い朱色が差していた。


「……うん、ありがとう裕介くん」


 指先から伝わる温みが強まった。お姉さんが、僕の手を握り返してきたせいだ。

 雪の下でつないだ手のひらは、二人をいっそう分かちがたくしたかに感じられた。


「ずっと信じてるね、君のこと。だから私を離さないで」


 それに「もちろん」と短く答えて、僕は微笑んでみせた。

 美織さんも安堵あんどの表情を浮かべて、微笑み返してくれる。



 しばらくして、列車が線路の上を走ってくるのが見えた。

 白い雪の降る中を徐々に減速し、ほどなくプラットホームへ滑り込んでくる。

 長い車体は目の前で停まると、乗降口を開き、利用客を招じ入れようとした。


 僕と美織さんは、互いに目顔で合図を交わし、順に乗り込む。



 それから列車は再び、発車のベルと共にゆっくり動き出した――


 こじらせお姉さんと僕が目指す、二人だけの未来へ向かって。






<こじらせお姉さんと僕だけのラブコメ・了>

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