74:お姉さんを選んだ僕の傍から、後輩は去ることを選ぶ。

 やがてゴンドラは、観覧車で一番の高所を通過した。

 車輪状のフレームが回転する軌道に沿って、徐々に下方へ移動する。

 窓の外で再び金属のきしむ音が鳴って、座席にわずかな揺れが伝わった。


「……うん。本当に全然悔しくはないんです、あたし」


 晴香ちゃんは、ひと呼吸挟んでから、静かに言った。

 膝の上のぬいぐるみを、両腕でぎゅっと抱きめる。

 ラプとんは左右から胴体を圧迫される状態になった。

 気怠けだるそうな恐竜の顔が、少しだけ窮屈きゅうくつゆがんでいる。


「むしろ今日のデートで、いくつか夢もかないましたし」


 晴香ちゃんの声音は、しかし満足気な言葉と裏腹で、急に弱々しくなった。

 ほんのいましがた、明確に未練を否定したそれと比べ、極端な落差がある。


「ちなみに夕暮れ時の観覧車に乗ることは、四つ目の夢だったんですよ」


 今日のデートで、この子が時折話していた夢――

 待ち合わせで、他愛ないやり取りをすること。

 この遊園地を、好きな人と一緒に訪れること。

 その相手とデート中、手をつないで歩くこと。


 そうして、現在二人で居る状況が四番目の夢。

 晴香ちゃんがこだわってきた、ごく普通の「四番目」に該当するそれ。

 一番目から順にどれを取っても、女子高生としての特別な願望はない。

 たぶん現実のデート相手が、彼女を失恋させた男だという点を除けば。



「ただ、そうですね……。今は残念で、少しだけ悲しいなあ、って……」


 晴香ちゃんは、左右の肩を細かく震わせ、しぼり出すようにつぶやく。

 その直後。薄墨色の大きな瞳がみるみるうるんで、かすかに揺らいだ。

 次いでまなじりがじわりとにじみ、透明なしずくもなくあふれ出す。

 それは滑らかな頬の上を伝って、おとがいまで緩やかに流れ落ちた。


 ――晴香ちゃんが、泣いている。


 黄昏の陽光を浴びながら、二人っきりのせまいゴンドラの中で。

 僕は、年下の女の子が顔をゆがめ、すすり泣く有様を目の当たりにしていた。

 告白を断られ、失恋した日でさえ、この子は人前で涙を見せなかったのに。

 最初で最後のデートが終わる間際に至って、ついにこらえ切れなくなったらしい。

 ぽろぽろこぼれる滴は、宙で七色のいろどりを帯び、虹のようにはかなげなきらめきを放った。



 晴香ちゃんは、こしこしと手の甲で、れた両目を頑張ってぬぐう。

 それから、半ば嗚咽おえつに喉を詰まらせながら、小声で謝罪してきた。


「ごめんなさい。ゴンドラが下に着くまでには、泣き止みますから……」


 僕は、やはり無言でうなずき、晴香ちゃんが泣く姿を見守ることしかできなかった。

 優しくなぐさめるのは、かえって不誠実だし、この子を傷付けるだけだと思ったからだ。




     〇  〇  〇




 観覧車から降りる頃には、晴香ちゃんは予告通りに泣き止んでいた。

 まだ少し目は赤く、頬の上には涙の跡がかすかに残っていたけれど。

 余程近付いて顔を覗き込まない限り、第三者は気が付かないだろう。

 いまや太陽は半ば以上地平線の彼方へ没し、周囲が薄暗くなりつつあるからだ。

 正面ゲート前の広場まで引き返し、時刻をたしかめると午後六時を過ぎていた。

「ぎんの森レジャーランド」は、もう夜間営業の時間帯に入っている。


 僕と晴香ちゃんは、遊園地の敷地を出て、そろそろ帰路へ着くことにした。

 夜間限定パレードもあるらしいけど、見物すると遅い時間になってしまう。


 そんなわけでバスと電車を乗り継ぎ、星澄市中央区まで引き返した。

 JR星澄駅に到着し、駅前広場へ出ると、午後七時半を回っていた。


 晴香ちゃんは、ここから再びバスに乗って、帰宅しなければならない。

 南区「明かりの里」行きの停留所で、該当する路線の時刻表を調べる。

 次に目当てのバスが来るのは、午後七時四二分。約六、七分ほど時間がある。

 晴香ちゃんを見送るため、それまで僕も付き添って、一緒に待つことにした。



「今日は先輩と一緒に居られて、本当に楽しかったです」


 晴香ちゃんは、停留所のベンチに腰掛けながら言った。

 膝の上には、まだラプとんのぬいぐるみを抱えている。


「忘れられない、最高の思い出を作ることができました」


 夜のとばりが街並みを包んで、辺りは街灯にひっそりと照らされている。

 晴香ちゃんは、宙の真っ暗な空間を、殊勝な面持ちで仰ぎ見ていた。

 薄墨色の大きな瞳には、感慨深げな色が滲んでいるみたいだった。


 僕も、ベンチの隣へ腰を下ろし、同じように頭上を眼差してみる。

 林立するビルの合間から、切り取られたような夜空がのぞいていた。


「こっちこそ、晴香ちゃんと一日デートできて、とても楽しかったよ」


「本当ですか? あたしと居て、つまらなかったりしませんでしたか」


 素直な感想を伝えると、晴香ちゃんは小声で訊き返してきた。

 僕は「本当に楽しかった」と、遠い空を見上げたまま答える。

 あまり綺麗でもない月が、都会をおおう暗闇の中に浮いていた。


 晴香ちゃんは「そうですか」と、ほっとしたようにつぶやく。

 僕は、おもむろに視線を地上へ戻し、横目で様子をうかがってみた。

 晴香ちゃんも正面に向き直って、ぬいぐるみを抱き締めていた。


「……あたし、幸せだなあ。先輩からプレゼントももらえて、夢も沢山かなって……」


 またしても何を言うべきか、僕には適切な言葉が見付からない。

 じっと口をつぐんで、同じ時間を共有することしかできなかった。


 ……まだ夏の熱気が残る、八月末の夜の街中で。

 そうして、二人のあいだに静かな数分が流れる。


「ねぇ先輩。向こうからバスが来たみたいです」


 やがて、晴香ちゃんが車道を眺めながら言った。


「あれ、南区方面行きで間違いないですよね?」


 行き交う車の流れを、手前からさかのぼるように見る。

 ここから少し離れた交差点には、たしかにバスが一台赤信号で停車していた。

 車体正面の上部をたしかめると、行き先が「明かりの里」と表示されている。



 と、そのとき。

 ぽんぽん、と肩を叩かれた。

 今現在バス停の周りには、僕と晴香ちゃんの二人しか居ない。

 だから当然、後輩が何か合図を送っているらしい、と考えた。

 突然どうしたのかといぶかしみつつ、そちらを振り返ってみると。


 ちゅっ……という、控え目な音が不意に聞こえた。

 同時に片側の頬に柔らかく、温かなものが触れる。


 僕は一瞬、何が起こったのかわけがわからず、全身を硬化してしまった。

 だがすぐ、自分の顔と晴香ちゃんのそれが近接しているのに気付き――

 次いで、彼女の唇が僕の頬に接触していることを、数秒遅れて理解した。


 ――晴香ちゃんが、僕の頬にキスしている。


 僕は、状況を把握しても、驚きの余り半ば放心していた。


「……えへへ。また引っ掛かりましたね先輩」


 ほどなく、晴香ちゃんは顔を離して囁いた。

 悪戯いたずらっぽいけど、妙に寂しげな口調だった。


「こんな子供だましの手に乗せられるだなんて」


 僕は、思わず自分の頬を、手のひらでそっとでた。

 女の子の唇が接した感触が、まだほのかに残っている。


 以前にバイト先で、頬を指先で突かれたときのことを思い出した。

 それと、暑い日に冷たいペットボトルを当てられたときのことも。

 ほとんど同じ手口で、かれこれ三度もおとしいれられてしまったわけだ。

 自分の学習能力の低さには、我ながらほとほと失望を禁じ得ない。



 バスが緩やかに減速しながら、停留所の前へ滑り込んでくる。

 晴香ちゃんは、ベンチから腰を上げて、乗車口に駆け寄った。

 タラップを素早く上ると、車内から今一度こちらを振り返る。


「今のは『ほえほえラプとん』をプレゼントして頂いたことの、お礼ですから!」


 晴香ちゃんは、別れ際の挨拶代わりにそう言い放った。

 乗車口のドアが直後、ぷしゅーっと音を立てて閉じる。

 発車の合図にクラクションを鳴らすと、バスは乗客を乗せて走り出した。

 車両はゆっくりと視野から遠ざかり、夜道の闇に溶けて見えなくなった。



 しばらくバス停のベンチに腰掛けたまま、僕は立ち上がることができなかった。




     〇  〇  〇




「お別れデート」から一夜明けると、いよいよ九月がはじまった。


 この日もアルバイトで、夕方からスーパー「河丸」に出勤した。

 いつも通り品出し業務に従事して、休憩時間を和やかに過ごす。


 ……ところが、午後九時に差し掛かった頃のこと。

 いきなり売り場で、舟木店長から話し掛けられた。


「――なあ小宮くん。君はもう今井さんから聞いたかい?」


 店長は、すっかり弱り顔になって、首をひねっていた。


「今井さんが今月一杯で、うちのバイトを辞めたいらしい」


 まるで寝耳に水の話だから、僕も随分ずいぶんと驚かされた。

 店長の話によると、ついさっき本人から離職の意思を伝えられたという。

 今日の休憩中も普段と変わらず、僕は晴香ちゃんと食事していたけれど。

 その際にはまったく話題にしていなかったから、にわかに信じ難かった。



 それから午後九時半を過ぎ、僕が飲料売り場で品出しを続けていると。

 退勤前に挨拶するため、私服に着替えた晴香ちゃんが歩み寄ってきた。

 仕事中も気掛かりだったので、離職の件に関して直接問いただしてみる。

 晴香ちゃんは「店長から聞いたんですね」と言って、否定しなかった。


「どうしてアルバイトを辞めること、さっきの休憩時間中に教えてくれなかったの?」


「それはですね。もし先輩に話したら、引き止められるかもしれないと思ったんです」


 重ねて訊くと、晴香ちゃんは苦笑交じりに答えた。


「引き止められたら、決心が鈍るので。だから店長に先に離職の意思を伝えたんです」


 僕は、いったん作業の手を止めて、離職するという後輩の顔を覗き込んだ。

 そこには、澄んだ光を帯びた瞳がある。もはやわだかまりは感じられない。

 すぐ元の仕事に戻って、台車に積んだ缶飲料を取り出す。

 品出し業務を続行しながら、尚も疑問を投げ掛けてみた。


「バイトを辞めたら、これからはどうするの?」


 なぜ辞めるの、とは訊かない。

 最近一週間の出来事を振り返れば、原因が僕の存在にあるのは明白すぎる。

 経緯はともあれ、この子を傷付けた事実から目を背けるつもりはなかった。


「そうですねぇ。やりたいことは色々あります」


 晴香ちゃんは、うーん、とうなりながら、頬に人差し指を当てた。

 朗らかな弾んだ声音で、いかにも嬉しそうに今後の予定を語る。


「自由な時間が増えれば、これまでより『お菓子研究会』の活動にも積極的に参加できるようになりますし。あと一〇月には高校で学園祭がありますから、クラスのみんなと準備にはげみたいと思います。大きな学校行事も、三年生は卒業式を除けば、これで最後になりますから」


 それはとても、ありふれた青春の計画だった。

 きっと前向きに高校生活を送ろうとすれば、多くの人々がごく「普通」に経験する物事。

 報われぬ片想いから脱し、この子はあるべき状態を目指して、再び進んでいくのだろう。


「そっか……。とてもいいと思うよ、頑張って」


 僕は、晴香ちゃんの青春が素敵なものになることを、本心から祈った。

 三年生が高校生であり続けられる時間も、もう決して残りは多くない。

 そのあいだに得るべきかけがえのないものは、しかし数多あまたあると思う。

 この子には、それをひとつでも多く、取り逃さないでもらいたかった。


「えへへ。でもまあ、あと一ヶ月はまだ、ここのお店でお世話になるんですけどねっ」


 晴香ちゃんは、わざとらしくお道化どけた調子で言った。

 それから、不意にちょっと黙り込み、ひと呼吸挟む。

 こちらを真っ直ぐ眼差すと、再び口唇を開いた。



「――あのですね先輩。やっぱり、あたしはこれからも『普通』で居たいと思います」


 晴香ちゃんは、神妙な面持ちになって宣言した。

 それは率直で、飾ったところのない言葉だった。


「昨日は一日デートして、二人で『普通』のカップルみたいになれたつもりでしたけど。心の中ではどこかで、他に恋人が居る男性とデートするのは、結局『普通じゃない』んじゃないかって……そんなふうに考えて、その先を想像したときに怖くなっている自分が居たんです」


 なるほど、と僕は相槌あいづちを打ってみせる。


 この子は昨日、まだ僕が心変わりする可能性に期待していた、と言っていた。

 しかし仮に願望が実現すれば、片想いの相手を他の女性からうばうことになる。


 それはたぶん、晴香ちゃんが念願する「普通」の恋愛とは異質なものだろう。

 略奪しようとした先には、どれほどの厄介が待ち受けているかもわからない。

 そうした非合理な困苦を引き受けるのは、この子が信じる理想と違うはずだ。


「こんなあたしのこと、先輩は意気地なしだと思いますか」


「いいや、ちっとも思わない。それはきっと『普通』だよ」


 問い返す晴香ちゃんに向かって、僕は迷わずけ合った。


 僕は、世間で「普通」と呼ばれる正しさを、必ずしも信用していない。

 でもだからって、この子が何を信じ、何を選ぶかを否定するつもりもなかった。

 僕が僕の信じるものを選ぶのと同じで、彼女も彼女の信じるものを選んでいい。


「たぶん、あたしは先輩や美織さんほど、強くないんです」


 晴香ちゃんは、はにかみながら寂しげに答えた。


「自分がみんなと同じだっていう安心感を捨ててまで、自分の意思を貫いたり、決意したことを実行したりするだけの勇気が持てません。嫌なことがあっても、自分さえ我慢すれば上手く物事が回るなら、余計なことを言って面倒を抱え込むよりいいと感じる場合が多いですし。自分には他の人より優れた才能がないことも、知ってますから……」


 僕は、自分が他の人より強いとも、勇気があるとも思わない。

 それどころか大学を中退したのは、むしろ臆病だったせいだ。

 周囲に迎合しているうち、自分が思考力を失うのが怖かったし――

 またいつの間にか、自己決定権を放棄してしまうのを恐れたからだ。


 しかし晴香ちゃんが、僕と異なる種類の不安を抱えているのもわかる。

 失敗したくない、余計な費用コストを使いたくない、安全な最適解が欲しい。

 先行き見えない時代だからこそ、より確実なものを求める心理なのだろう。


 それゆえ僕は仕事のかたわら、晴香ちゃんが語る言葉を、さえぎらずに聞いていた。



 ひと頻り話すと、晴香ちゃんはスマホを取り出した。

 現在時刻を確認してから、帰宅の意思を伝えてくる。


「じゃあ、そろそろ失礼しますね先輩」


「うん。お疲れ様だったね晴香ちゃん」


 定型的なやり取りのあと、晴香ちゃんは僕のそばを離れていった。

 だが飲料売り場から去る間際、もう一度だけこちらを振り向く。


 最後にとびっきり朗らかな笑顔を浮かべて、大きく手を振った。




「――ばいばい、先輩!」

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