73:お姉さん不在で、後輩の話に耳を傾けてみる。

 僕は、幾分戸惑って、思わず何度か目をまたたかせた。

 たった今聞かされた言葉について、自分が正しく意味を理解できたと思えなかった。

 狭いゴンドラの中で、向かい側の席に座る女の子の顔を、よくよく正面から眼差す。


「えっと。四番目にこだわっていた……っていうのは、どういうことかな」


「全体での順番のことです。一〇人居たら上から四番目、みたいな感じで」


 晴香ちゃんは、少しだけうつむくと、膝の上のぬいぐるみへ視線を落とした。

 あたかも子供に接するような手付きで、優しく「ラプとん」の頭部をでる。


「高すぎも低すぎもしない、それでいて周囲からもバカにされず、無駄に悪目立ちして面倒事に巻き込まれることもない。どんなときにも安全で、居心地が悪くない――」


 そこで浅く呼気を吐いてから、晴香ちゃんは静かに言った。


「そういう『普通』の立ち位置が、あたしにとっての四番目だったんです」


 僕は、説明されてやっと了解し、黙ってうなずいてみせた。


 もし全部で合計一〇人居たら、その中で上から四番目。

 それはたしかに「普通」っぽい立ち位置かもしれない。

 五、六番目ほど完璧に真ん中でもなく、七番目ほど下位転落の危機も感じない順番。

 他人からマウントを取られるほどでもなく、を絵に描いたような安全地帯。


 この子がそういうものに執着したがる性格だっていうのは、すでに僕も知っている。



「……でも実はあるとき、あたしと全然違う考えで四番目に固執する人と知り合いました」


 晴香ちゃんは、ぬいぐるみを撫でる手を止めて言った。

 膝の上に抱えた「ラプとん」の顔を、じっと見詰める。


「誰かと言えば、同級生の男の子なんですけど。中学高校と同じ学校に通っている生徒で」


 と、僅かばかり間を挟んで、晴香ちゃんはおもむろに顔を上げた。

 薄墨色の大きな瞳を落ち着かない様子で動かし、慌てて付け足す。

 あとから失敗に気が付いて、取りつくろうような口振りだった。


「一応、断っておきますけど。特に仲がいいわけでもない、本当に単なる同級生ですから」


「ああもちろん、わかっているよ。それで、その同級生の男子生徒がいったいどうしたの」


 苦笑交じりにけ合って、僕は話の先をうながす。

 晴香ちゃんは、とりあえず安堵した様子で続けた。


「ええっと……。その男の子って、ずっと中学でも高校でも野球部の部員だったんですよ」


「へぇ、野球経験者か。それで四番目にこだわるってことは、打撃に自信があったのかな」


 晴香ちゃんの同級生ならば、高校三年生。

 八月末日現在は「元野球部員」のはずだ。


 高校生活で最後の夏が過ぎれば、大抵の運動部で少なくない最上級生が引退する。

 その男子生徒のことを、晴香ちゃんも過去形で語っているから間違いないと思う。


 そうして、野球経験者がこだわる「四番目」と言えば、チーム内での打順が連想された。

 四番打者っていうのは、攻撃の要。得点圏で最も期待される、中心選手のはずだからね。

 まあ現代野球のトレンド的には、むしろ二番に強打者を置いた方が得点力は上がる、っていうデータもあるらしいけど。それでも学生野球じゃ、いまだに四番が打撃の主役だろう。


「はい。地元では中学時代から四番打者で、高校生になってもそうでした」


 晴香ちゃんは、緩やかな所作でうなずき、こちらの憶測を肯定する。

 それから、元野球部員の同級生に関する情報を、尚も淡々と続けた。


「しかも前々から『プロ野球選手になりたい』って言っていたんですよね」


 そこでまた数秒、微妙な間が生まれた。

 バイト先の後輩は、僕の胸の内側を探るような目で眼差す。

 どういう反応を示すかを、密かにうかがっているみたいだった。

 身動ぎせずに黙っていると、晴香ちゃんは改めて口を開く。


「さっき先輩がボールシュートに挑戦してくれたとき、その前に景品で『だるだるラプとん』のぬいぐるみを受け取っていたお客さんが居たじゃないですか? あの男性も高校時代まで野球部だったって言っていたのを聞いて――それで同級生のことを、何となく思い出したんです」


 なるほど思い返してみれば、あのとき高得点を叩き出した来園客はそんなことを言っていた。

 ただしアトラクションで好成績を残す運動能力があっても、部活は補欠だったみたいだけど。



 まあ、それはともかく。

 晴香ちゃんは、やや横に逸れた話題の方向を修正し、再び先を続ける。


「もっとも明南高校に進学している時点で、同級生の男の子がプロ選手になるのは無理だと思うんですけどね。うちの学校って、野球に限らず運動部全般がどれも全然強くないですから」


 元野球部員の知り合いに関する、この子なりの率直な印象らしい。

 いささか辛辣しんらつな言葉だけれど、なぜか酷薄には感じられなかった。

 晴香ちゃんの声音には、嘲弄ちょうろうめいた響きがなかったせいだろうか。


 それに残酷だが、指摘に一定の妥当性が含まれているからでもある、と思う。

 僕が知る限り、明南高校は学業も運動も、全国水準で平均的な実績の学校だ。

 少なくとも、野球部が県代表になって、甲子園に行った試しなどはないはず。


 そうした学校に集まる野球経験者には、たぶん同世代のトップレベルは存在しないだろう。

 将来プロ選手になるような逸材なら、大抵は甲子園出場の常連校へ進学するはずだからだ。

 明南高校野球部の四番打者は、ひょっとしたら強豪校の補欠より実力が劣るかもしれない。



「ところで先輩。もう気が付いていると思いますけど」


 晴香ちゃんは、口元に薄い笑みを浮かべて言った。

 自嘲的だけれど、やけにさびしげな面差しに見えた。


「実はあたしって、あんまり性格良くない子なんです」


 僕は、そんなことない、と言おうとしたものの、思い通りにならなかった。

 こちらの否定をさえぎるようにして、晴香ちゃんがすぐさま先を続けたからだ。


「だから、その男の子が高校進学してからも、なぜ野球を続けているか理解できませんでした。もう現実的に考えて、ほとんどプロ選手になれる見込みはないわけじゃないですか。それなのに貴重な高校生活を、報われもしない練習に費やし続けるのは非合理すぎます」


 ゴンドラの外から、かすかに金属のきしむ音が聞こえる。

 僕らを乗せた箱型の乗り物は、いよいよ観覧車で一番高い位置へ差し掛かろうとしていた。

 窓硝子越しに射し込む陽の光が、ひと際強く輝きを増して、ゴンドラの内部に照り付ける。


「ねぇ先輩。JRぎんの森東駅の近くに野球場があるの、見てわかります?」


 晴香ちゃんは、窓の外を指差しながら言った。


「あそこで毎年、高校野球の県大会予選が開かれるんです。もちろん今年も開催されて、うちの学校の野球部も出場しました。たしか二回戦で、あっさり敗退しましたけど」


 僕は、ちいさく遠くに見える野球場を眺めて、しかしすぐ向かい側の席へ視線を戻した。

 そこには当然、半日一緒に過ごした後輩の横顔がある。年齢相応のあどけなさと、ほんの少し大人びたうれいが同居する、たぶん今この瞬間しか見ることのできない表情を浮かべていた。


「予選敗退の日、同級生の男の子にとっての夢が終わりを告げたんです。試合の直後は散々号泣していたって、他の部員が話しているのを聞きました。どうやら本人も『卒業後は地元で消防士になって、もう野球は友達と遊びでしかしない』って言っているみたいです」


 晴香ちゃんは、こちらへ向き直ってちいさく肩をすくめた。

 穏やかな微笑が夕日で金色にいろどられ、とても綺麗だった。


「でもその男の子、今じゃ野球で上手くいかなかったことなんて、ちっとも悔いている素振りはないんですよね。何年間も頑張って、県大会すら勝ち抜けなかったのに……」



 晴香ちゃんは、膝の上からぬいぐるみを、左右の手で持ち上げた。

 こちら側へ恐竜の気怠そうな顔を向けると、胸の高さまで掲げる。

 子供が玩具おもちゃ遊びする要領でラプとんをあやつり、がおーっ、と言った。


「それで最近まで、やっぱり彼の気持ちが理解できてなかったんですよあたし」


 それから、晴香ちゃんはぬいぐるみを手元で持ち直す。

 今一度正面から、ラプとんと自分の顔を突き合わせた。


「でも今になって、ようやくわかってきたというか。つまりですね、その――」


 ちょっと口篭くちごもってから、晴香ちゃんは溜め息混じりに続ける。



「実はあたしも高校生活で、その男の子と大差ない経験をしていたんだなって」



 なぜか晴香ちゃんの瞳は、目の前のぬいぐるみを見ているようには感じられなかった。

 手の中にある物体を視覚にとらえながら、もっと他の何かを見詰めているみたいだった。

 そう、例えば、過ぎ去ろうとしている夏の日の残像とか、そういった抽象的なものを。


「結局あたしの恋愛だって、告白する以前から終わっていたわけじゃないですか? それは先輩に失恋したあとになってから、初めてわかったことではあるんですけれど……」


 晴香ちゃんは、高校生活の二年余りを、報われぬ初恋のために過ごした。

 この子と最初に知り合った時点では、まだ僕もお姉さんとの面識はなかったけれど。

 いよいよ告白を実行に移したときには、すでに何もかもが手遅れになっていたんだ。


「これでもあたしって、けっこうねばり強さに自信があるんですよ」


 晴香ちゃんは、ぬいぐるみを膝の上に戻しながら言った。


「以前にも先輩には同じことを言ったんですけど、覚えてます?」


 僕は、短く「……うん」と、僅かにかすれた声で答えた。

 いつだったか、バイト上がりの挨拶で交わした他愛ないやり取り。

 まだ然程さほど古い会話でもないのに、ずっと昔の出来事に感じられる。


「先輩に告白したとき、心の中では九割方駄目なんだろうなって思ってました」


 晴香ちゃんは、ちょっと伏し目がちにぬいぐるみを眼差していた。


「でも一割未満かもしれないけど、ひょっとしたら『まだ先輩が好きになってくれる見込みがあるんじゃないか』って、馬鹿げた逆転を祈る気持ちもどこかにあったんです」


 美織さんの存在を知りつつ、尚も告白せずに居られなかった理由。

 それはおそらく、野球をあきらめられずに続けた同級生とよく似ている。

 あるいは報われなくとも、何かに固執しているすべての人々の心に。

 この子もそれと気付いて、内省を吐露とろしているのだろう。


「それで白状すると、実際には告白を断られてからも――今日のデートの途中までは、奇跡が起きることをちょっぴり期待していました。仮に一パーセント以下の可能性だとしても、半日一緒に過ごしたら、先輩があたしの方をもう一度振り向いてくれるかも、って」


 晴香ちゃんは、照れ笑いのような面差しを覗かせた。


「もちろん見ての通り、そんな都合のいい展開は起きなかったんですけどね?」


 奇跡が起こらなかったことを、僕も一切否定しない。

 この子が言う通り、いきなり心変わりすることなんてないからだ。

 たとえ二人っきりで、夢想的なシチュエーションに置かれようと。

 僕の愛しい恋人はたった一人だけで、それは晴香ちゃんじゃない。

 後輩が期待していた可能性は、実際には最初から皆無だったんだ。



 僕は、ちょっと片目だけすがめながら、陽光に包まれた後輩の笑顔を見る。

 観覧車の高所は西日が強くて、両目を大きく開いていられなかった。


「……ねぇ晴香ちゃん。今日のデートが終わっても」


 いささか躊躇ちゅうちょしたものの、どうしても訊かずに居られなかった。


「やっぱり今はもう、この二年間に悔いはないの?」


 晴香ちゃんと美織さんが先日、喫茶店で交わした会話を思い出す。


 ――晴香さんは、裕介くんを好きになってしまったことを後悔していますか? 

 ――……後悔なんてありません。今だってあたし、先輩のことが好きですから。


 初恋を成就させられず、報われぬ二年間を過ごして。

 それでも尚、この子は僕を好きでいてくれるという。


 あのときの言葉を信じて、美織さんは「お別れデート」を提案してくれたんだ。

 過ぎ去りつつある青春に未練を残さないよう、思い出作りして清算するために。


 だが一方で南野さんは、そのせいでかえって面倒な展開になる可能性を不安視していた。

 余計に初恋を引き摺る結果になって、晴香ちゃんが立ち直れなくなるんじゃないか、と。


 この子は、自分が「けっこう粘り強い」という。

 そうして、もう失恋は決定的だと考えていても――

 まだ密かに逆転を期待して、それがかなわずとも奇跡を願っていた。

 ならば南野さんの懸念は、的中したのか、そうはならなかったのか? 


 僕の失恋させた女の子が今、最初で最後のデートを経て、何を感じているか気になった。


「はい、悔いはありません。もう初恋に未練も残さずに済みそうです」


 晴香ちゃんは、こちらの問い掛けにきっぱり答える。

 とても透き通っていて、迷いの感じられない声音だ。

 それで、南野さんの心配は、杞憂きゆうだったとわかった。


「最後まで先輩があたしを見てくれなかったのは、残念ですけどねー」


 僕は「そっか。ごめんね……」と、つぶやくのが精一杯だった。

 謝らないでくださいよ、と晴香ちゃんは苦笑いでそれに応じる。

 いったん、次の言葉が互いに出て来なくなり、会話が途切れた。




 ……晴香ちゃんと、元野球部員の同級生は、どちらも「四番目」に固執していた。

 両者の思惑は随分異なるけれど、理想に手が届かなかった点では同じ立場だった。

 いずれも青春の貴重な時間を費やし、ひたむきな熱情を傾けたのだと思う。


 それぞれ見返りに得られたのは、ほんのささやかな思い出。

 最初で最後の「お別れデート」と、県大会予選の試合だけ。


 でもきっと、それは青春をこじらせないために必要な記憶だったんだろう。

 自分が努力し、挑戦した証拠であり、現実を消化して納得するための経験……

 そう、たぶんどうしても必要なんだと思う、心から納得するにはが。

 失敗も敗北も、挑戦したから得られるものだし、苦しみを知るから得心がいく。


 青春をこじらせる要因は、人によって様々だと思うけれど。

 そのひとつは真剣な理想があっても、挑もうともせず断念することじゃないか。

 つまづきを恐れて、危険を避け、結果的に挑戦する機会が二度と得られなくなると。

 過去に未練が残って、あとに続く日々の中で、あれこれ心をこじらせてしまう。

 南野さんは、そこに気が付かなかったから、無用の懸念を抱いてしまったんだ。



 しかしもう、これで晴香ちゃんは初恋を清算できたはずだ。


 この子は、今後も「こじらせない後輩」であり続けられる。

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