72:お姉さん不在で、後輩との手つなぎデートは続く。

 晴香ちゃんは、薄墨色の大きな瞳を二、三度またたかせた。

 言葉の意味をつかみ損ね、要領を得ていない様子だった。

 そりゃ日常じゃ聞かないだろうからね、まず「復讐」だなんて。

 だから当惑気味の表情で訊き返されたのも、致し方ないだろう。


「……復讐、ですか?」


「うん、そう。復讐だ」


 僕も同じ単語を繰り返し、緩やかな動作でうなずいてみせる。

 次いで、その意味をどう伝えるか迷いつつも、説明を試みた。


「実は中高生だった頃の僕って、晴香ちゃんとけっこう似たところがあったんだ」


「あたしと似たところが、昔は先輩にもですか? その、それはどういう意味で」


「端的に言えば、何事もほどほどで人並みに生きることが一番賢いと思っていた」


 当時を振り返って言うと、晴香ちゃんは殊更に動揺したみたいだった。

 まあ、それも当然だろうね。「ほどほど」や「人並み」というのは、この子が掲げる「普通」という価値判断の概念に近しい基準だと思う。

 失恋相手は、かつて自分と似た価値観を持っていた――

 晴香ちゃんも、それを今のやり取りで理解したんだろう。


 僕は、努めて淡々と続けた。


「でも大学に進学してから、そういう生き方に違和感を覚えてさ。それで中退したわけだけど、いまだ過去の自分には嫌悪がある。だから漫然と周囲に流され、自己決定権を半ば放棄していた自分――あの頃の僕自身に対する報復なんだよ、フリーターを続けていることは」


 大学を中退して、フリーターになった自分。

 それは過去に思い描いていた生き方と比すれば、かなり異質なものだと思う。

 しかも適当に現実をやり過ごした結果じゃなく、この立場を自らで選択した。


 そうした状況であり続けることで、僕は過去の僕自身を逆説的に否定してきたんだ。

 フリーターになった理由を言語化できるようになって、今じゃ明確にそれとわかる。



「……えっと。何と言うか、それはその――」


 晴香ちゃんは、蟀谷こめかみの辺りを指で押さえ、眉根を寄せながら言った。


「正直メチャクチャで、わけがわかりません」


「ああ、そうだね。まったく自分でも、本当にメチャクチャだなと思うよ」


「じゃあフリーターを続けること自体が理由で、就活していないんですか」


「そういう見方もできるかも。死ぬまで続けるつもりだとは言わないけど」


 僕は、軽く肩をすくめてから、苦笑交じりに言葉を継いだ。


「フリーターを続けてみて、改めて実感しているんだけどさ。今の立場って、凄く将来に不安があるんだよね。――にもかかわらず、同時に心が安らぐんだよ。学生時代よりもずっと」


「いやいや……。余計に何を言っているかわかんないです先輩。何だか矛盾が凄すぎて」


 晴香ちゃんは、もはや呆れ顔でかぶりを振った。

 まるで目つきは、大人が悪童を見る際のそれだ。

 こうした反応に対して、僕は自嘲的に応じるしか術がない。

 ただそれでいて、不思議と卑屈ひくつな感覚にはならなかった。


「だろうね、たしかに酷い矛盾だと思う。結局、僕も『普通じゃない』んだろうな……」


 フリーターであることに心の安らぎを覚えるのは、それが自分で選んだ状況だから。

 そこにはっきりと気付けなかった頃には、日々を空虚に感じた時期もあったけれど。

 今じゃ自らの意思を実行していることについて、僅かながら満足感さえ抱いている。


 また、ある意味で不安な心理は、僕に「自分が生きている」という実感を与えてくれていた。

 たとえ抜け殻みたいな状態でも、ぼんやりした苦しみが胸にわだかまっていれば、そこには思考する自己を認識できる。息詰まるような重さは、存在確認の術になっていたんだ。


 もしかすると、フリーターであり続けることには――

 僕にとって、どこか自傷行為と似たような意味があるのかもしれない。

 それは過去の自分を乗り越えるため、今の自分を苦しめる「復讐」だ。


 晴香ちゃんは、かつて美織さんとの面会を「自傷行為みたい」だと言った。

 あのとき、僕が彼女の要望を聞き入れ、退けられなかった理由も、あるいはそれが「彼女なりの自己確認になり得る」と、心のどこかで感じていた可能性は否定し切れない……。




     〇  〇  〇




 カフェテリアでの食事を済ませたあと。

 僕と晴香ちゃんは、再び見取り図を眺めながら、遊園地の中を歩いて巡った。

 アトラクションは種類が豊富で、到底一日だけじゃ全部回り切れそうにない。

 混雑に伴う行列待ちの時間も考慮しつつ、厳選して各所のもよおしを楽しんだ。



 何気なく立ち寄ったお化け屋敷ホラーハウスは、迷路状の閉鎖的な洋館が舞台だった。

 薄暗い建物の中では、なんとCG技術を駆使した演出が導入されていた。

 突如目の前に現れるリアルな映像は、虚構とわかっていても迫力がある。


「せせせ先輩!! なんか向こうの通路を、半透明の女性が歩いていたんですけどおっ!?」


 アトラクションの最中、晴香ちゃんは事ある毎に蒼白な顔になって叫んだ。

 そのせいで館を奥へ進む都度、幾度となくなだめてあげなきゃならなかった。


「ちょ、ちょっと落ち着いてよ晴香ちゃん。たぶんあれって、CG映像の幽霊じゃないかな」


「そそそ、それに今、あっちの壁に据え付けてある鏡の中から、白い手が出てきました!!」


「ああうん、きっとそれもCGの演出だね。ほら、他のお客さんも居るし落ち着こうか……」


「きっ、きゃあああーッ!? この場所に立つと、頭上からひんやりと冷たい空気がっ!!」


「それは単に空調設備から出ている冷気だね!? もはやCGですらないからしっかり!!」


 ……一応、晴香ちゃんの名誉のために断っておくと。

 ここのお化け屋敷は、かなり仕掛けが巧妙で、心臓に悪い演出が少なくなかった。

 実際に僕も何回か、ちょっと背筋が寒くなるような心地を体験させられたからね。

 晴香ちゃんと同じように怖がっている女性は、他に何人も居たみたいだし、泣き出した子供をあやしている家族連れの客も、途中で何組か見掛けた。



 続けて挑戦したのは、バイキング船と呼ばれるアトラクションだった。

 前後に振り子運動する乗り物に搭乗し、スリルを楽しむ大型ブランコの一種だね。

 高所から低所へ揺れる船の振り幅は、宙に弧を描きつつ、加速と共に大きくなる。

 乗り続けるうち、身体が重力に弄ばれる感覚も加わって、くらくらしてしまった。


「やっぱり、乗り物系のアトラクションはいいですね先輩?」


 バイキング船から降りると、晴香ちゃんは笑顔で賛意を求めてきた。


「何と言っても、風の中を舞っているような感覚が最高です」


「晴香ちゃんって、この手のやつがけっこう好きみたいだね」


 二人で並んで乗り場を離れつつ、僕はわりと本気で感心して言った。

 ジェットコースターやウォーターライドでも、随分と満喫していたみたいだからね……。

 世の中には怖くて乗れないって人も多いと思うんだけど、この子には無縁の感覚らしい。

 僕が見立てた印象は案の定、当人も否定しなかった。


「そうですねー。全般的に好きですよ」


「酔ったり緊張したりとかしないの?」


「えへへ、あんまり。正直言うと――」


 晴香ちゃんは、人差し指をおとがいに添えながらはにかんだ。


「物理的な恐怖感より、精神的に迫られるものの方が苦手で」


「あー。さっきのお化け屋敷みたいなアトラクションとか?」


 確認するように問いを重ねると、晴香ちゃんは「はい」と答えて首肯する。


「よくホラー映画で『幽霊より人間の方が怖い』的なオチの作品がありますけど。あたしとしては直接触れるものなら、危険は感じても、ぞっとすることは少ないかもです」


 なるほど。ひと口に恐怖と言っても、色々と種類があるからなあ。

 実在するものなら意味不明でも、認識できるぶん怖くないって理屈だろうか。

 ただそれゆえ、逆に存在自体が曖昧なものには不安を覚えるのかもしれない。

 それは何となく、様々な事物に「普通」であることを――

 つまり、相対的な安定性を求める彼女らしい気がする。



 などと園内を歩きながら、ぼんやり頭の中で考えていたら。

 不意に片側の手のひらに柔らかな感触を覚え、どきりと胸の奥が鳴った。

 はたと見てみれば、晴香ちゃんの手が僕のそれを、控え目に握っている。


「先輩はどうですか。こうやって、唐突に直接触られるのは」


 晴香ちゃんは、すぐ隣から上目遣いで、僕の顔を覗き込んでいた。


「年下の女の子から手を握られて、どんなふうに思います?」


「……いや、どう思うかって訊かれてもね」


「このまま手、つないでいたら迷惑ですか」


 ちょっと困惑していたら、殊更に囁き声で問い掛けてくる。

 薄墨色の大きな瞳は、こちらを訴えるように見詰めていた。

 あたかも、子供が玩具店のショーケースを眺める目つきだ。

 僕は、ついひるんで、狼狽うろたえてしまった。


「いや。迷惑なんてことは、別にないけど」


「だったら、つないだままで歩きましょう」


 こちらの返事は、承諾と解釈されたらしい。

 晴香ちゃんは、僕の手を優しく引いて歩く。

 特に申し合わせたわけじゃないけれど、正面に伸びる道を二人で進んだ。

 この先の坂を下れば、カフェテリアがある場所まで引き返すことになる。


 ――僕は今、女子高生と手をつなぎながら、遊園地を歩いている。


 そう思うと、どうしようもなく居たたまれなさを覚えた。心がざわついて落ち着かない。

 ありふれた青春を失って久しい自分には、それが相応しくない状態に感じられたせいだ。

 だが手を離さなかったのは、それがこの子の思い出作りに寄与すると考えたからだった。


 その判断は果たして、すぐに間違っていないことがわかる。


「実はあたしにとって、これが三つ目の夢だったんです」


 晴香ちゃんは、真っ直ぐ前を向いたまま、再び傍らで囁く。


「デート中に手をつないで、好きな人と歩くことが……」


 僕は、ひと呼吸挟んでから「……そっか」と、短く答えた。




     〇  〇  〇




 それからも午後は、時間が許す限りアトラクションを楽しんだ。

 フリーフォールで垂直落下を体験したり、モーターカートで運転技術を競ったり……

 あとは少し気恥ずかしかったけれど、二人でメリーゴーランドの馬車に乗ったりした。


 ちなみに園内を巡る合間には度々、スマホのカメラで記念撮影もした。

 ぎこちなく写真の枠に収まる二人の姿は、やはり仲のいい兄妹にしか見えないと思う。

 それはただし僕の個人的な感想であって、第三者の目にどう映るかまではわからない。

 晴香ちゃんは、液晶画面に表示されたそれらの写真を、穏やかに目を細めて見ていた。



 ……やがて時刻は、午後五時半に差し掛かろうとしていた。

 ジェットコースターをはじめとするアトラクションは、すでにいくつか稼働停止している。

 西の空があざやかな茜色あかねいろに染まりつつあって、斜めに射す陽は黒い影を地面に伸ばしていた。

 つい先程まではあちこちにあふれていた来園客も、気が付けばまばらにしか見当たらない。

 華やかなにぎわいと夏の日の終焉しゅうえんを、その有様は物言わず語り掛けているかに思われた。


「――ねぇ先輩。次は向こうに見える観覧車に乗りませんか」


 晴香ちゃんは、園内西側の区画で立ち止まり、おもむろに右前方を指差す。

 そちらへ目を向けてみると、丘の上に夕映えした観覧車がそびえ立っていた。


「これがきっと、最後のアトラクションになるでしょうけど」


「……そうだね。じゃあ最後は、二人で一緒にあれに乗ろう」


 提案に同意して、観覧車が設置された場所へ足早に向かう。

 乗り場の周囲に行列はなく、ほとんど待たずに搭乗可能だった。

 係員の誘導に従って、目の前に下りてきたゴンドラへ乗り込む。

 僕と晴香ちゃんは、それぞれ差し向かいの座席へ腰掛けた。


 巨大な金属製の車輪が回転し、ゆっくりゴンドラを持ち上げていく。

 ほどなく二人が乗った箱型の空間は、高所を目指して地上を離れた。



「観覧車に乗って見る夕焼けって、やっぱり綺麗ですねー!」


 晴香ちゃんは、窓の外を見渡すと、深く感じ入った様子ではしゃぐ。


「凄くロマンティックで、心に染みる景色だと思います……」


 たしかに高所で眺める夕暮れは、地上からあおぎ見るそれとおもむきが違っていた。

 黄色く輝く太陽は、地平の彼方かなたに沈み掛け、放射される光が世界に豊かな彩りを加えている。

 帯状に広がる橙色だいだいいろの空が、地表から遠ざかるほど赤くなっていき、雲も桃色に変色していた。

 またさらに高く、ゴンドラから見える空間の末端まで近付くと、やがて茜色も徐々にくすみ、暗い紫色に侵食されはじめている。

 その向こう側には、新たな闇夜が迫りつつある証拠だろう。


 晴香ちゃんは、おもむろにトートバッグの中へ手を入れる。

 そうして、さっき僕が贈った恐竜型の風変りなぬいぐるみ――

「ほえほえラプとん」を取り出し、自分の膝の上に置いて抱えた。

 次いで柔和に微笑みながら、眼下の眺望へ注意をうながす。


「ここからだと、遊園地の敷地を出た場所にあるものまで見えますね先輩?」


「うん。元々観覧車が丘の上にあるからだろうね、本当に遠くまで見渡せる」


 僕は、夕焼けの光にまばゆさを覚えつつも、目を凝らして景色を眺めた。

 園内へ入る際に潜った正面ゲートの先には、駐車場が広がっている。

 そこから伸びる道路をたどれば、JRぎんの森東駅へと行き着いた。


 尚も見晴みはるかすと、他にも周囲に様々な施設や建築物が見て取れる。

 野球場やゴルフ場、スキー場、スケートリンク、コンサートホール。

 博物館とそこに併設された化石研究センターなど……



「あのですね先輩。突然なんですけど、ちょっぴり変なお話してもかまいませんか」


 晴香ちゃんは、にわかに神妙な声音で切り出してきた。

 ぬいぐるみを抱いたまま、ゴンドラの窓際にもたれ掛かっている。

 薄墨色の大きな瞳は、相変わらず硝子越がらすごしの夕暮れを眺めていた。


 僕は、控え目な頼み事に真剣な気配を感じて、うなずいてみせた。


「ああ、もちろんかまわないさ。僕なんかで差し支えなければ、聞かせてもらうよ」


「えへへ、ありがとうございます。正直場違いな話題かもしれないんですけど……」


 晴香ちゃんは、ほんの少しはにかんだように笑う。

 それから妙にしみじみとした口調で、先を続けた。



「実はあたし、ずっと前から何事も『四番目』であることにこだわっていたんです」

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