75:お姉さんだけのものだって、ちゃんとわかっているからね?

 多少日時が前後するけど、晴香ちゃんと「お別れデート」した日の夜のこと――

 僕が雛番のマンションに戻ると、美織さんは泣きべそかきながら出迎えてくれた。


「ふえええぇぇ~!! ゆっ、ゆゆ裕介くん、お帰りなさあいいいぃぃ――っ!!」


 リビングに踏み入るなり、お姉さんが真正面から勢いよく抱き付いてくる。

 突然の出来事に恋人を受け止め切れず、その場へ二人で転倒してしまった。

 腰と背中を硬い床に打ち付ける一方、腹部に柔らかなものがし掛かってくる。

 美織さんは、横たわった僕の身体の上に乗ったまま、ひしとしがみ付いてきた。

 ふわふわのおっぱいが押し付けられ、気持ちいいやら痛いやら困惑してしまう。


「うっ、ううっ。よかったよぉ……。本当にちゃんと帰ってきてくれたあぁ~……」


「ちょ、ちょっと落ち着いてよ美織さん。予定通り戻っただけで大袈裟おおげさすぎるって」


 僕は、美織さんの肩をつかんで、いったん互いの身体を引き離した。

 次いで上体を起こすと、大きく呼気を吐きながら、床の上に胡坐あぐらく。

 お姉さんは、隣にちょこんと正座して、まだえぐえぐと泣き続けていた。


 うーん、お姉さんと来たら、相変わらずの恋人依存っぷりが情けなさすぎる。

 こんなにすがり付く姿が似合う女性も、なかなか他に居ないんじゃなかろうか。

 でも、年上なのにいかにも悲哀のただよう有様が断然可愛いんだよなあ……

 などと感じてしまう僕も、もしかしたら趣味がおかしいのかもしれない。


「もうすぐ帰るって、さっきメッセージ送ったよね? 既読も付いてたと思うけど」


 晴香ちゃんと別れたあと、美織さんには事前に連絡を入れておいたはずなのだ。

 送信したのは星澄駅前からだったので、雛番中央からマンションまで歩く時間を合算しても、三〇分近く前には帰宅する旨が伝わっていたはず。

 にもかかわらず、泣くほど戻ってくるかどうかを心配される意味がわからない。


「だってぇ……。メッセージだけじゃ、まだちょっと心細かったんだもん」


 美織さんは、もういっぺんしゃくり上げながら答える。

 それから、肩のちからを弛緩させ、ふにゃっと笑った。

 ようやく、いくらか普段の平静さを取り戻したらしい。


「こうして裕介くん本人とじかにやり取りすると、やっぱり安心できるし」


「もう、しっかりしてよ。僕はお姉さん大好きだって言っているでしょう」


 穏やかに好意を伝え、僕はそっと美織さんの身体を抱き寄せた。

 双方座ったままで身を寄せ合って、毎度ながら繰り返しなだめる。

 いちいち手が掛かるけど、こんな面倒臭いところもお姉さんが好きだ。

 これほど僕を必要としてくれる女性は、たぶん世界に一人しか居ない。


 それに今回は色々こじらせているお姉さんにとっても、過去最大の試練だったはずだ。

 自分の目が届かない場所で、恋人が女子高生に浮気しないかと、やきもきしただろう。

 今日一日のあいだ、ずっと僕からの愛情を信頼し続けてなきゃいけなかったんだよね。

 諸々の背景を考え合わせてみれば、よくぞ不安な状況に耐え抜いたと思う。

 ……まあ、僕が他の子と出掛ける原因を作ったのも、お姉さん自身だけど。



「あはは。私も裕介くんが大好きだし、ちゃんと信頼していたんだけどね……」


 美織さんは、自分の顔を僕のそれに近付け、少し取り繕うように言った。


「でもやっぱり、ちょっとぐらい心が揺れるのは仕方ないかもとは思っていて」


「いや心が揺れるも何もないよ。僕が好きなのは、本当に美織さんだけだから」


 どちらも間近で相手と目を合わせ、じっと見詰め合う。

 お姉さんは、妙な訳知り顔で、口元に微笑を覗かせた。


「とはいえ私も、生物的に若くて可愛い異性にき付けられる感覚はわかるし」


「それは人それぞれさ。美織さんが年上でも、僕は日頃から可愛く感じるもの」


「何言うの裕介くん年下最高だよ!! 特に七歳年下で家事が得意な男子!!」


「なんで逆に反論されているの僕!? これ浮気とかしないって話だよね!?」


「私が裕介くんを遺伝子レベルで求めているって話です。そうもはや生物的に」


 いかにも既定の事実だという様子で、美織さんは言い切った。

 こちら側から上体を離すと、不意に床の上で居住まいを正す。


「ところでデート中の晴香さんはどうだった?」


「いや、どうだったと訊かれてもいったい何が」


「生物的に裕介くんを求めなかったのってこと」


 美織さんは、急に枯葉色っぽい瞳の奥を、鋭くきらりと光らせた。


「いきなり、えっちなことを要求されたりしなかった? おっぱい揉まないか誘われたりとか」


「ただ遊園地まで行ってきただけですけど!? どうしておっぱい揉まないか誘われるの!?」


 またもや突飛なことを問いただされ、即座にツッコミ入れずには居られなかった。

 遊園地でおっぱいを揉まないか誘う女子高生って、どういう妄想の産物ですか。


「知っていると思うけど、晴香ちゃんは真面目な子だよ。そんなの突然要求するわけ――……」


 などと抗議している途中で、脳裏にふと四、五〇分前の記憶がよみがえった。


 バス停のベンチで隣を振り返った途端、頬に感じた温かさと柔らかさ。

 あのときに不意打ちで、晴香ちゃんの唇が僕の顔に接触したんだった。

 もちろん決して、誘いに応じた結果で生じた出来事じゃない、と思う。

 でも、あれはひょっとして生物的に求められた結果……なのだろうか? 


 僕が思わず先程の事故を煩悶はんもんし、ちょっぴり口篭くちごもっていると。

 んで含めるような口調で、美織さんは同じ質問を繰り返した。


「そんなの突然要求するわけ、あったのなかったの?」


「……お、おっぱい揉むとかは一切なかったですハイ」


「じゃあ、おっぱい揉む以外のスキンシップとかは?」


 やや弱腰に否定すると、お姉さんは透かさず食い下がってくる。

 こちらの反応を見て、何事か怪訝な雰囲気を感じ取ったらしい。

 二人のあいだにじりじりした空気が漂って、酷く息苦しかった。

 室内は空調で適温にもかかわらず、背中が汗の滴で濡れている。


 だが美織さんは、僕の顔を微動だにしないで見据えていた。

 こりゃ言い逃れできる見込みはなさそうだ。腹を決めよう。

 僕は、もはや無駄に誤魔化したりせず、正直に打ち明けた。



「えっと……。晴香ちゃんから頬にキスを、一回だけ」



 …………。


 ……ぴきっ。

 と、何やら聞こえてはいけない音が聞こえた気がした。

 硝子が風雨に曝され、亀裂が入ったようなそれだった。


 恐る恐るお姉さんの顔色を窺うと、微笑が凍り付いている。

 瞳の奥からたぎるような熱を感じるものの、裏腹に目つきが冷ややかだ。

 さすがにどう控え目に見ても、今の報告を喜んでいる表情だとは思えない。



 ――明らかにやばい。


 僕は危険を察知して、本能的にひるんだ。

 果たして、予感は直後に現実となった。


 次の瞬間、美織さんが唐突に顔を接近させ――

 僕の唇に自分のそれで、激しく吸い付いたのだ! 


「……ちょ、んぐぅっ――〇×△※◇×〇……ッ!?」


 何か叫ぼうとしても、声音を漏らすことさえかなわない。

 半ば窒息しそうになるほどの、苛烈で濃厚なキスだった。

 美織さんは、僕の口の中を、徹底的に蹂躙じゅうりんしようとしてきた。

 自分の所有権を主張するような、独占欲丸出しの振る舞いだ。


 さらにそのあと、晴香ちゃんにキスされた頬にも、上から重ねて口付ける。

 唾液で濡れて、さっきの感触が消えるまで、何度も何度も続けようとした。


「裕介くんは私のもの、裕介くんは私だけの恋人……」


 美織さんは、そっと唇を離したあとも、譫言うわごとみたいに囁いている。

 そのまま自分の左右の手を、それぞれ僕の首元と腰回りに添えた。


「ねぇ裕介くん。こんなことするのは、私だけだよ?」


 にわかに僕は、胸元がはだけ、自分の皮膚が室内の空気にさらされるのを感じた。

 美織さんの手がいきなり、シャツのボタンを上から順に外しはじめたせいだ。

 もう片方の手は素早くベルトを抜き取り、ボトムスを下ろしに掛かっている。

 あっという間に着衣をぎ取られて、僕は半裸に近い姿になっていた。

 お姉さん自身も、部屋着を脱ぎ捨て、胸からブラを外そうとしている。


 ――ああ、お姉さんが僕のことを欲しがっている。


 呆気に取られ、すがままにされながら、ぼんやり頭の中で考えていたら。

 美織さんの綺麗な手が僕の下腹部へ伸びてきて、絶妙な刺激を加えてきた。


 僕は、恥ずかしい感触に身体をよじり、反射的にか細い悲鳴を上げてしまう。




 でもって美織さんに強請ねだられ、その日の深夜は散々愛し合うことになった。


 校外の遊園地から帰ってきて、すっかり疲弊していたのに過酷な仕打ちだ。

 いやうん、本当に僕はお姉さんが大好きだし、求められて嬉しかったんだけどね……

 どれだけ恋人同士の営みが素晴らしくても、体力には限界というものがあるわけです。


「たとえ『他の女性と身体の関係を持っても、浮気したと思わない』って言ってあったけど」


 美織さんは、僕の身体の上にまたがると、ぷんすこ怒りながら言った。


「だからって本当にえっちなことしたら、私にはそれ以上のことしないと許さないからね?」


 どうやら、あれは「許してやるが誠意は見せろ」という意味だったらしい。

 今更そんな理不尽を知らされ、結局はお姉さんに奉仕せざるを得なかった。


 かくしてリビングとお風呂と寝室で、何度もしつこく行為に及んだあと。

 僕はもう、文字通り精も根も尽き果て、ベッドの上へ気怠けだるく倒れ込んだ。

 ていうか頬にキスされただけ(しかも相手に不意をかれて)で、こうなるんですか。

 仮にそれ以上の何かがあったりしていたら、僕の身はどうなっていたんですかね……。



 僕が裸で寝転がるかたわらには、美織さんが同じように並んで横たわっていた。

 こちらへ一糸いっしまとわず身をり寄せ、満足そうな面持ちで寝息を立てている。


 その有様を薄暗い部屋の中で眺めながら、僕は改めて考えてみた――

 晴香ちゃんとの「お別れデート」を、美織さんはなぜ提案したのか? 


 お姉さんはこじらせているせいで、嫉妬深く、かなり独占欲も強い。

 僕との初恋がアラサーだったこともあって、自己肯定感は常々低い。

 にもかかわらず、晴香ちゃんに僕と出掛ける計画を持ち掛けたのだ。

 それがこの時点ではまだ、微妙に腑に落ちないような気がしていた。



 その疑問に関して、僕が自分なりの答えを得たのは、翌日のことだ。

 晴香ちゃんから、近々スーパー「河丸」のアルバイトを辞める、と知らされたとき。

 会話の中で「これからも『普通』で居たい」と伝えられた言葉に手掛かりはあった。


 ――もしかすると美織さんは、晴香ちゃんが「普通」を志向する子だと察していて。

 ――だから、恋人を奪うような恋愛はしない、と気付いていたんじゃないだろうか? 


 美織さんは、今回「お別れデート」を提案した意図について、晴香ちゃんが「ありふれた青春を望んでいたにもかかわらず、こじらせつつある」ことに同情したからだと説明していた。

 それは見方を変えれば、あの子が「普通」に執着している、と把握していたことになる。


 以前、皐月さんが美織さんのことを「消費者から好かれるものを斟酌しんしゃくする」能力については、まさしく天才的なイラストレイターなのだと評していたことがあった。

 つまり、美織さんはあまり「普通じゃない」から、「普通」ならば何を望むかを、的確に推察する感覚が優れている。きっと仕事だけでなく、日常生活においても。


 なので晴香ちゃんが、ありふれた青春を「お別れデート」で維持し得ることも、一方で片想いした異性を恋敵から略奪しようとまではしないことも……

 たぶん、直感的に理解していたんじゃないだろうか。


 僕に何度も浮気しないでとすがっていたぐらいだし、論理的に確信はしていなかっただろうとは思うけれど。それでも何となく、美織さんは「デート相手が晴香ちゃんなら大丈夫」だと、肌で感じ取っていたのかもしれない。


 あくまで憶測でしかないものの、あながち的外れな見立てじゃない、と僕は考えている。




     〇  〇  〇




 ところで「お別れデート」の件では、他に気を揉んでいた人物があと二人存在する。

 そのうちの一人は、逆に失恋を引き摺ったらどうするつもりだ、と思い出作りすることに懸念を示していた晴香ちゃんの友達――

 そう、明南高校の同級生であり、また「お菓子研究会」の成員メンバーでもある南野さんだ。


 友人の失恋が穏やかに着地した事実を知ると、やや意外に感じたみたいだったものの、素直に安堵の喜びを表明した。けっこう友達想いな子なんだよね。

 もっとも、デート一日で事態が収拾した点に関しては、不可解な印象がぬぐえなかったらしい。

 何かと僕のことを「どんな手を使ったんだ?」と、言外にいぶかしむような目つきで見てくるようになってしまった。おかげでこちらとしては居心地が悪い。



 その一方で、南野さんは九月から、スーパー「河丸」で新たな従業員として迎えられた。

 髪色を黒く染め直した努力が認められ、面接に無事合格して、正式採用となったわけだ。


 ……ただし、本人が希望したベーカリーコーナーではなく、レジ打ち担当として。

 何しろ晴香ちゃんが来月で離職するし、これは店の都合も踏まえるといたし方ない。

 まあ店側も優先的に募集していたのは、元々人手不足なレジ打ちだったからなあ。

 南野さんは内心不満だろうけど、店長の決定した方針には従わざるを得なかった。



 そんなわけで、学校の夏期休暇終了後の週明け以降。

 南野さんは、店内でレジカウンターに立ち、従業員研修を受けている。

 業務指導は晴香ちゃんが勤め、並行して仕事の引き継ぎも行っていた。


 南野さんがレジを打つ隣から、晴香ちゃんは適宜てきぎあれこれと指示出ししている。

 自分も同じ仕事をこなしつつだが、来店客を器用にさばく手並みはさすがだった。


「……おっ、お買い上げ、どうもありがとォーございましたぁ~っ!」


「もうちょっとしゃべり方、しゃきっとしなきゃ駄目だからねマリナ」


 南野さんのぎこちない接客のことも、晴香ちゃんは眉をひそめて注意していた。


「優美たちと遊んでいるときとは違うんだから。お客さんに失礼だよ」


「そ、そんぐらいわァーってる――じゃなくて、わかってるけど……」


 言葉遣いに指摘を受けて、南野さんは反論できずにしおらしく答える。

 こうして同級生をしかっている姿を眺めていると、やっぱり晴香ちゃんは真面目だなと思う。

 それにけっこう世話焼きでもあるよね。まあだからこそ、ずっと僕がフリーターを続けていることも気に掛けていてくれたりしたんだろうけど。


身形みなり言葉遣ことばづかいもちゃんとしてなきゃ、松田さんにだって振り向いてもらえないよ?」


「うっ……そ、そうかな……。仕事ができなきゃ、やっぱ気を惹くには厳しいかな……」


 晴香ちゃんが忠告すると、南野さんは急に弱腰になってもじもじしはじめる。

 そんな仕草が何やら凄く乙女っぽい。正直、勤務中には自重して欲しいけど。


 まあアルバイトをやる気になってくれるなら、とりあえず今は何でもいいか……。

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