第八章「お姉さんを好きになる理由」

55:お姉さんは新たな世界を開拓しはじめる

 僕に南野さんを紹介した翌日、晴香ちゃんは夕方からのアルバイトを休んだ。

 欠勤の連絡を受けた店長は、急に体調を崩したらしい、と理由を話していた。

 これまで二年余り店で一緒に働いてきたけれど、かなり珍しいことだと思う。

 松田さんをはじめ、少なくない従業員が突然の出来事に驚き、心配していた。


 晴香ちゃんが業務に復帰したのは、さらにその三日後だった。

 店に再び姿を現すと、皆に「休養中はご迷惑をお掛けしました」と頭を下げて回っていた。

 それからは以前までと変わらず……いや、これまで以上に真面目に仕事と向き合っている。

 ただしレジ打ちに戻ってからも、パートのおばさんたちは「まだ晴香ちゃんは顔色が少し悪いんじゃないか」と、本人の居ないところで眉をひそめて噂していた。



 そしてまた、僕と晴香ちゃんの関係について言えば――

 やはり、以前までとは明確な変化を感じないわけにいかなかった。


 例えば、バイトの休憩時間に食事するとき。

 これまで晴香ちゃんは控え室で、いつも僕が腰掛けている場所のすぐ隣に座っていた。

 ところが病欠から復帰して以後は、同じ長机の前に着席する際も、微妙に距離を取る。

「もう体調は良くなったの?」と声を掛けてみたりもしたけど、小声で「おかげさまで……」という答えが返ってきたぐらいで、以前みたいに会話が弾むことはなくなった。


 最近、互いのあいだにギクシャクした空気があったけれど、事態は殊更に悪化したようだ。


 現状を招いた原因は、やはり僕と南野さんに意外な接点があったことだろう……

 と、あの日の出来事を振り返ってみて、僕は少し考え直す。


 ――晴香ちゃんにとって、あれは本当に「意外な接点」だったのだろうか? 


 晴香ちゃんは、南野さんが僕に興味を示していたから引き合わせてみた、と言っていた。

 でも当の南野さんは、紹介されることに対して、それほど乗り気だったように思えない。

 ならば何か他にも目的があって、南野さんは僕のところへ連れてこられたのではないか。

 そうして他の目的というのは、僕と南野さんの接点を確認することだったのではないか。


 すなわち、


 ……さて、そこにはいったい、どんな背景があったのか。

 過去の様々な要素が思い浮かび、徐々に結び付いて、ある仮定へ収束しようとしていく。

 とはいえ結局、酷く馬鹿馬鹿しい話に感じられ、僕はその着想を頭の中から追い出した。


 ――そう。そんなことなんか、決してあるはずないよね。


 僕はこのとき、ある種の強い確信を持って、自らの憶測を否定した。

 のちにそれが少なくとも、真実の一部分だと判明するとは知らずに。




     ○  ○  ○




 かくして、お盆期間が終了し、八月下旬に差し掛かった頃――

 僕は、バイト先の状況に関して、過去にない居心地の悪さを感じていたんだけれど。

 そうした心理は日常生活の中でも、無意識に挙措から滲み出てしまっていたらしい。


 ある日の午後。雛番のマンションで、いつものように僕はキッチンに立っていた。

 留守中にお姉さんが食べる夕飯を、出勤前の時間を使って用意しているところだった。

 鍋をIHコンロで加熱し、中身の具材が煮込まれる過程を、ただぼんやり眺めている。


 すると、にわかに美織さんから優しく声を掛けられたんだよね。

 僕の様子が呆けているように見えて、心配してくれたんだろう。


「ねぇ裕介くん、どうしたの? 最近、少しぼうっとしていることがあるけど」


 このとき、美織さんはリビングでソファに座りながら、タブレット端末を触っていた。


 この頃のお姉さんは作画の内容によって、仕事部屋に引き篭もっていないことも多い。

 何でも最新型タブレット端末は随分高性能になっており、作画用アプリさえインストールしておけば、タッチペンで気軽に絵が描けるそうだ。仕事で取引先へ提出する水準の作業にも、充分耐え得るんだとか。低解像度のイラストやデザイン案程度なら、それで用が足りるみたいだ。

 なのでPCに接続した液晶タブレットと、持ち運び可能な端末とを使い分けているらしい。


「何か悩み事かな……。気になることがあるなら、私に話して聞かせて欲しい」


「……いや、別に悩み事っていうほどのことはないんだ。気をつかわせてごめん」


 美織さんは柔和に寄り添おうとしてくれたけれど、ひとまず今は遠慮しておいた。

 懸案事項の性質を勘案しても、あまり無駄に事情を打ち明けるのは気が進まない。

 何たって、問題の中心人物は「勤務先で一緒に働く年下の女子高生」だからなあ。

 そうと知ったら、お姉さんはどんな反応を示すだろうか。うーん、ちょっと怖い。


「でもいずれ本当に困るようなことがあったら、相談に乗ってもらうかもしれないけど」


「あはは、そっか。じゃあ辛くなったときは、またお姉さんが甘えさせてあげるね……」


 美織さんは、タブレットの画面から顔を上げると、穏やかに語り掛けてくれる。

 ダイニングカウンター越しに微笑まれ、ついいつものように見蕩みとれてしまった。

 やっぱりお姉さんは可愛らしくて、最高に素敵だなあ……。



 などと、密かに心の中でいっそう愛しさを募らせていたら。

 美織さんは、おもむろにタッチペンをテーブルの上に置いて立ち上がった。

 それからタブレット端末を抱え、キッチンの側まで早足で歩み寄ってくる。


「ところで裕介くん、いきなり話は変わるんだけど――」


 お姉さんが妙に真剣な面持ちで、タブレットをこちら向きに掲げてみせた。


「この衣装なんか、わりと可愛いと思うんだけどどう?」


 液晶画面に映っているのは、大手総合ネット通販会社の取扱商品販売ページだった。

 左側にサンプル画像が表示され、中央から右側にかけて商品情報が記載されている。



――――――――――――――――――――



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――――――――――――――――――――



 …………。


 本当にいきなり異なる話題の意見を求められ、正直ちょっと困ってしまう。


 実は、僕がバイト先の人間関係で気を揉んでいるのと、時期を同じくして――

 このところ、お姉さんはやたらとコスプレ衣装に興味を持つようになった。


 いやまあ、事態の端緒は明らかにわかり切っているんだけど。

 どう考えても先日、藤凛学園の制服を着て写真撮影したせいですよね。

 以来通販サイトを開いて、美織さんは特殊な衣服ばかり検索していた。



 ――恋人と同じ学校の制服を着用して、失われた青春に思いを馳せる。


 こないだ二人で制服写真を撮り合ったとき、そんないささか奇妙な体験を味わった。

 おまけに甘い雰囲気に流され、コスプレしたまま互いを求め合っちゃったんだよね。

 あのときの異質な状況が、どうやら美織さんには大変刺激的だったみたいだ。


「裕介くんのおかげでね、また新しい自分に出会えたんだろうなって思うの」


 美織さんは後日、何かを悟ったような目で、コスプレを述懐したことがある。


「君が居てくれなかったら、きっと一生知らないままだったことばかりだよ」


 ……それはひょっとすると、知らないままでかまわない出会いだったのではないだろうか。

 普通に皆が経験することでもないし、知らないままで不都合ないような。どうなんだろう。


 ただお姉さんが居てくれなきゃ、僕も一生知らずに過ごしたことではあると思う。

 コスプレする恋人を見るのは嫌かと訊かれれば、ちっともそんなことなかったし。




 一昨日の深夜なんか、美織さんがバニーガール姿になってくれて、メチャクチャ興奮した。

 いつの間にやら通販で専用の衣装(※バニースーツというらしい)を購入し、密かに披露する機会を窺っていたんだとか。びっくりしたけど、魅力的すぎて目が離せなかった。


「そのうち、バニーガールもイラストや漫画で描くことがあるかもしれないから……」


 美織さんは、そう言って恥じらいながらも、相変わらずデジカメをこちらへ差し出してきた。

「作画資料を収集するためにコスプレしている」という体裁ていさいは、かたくなに崩さないつもりらしい。


 写真撮影を済ませたあとは、またもや寝室で愛し合ってしまった。

 もちろん、あえて美織さんはコスプレ衣装を着替えたりはせずに。


 とはいえバニースーツの構造上、ずっと着用した状態じゃひとつになれない。

 そのため二人でつながる直前には、ウサギ耳のカチューシャや手首のカフスを除き、お姉さんは結局ほとんど全裸になる必要があったんだけれど。


 でもって行為中、背面のファスナーを下ろして脱衣を手伝った際には、本気で驚かされた。

 何しろ、衣装の下から露出した箇所は、半ば紐みたいなショーツでおおわれていたんだから。

 美織さんになぜこんな下着を穿いたのかを訊くと、赤面しつつも答えてくれた。


「一般的なバニースーツはハイレグだから。普通のぱんつだと、生地が脚の付け根から横にはみ出ちゃうの。それで布面積が少ないものじゃないと、不格好に見えちゃうから」


 いざ説明されてみれば納得するしかないものの、けっこう衝撃的な情報だった。

 しかも、この種の下着を女性が着用している光景を、初めて生で見てしまった。


 そのあと美織さんは、ベッドの上でつんいになり、腰を高く上げた。

 僕らは普段だと、あまり互いの顔が見えない姿勢で愛し合うことがない。

 でも、その日はお姉さんがバニー姿だったからか、動物的な衝動が胸の中に強く湧いていて、そうすることが二人共何となく自然な成り行きに思われていた。


 だから、僕は美織さんの腰を引き寄せ、背後から深くつながった。

 相互に相手を求めるたび、ウサギの耳が揺れる有様を眺めながら――……




 ……まあ、それはともかく。

 タブレット端末の画面から視線を上げると、お姉さんの様子を改めて窺った。

 枯葉色っぽい瞳をきらきらと輝かせ、期待に満ちた表情で返事を待っている。


 僕は、故意に咳払せきばらいしてみせてから、ひとまず気を落ち着かせて訊いた。


「ええっと。『どう?』っていうのは、これが作画資料としていいと思うかってこと?」


「……う、うん。それはもちろん、その通りなんだけどね。それとつまり、そのぅ……」


 美織さんは、歯切れ悪くつぶやきつつも、ちらっちらっと上目遣いにこちらを眼差す。

 その目つきが「もおぉ~言わせないでよ恥ずかしいからぁ~」と、言外に訴えている。

 なるほどこれはお姉さんもう駄目かもわかりませんね、残念ながら手遅れです。


 どうしたものかなあと少し迷っていると、美織さんは殊更に質問を重ねてきた。


「ひょっとして裕介くん、メイド服は黒より紺がベースでパフスリーブが良かった?」


「いや別に生地の色に執着とかないから。袖の形状もどっちがいいとかわからないし」


「じゃあ、もっと胸元が開いていておっぱいの谷間が見えるデザインが好みだとか?」


「なんで僕がそんなにメイド服のデザインにこだわりあるって誤解されているの!?」


「だとしたらロング丈のワンピース型より、ミニスカ型にして欲しいことなのかな?」


「だから特に要望とかないよ!! なぜ僕がミニスカートを推しだと思ったわけ!?」


「それはだって、ガーターニーソと組み合わせられるし、え、えっちするのも楽かと」


 ひたすらツッコミ入れ続けたら、お姉さんはくねくねと身をよじりはじめる。

 ていうか結局、資料収集以外の目的に自ら言及しちゃったよ。駄目すぎる。


「……それとも裕介くんって、根本的にメイドさんより巫女さん派だったのかな……」


 美織さんは、尚もぶつぶつとひとちながら、リビングのソファまで引き返していった。

 あれこれやり取りしたにもかかわらず、全然意思の疎通が得られたように感じられない。


 その後は気を取り直した様子で、タブレット端末でラフ画制作を再開していた。

 今月発売の雑誌向け素材は納品を済ませたらしいけれど、来月ソーシャルゲームで実装される新キャラクターのイラスト案を提出しておかなきゃいけないんだとか。

 ライトノベルの挿絵依頼も来ているみたいだし、何かと忙しそうだ。

 メイドとか巫女とか、えっちなこと考えて悩んでいる場合じゃない。



 ちなみに「ファンタジー要素がある学園ラブコメ漫画」の仕事に関しても、美織さんは出版社に挑戦したい意向を伝えたので、少しずつ準備が進んでいるようだ。


 もっとも漫画連載を持つまでの過程は、イラストの仕事を請けるのと随分勝手が違うらしい。

 相手方から持ち掛けられた企画なので、投げ出さない限りポシャることはなさそうだけど――

 原作者さんが考案したストーリーと、それを元にして美織さんが描いたキャラクターデザイン及びネームに対し、編集部内の会議でゴーサインが出なきゃ雑誌掲載が決定しないという。

 それゆえ仕事として正式な出版契約を締結ていけつすることになるのも、そのあとになってから。


 現時点では、まだ「ライトノベル作家でもある原作者さんがストーリーや設定の叩き台を提出して、美織さんがそこに意見を出しながらキャラ原案のラフを試作し、担当編集者さんをあいだに挟みながら皆でり合わせしている……」という段階みたいだった。

 企画内容は、今後二ヶ月ぐらい掛けて練り上げる予定なんだってさ。


 うーん、どうやら先の長そうな話だ。まあ、最初から来春の雑誌リニューアルに合わせて掲載を目指すって話だったし、何となく察しは付いていたけど。

 たしか美織さんも「年内いっぱいは仕事の予定が埋まっている」って、皐月さんに言っていたもんな。あれは漫画の依頼を引き受けるより以前のことだ。

 その辺りの都合も踏まえれば、まだしばらく本格的な漫画制作には取り掛かれないんだろう。



 ただいずれにしろ僕らの身の回りで、徐々に色々なことが動きはじめている。

 美織さんの仕事はもちろん、バイト先での晴香ちゃんの件なども含めて……


 それを僕は曖昧あいまいな気配じゃなく、今たしかな現実として感じ取っていた。

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