56:お姉さんを誤解している肉食ギャル
今年の八月も、残り一週間と少しで終わる。
それはすなわち、暑い夏の日々が過ぎ去りつつある、ということであり――
中高生にとっては、長期休暇の終わりが近付いている、ということでもある。
バイト先における晴香ちゃんとのぎこちない関係は、いまだ修復できそうな見込みがない。
むしろ「もう二度と元に戻らないのではないか」という、漠然とした想像さえ働いている。
それは無根拠な予感だけれど、現状には好ましからざる
少なくとも従業員控え室で一緒に過ごす際には、ずっと奇妙な居心地の悪さを感じている。
かくいうわけで、その日も気まずい休憩時間が終わった。
晴香ちゃんは、逃げるように控え室を出て、レジ打ち業務に戻っていく。
それを
休憩前から引き続き品出しに取り組み、レトルト食品や飲料を商品棚へ順に並べる。
その次は、いつも通り菓子類を売り場まで運んで、手早く陳列作業を進めていった。
チョコレート、グミ、キャンディー、ガム、クッキー、ビスケット、スナック……
……と、食玩入りラムネ菓子の陳列を済ませたあとのこと。
僕は、入荷した商品が乗った台車を押しつつ、隣の棚まで移動しようとした。
その際、菓子コーナーの隅を振り返ったら、不審なものを発見してしまった。
なんと特売品が並ぶ平台の物陰に
レース仕立てのキャミソールと
入念なメイクが
たしか明南高校に通う晴香ちゃんの友達で――
そうだ、名前は南野麻里菜さんだったかな。
いったい、あんな
僕は、台車を押すのを止め、その場で制止した。ひとまず南野さんの挙措を窺ってみる。
どうやら目の前の通路を挟んで、その先に位置する売り場の区画を眺めているみたいだ。
眉根を寄せた面差しは、真剣そのものだ。凶悪犯を見張る刑事の如く、眼光も鋭い。
そんな有様を目の当たりにすれば当然、南野さんの見詰めている対象が気になった。
平台の裏から眼差している方向をたどって、視線が注がれている事物が何かを探る。
そこに見て取れたのは、店内のベーカリーコーナーだった。
――そういや、南野さんはここの店のパンが好きで、バイトしたがっているんだっけ。
以前に晴香ちゃんから教えられた話を、ようやく思い出す。
ベーカリーのショーケース越しには、主任の松田さんが働いている様子が覗いていた。
それをさっきから片時も目を離すまいと観察しているらしい、と僕はやっと理解した。
まさかスーパーでパン類を販売する業務について、そこまで関心があるのかこの子は。
たしか頭髪を染めているせいで、まだバイトの面接は受けていないんだっけ。
すでに舟木店長には本人の希望が伝わっている、とも聞いた気がするけれど。
だが「髪の色を戻すために行きつけの美容院へ行こうとしたものの、お盆期間後の混雑で予約がなかなか取れず、応募条件を満たせないまま現在に至っている」って話だったかな……。
もしそれで
「え、えっと。こんばんは、たしか南野さんだよね?」
僕は、ちょっと
先日紹介されたばかりの相手だし、無視するのも
「そんなところでしゃがみ込んだりして、どうしたの」
ベーカリーコーナーを注視しているのは察しが付いていたけれど、念のために訊いてみる。
南野さんは、ぎくりとした様子で僅かに肩を震わせ、こちらを警戒するように振り返った。
それから、身を屈めたままの姿勢で僕の顔を見ると、安堵したらしく呼気を深く吐き出す。
「……なんだ、誰かと思えばハルカのバイトパイセンかァ」
気怠そうに言うと、南野さんは再び視線をベーカリーコーナーへ戻した。
こちらの挨拶に対しては、まともに返事しようとする素振りが見えない。
んん? なんか僕って、この子に嫌われるようなことしたっけ?
……こないだ紹介された日のことを、ちょっと思い出してみる。
そう言えばあのとき、去り際に一瞬
思えば晴香ちゃんとも、あのときを境にギクシャクしはじめた。
何が原因かはよくわからないけれど、やはり最近友達と良好な関係じゃない相手だからって、敬遠されているんだろうか。
何はともあれ、この子に関して不明な点は他にもある。
まずはなぜ、僕に向かって珍妙な呼び方をするのかだ。
「いやあの、僕がバイトパイセンってのはいったい何なの」
「ハルカのパイセンなんでしょォー、ここのバイトでさァ」
「
「じゃあ『
「むしろ何が何なのか、ますますわからないんだけど!?」
「だってェイルカ見てたじゃんかァ、水族館で楽しそうに」
半ばツッコミ入れるようにして質問を重ねると、南野さんはうざったそうに言った。
あの日のイルカショーを同じ会場で観覧していたこと、この子も気付いていたのか。
知り合いらしき男性と談笑していたから、こちらは見られていないと思っていたよ。
ていうか、水族館の件があるからイルカパイセンなのはいいにしても(よくないけど)。
「騙されやすい」っていうのは、何の話なの。いつの間にか誰かに騙されていたっけ僕?
……まあいいや、女子高生と雑談している場合じゃない。
勤務中なんだから、真面目に仕事の続きをこなさなきゃ。
僕は、すぐ傍らの棚に向き直ると、台車に積んだケースの中から商品を取り出す。
カップ容器入りのポテトスナックを、味付けの種別毎に空いている箇所へ詰めた。
一ダース分補充したあとは、棚の段を移して、新たなスナック菓子を並べていく。
作業の途中で、再度ちらりと平台側を見た。
南野さんは、いまだにベーカリーコーナーに熱視線を送っている。
相変わらず表情は険しく、鬼気迫るものを感じてしまうなあ……
って、ショーケースにパンを並べる仕事とかって、そんな顔付きで眺めるものだろうか。
いくらこの店の商品に思い入れがあるにしろ、何かおかしい。さすがに違和感を覚える。
「ねぇ南野さん。本当にそんなところで、君は何をしているの……?」
「うるさいなあ。ちょっとパイセン、かまわないで欲しいんだけどォ」
同じ問い掛けを繰り返してみたものの、南野さんは不機嫌そうにそれをあしらう。
それにしても今更だけど、もう僕との会話で敬語とか使う気なさそうだなこの子。
「この状態で松田サンに見付かったらアタシ、変な子だと思われちゃうじゃん」
「今すでに僕は君のことを、かなり変な子だと思いはじめているところだけど」
「は? 騙されやすい変な趣味の人に言われたくねーんだけどォ。マジキモい」
ちょっと
おやまあ、どう見ても陽キャっぽいのにまさか冗談通じないタイプなの南野さんって。
ていうか騙されやすいって本当に何。あと僕は君に趣味の話なんてした覚えないけど。
ただとりあえず、なんか僕がこの子からあまり好かれてないっぽいのはわかった。
嬉しくもない知見を得たので、再び品出し作業に戻るために平台側へ背を向ける。
そうした態度を取ることで、僕は不毛なやり取りを打ち切ったつもりだった。
だが、その直後。
背後から「う、うわああぁ……ッ!!」という、悲痛な
押し殺したような声だったけれど、間違いなく南野さんが発したものだった。
今度は何事かと、若干
南野さんは、大きく見開いた目を血走らせ、やや平台の裏から身を乗り出している。
またもや釣られてそちらを見ると、松田さんが女性従業員と何やら言葉を交わしていた。
「くっそ、ざけんなあの女めェ。アタシの松田サンとあんな仲良さそうにしてさァ……」
南野さんは、親指の爪をがりがり
何やら意味不明だけど、松田さんの話相手のことがお気に召さないらしい。
あの女性はベーカリー担当のアルバイトで、女子大生の氷川さんだな。
「――うっ、ああっ。何話してんだよォあいつ、松田サンと無駄にイチャイチャすんな」
「いや単に業務内容について、松田さんが指導しているだけだと思うけど。主任だから」
「アンタの意見は訊いてない。何もないと思ったって、わかんないでしょォ」
「わかんないって、いったい何のことなの。こっちがちっともわからないよ」
「松田サンってイケメンだし、あの氷川とかいう女に
げんなりしてたずねると、南野さんは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
でもって屈んだ姿勢のまま、またまたベーカリーコーナーの方へ向き直る。
「ねぇ松田サンって
……松田さんに対する好意を、唐突に表明されてしまった。
まあ正直言えば、大した驚くに値する情報でもないけれど。
松田さんは、背の高い
スーパー「河丸」平伊戸店の従業員のあいだでは、誰もがそれとなく知る有名な話だ。
それでこの子は、松田さんと氷川さんが親しそうにしているのを気に入らないんだな。
南野さんは「あと言っとくけどォ」と、続けて注文を付けてきた。
「アタシが松田サン狙ってること、ハルカ以外の人間に
「そんな釘を刺されなくても、他人の恋愛を周囲に言い触らす趣味はないよ」
「ふん……。まあアタシがいずれ店の面接受かったら、信用してあげるわァ」
不快そうに鼻を鳴らしつつ、尚も南野さんはベーカリーコーナーを眺めている。
松田さんと氷川さんの一挙手一投足を、このまま目で追い続けるつもりらしい。
そのとき、僕は不意に疑問の答えを得てしまった。
――もしかすると、さっきからベーカリーコーナーを監視しているの……!?
あり得ない話じゃない……というより、おそらく状況的にそれ以外とは考えられない。
松田さんと氷川さんが親密な行動に及ばないかを、南野さんはここから見張っているんだ。
いくらパン好きだからって、ずっと仕事の様子を眺めているだなんておかしいと思ったよ。
しかし真相はそれとわかってみると、逆にメチャクチャ怖い。半ばストーカーでは?
うーん。こうした背景を踏まえると、この子がアルバイトをはじめようとしている動機って、想像していたほど純粋なものじゃなさそうだなあ……。
実はむしろパンそのものより、パンを作っている松田さんに対する興味が強いみたいだ。
面接前にそれが店側に伝わると心証が悪いから、僕にも口外するなと迫ったんだろうし。
もっとも、ここの店のバイトは応募さえすれば、きっと採用されると思うんだけどね。
適当に
希望通りにベーカリーコーナーへ配属されるかはわからないけど。
何しろスーパー「河丸」って、基本的に人手不足らしいからなあ。
「ところで南野さんって、今日はベーカリーコーナーでパンを買ってこないの」
僕は、袋詰めの米菓を棚に並べながら、素朴な疑問を投げ掛けてみた。
「いっそ買い物してくれば、松田さんとも直接やり取りしたりできるだろうに」
「もうさっきベーカリーに寄ったし、とっくに買ったに決まってんでしょォが」
もう何度目かわからないけど、南野さんから怒気を含んだ答えが返ってくる。
品出し作業で平台に背を向けていても、明らかに「馬鹿にしたこと訊くな」と言いたげな気配が伝わってきた。片想いの相手を監視する乙女にとっては、愚問だったようだ。
「おまけにパンが詰まった買い物袋を抱えて、いっぺんスーパーの外へ出るところまで松田さんには見られちゃってんのォ。なのにアタシがここへ戻ってきてるのが知られたら、どう考えても怪しまれるじゃん。だから隠れて見張ってるってわけ」
とりあえず、松田さんと氷川さんの様子を注視していたことはたしからしい。
ちなみに購入したパンはどうしたかについて訊くと、南野さんは「店の駐車場で頑張って全部食べた」と平坦な口調で言った。目的のためにそこまでするの……。
「ていうか氷川さんがシフトの日は、まさか毎回二人を見張るつもりなの君は」
「さすがにそこまではしないけど。まだ店まで頻繁に通える余裕もないしさァ」
南野さんは否定したものの、いずれ可能になれば実行するかの
アルバイトで採用された際の交通費を当てにしているんだろうなあ。凄い執念だ。
しかし今夜はひとまず、午後九時半頃には店を出て帰ってくれるだろう。
晴香ちゃんに限らず女性従業員は皆、深夜時間になるより先に退勤する。
氷川さんがベーカリーから離れれば、こそこそ監視を続ける意味もない。
片想いしている松田さんのことは、いくらか気になるかもしれないけど。
「何にしても、あまり夜遅くならないうちに帰りなよ。女の子なんだから」
僕は、チョコスナックの袋を棚に詰めると、南野さんに注意した。
台車を押して、他のコーナーの作業に取り掛かるために移動する。
そろそろ菓子類の補充を終わらせ、日用雑貨も品出ししなくちゃ。
「それから平台の上にある売り物も、無駄に触って崩したりしないように」
ここの平台で特売品を陳列したのって、実は僕なんだよね。
形状が異なる商品のパッケージを見栄えよく積むのには、けっこう苦労した。
しかもPOPは閉店後に店長と残業して、PCの表計算ソフトで作ったんだ。
まあ、その日のバイト代には、ちゃんとそのぶん深夜手当も付いたんだけど。
「ほんとウザいなァ……。わぁーったから、さっさとあっち行けっつーの」
南野さんは、身を屈めてベーカリー側を眼差したまま、
片手をひらひらと
まったく、どうしようもないなあ。こういうのも一種の営業妨害だと思うんだけど。
とはいえ迷惑客に対応するのは、品出し担当従業員の業務範囲外だし、仕方がない。
僕は、
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