54:お姉さんと僕を知る意外な誰か

 今年のお盆期間は、九連休の企業が少なくないという。

 八月第二土曜日からはじまって、第三月曜日まで休み、というパターンが多いようだ。

 もっともスーパー「河丸」平伊戸店に関しては、そのあいだも平常通り営業を続ける。

 それは同時に従業員にとって、期間中は不規則な勤務体制が続くことも意味していた。


 取り分け僕はフリーターなので、他の学生アルバイトやパートのおばさんより、出勤日が幾分多めに割り振られていた。時間の融通が利きやすい立場だし、まあ当然の措置だと思う。

 むしろ舟木店長からは「労働時間に応じて稼ぎは多くなるわけだから、小宮くんも喜んでいるだろう」と思われている節があった。



 とはいえ僕個人は歓迎しても、美織さんには好ましい話じゃないかもしれない。

 まず第一には、単純に同棲相手と一緒に過ごせる時間が減ってしまうわけだし。

 それに何より僕が留守のあいだ、お姉さんは家事の手間が増えちゃうんだよね。


 でもってイラストの仕事をはじめると、お姉さんは周囲が見えなくなるんだよなあ。

 そのまま一人にして放っておいたら、相変わらず何時間でも絵を描き続けてしまう。

 あるときも僕が昼シフトで出勤していると、雛番に戻ってくるまで飲まず食わずで仕事部屋に引き篭もっていた。特異な集中力には常々驚かされるものの、呆れずに居られない。


 いったい美織さんは一人暮らしだった頃、どういう日常を送っていたんだろうなあ……。

 とにかくお盆が過ぎるまでは、僕が傍に居ないときも人間らしい生活を維持して欲しい。



 まあそんなわけで、八月中旬の暑い最中。

 僕は約一週間、雛番のマンションよりも、平伊戸のスーパーでもっと多くの時間を過ごした。

 そうして、あとになってから気が付いたんだけど……それはバイト先の後輩である晴香ちゃんと、普段より多くの時間を同じ場所で過ごすことでもあったんだよね。


 ただし、互いに顔を合わせる頻度は増しても、案外会話が弾むことは少なかった。

 お盆期間に入って以来、晴香ちゃんとのやり取りには奇妙なぎこちなさを感じる。


 例えば、ある日のバイトで休憩時間に従業員控え室へ戻ったいたとき――

 いつもと同じように二人で食事していても、何となく様子がおかしかった。


「そう言えば晴香ちゃんは夏休みでも、バイトのシフトを随分多めに入れているんだね」


 僕は、惣菜そうざい弁当のカルビ焼肉をかじりながら話し掛けた。

 学校が長期休暇に入ってからも、晴香ちゃんの出勤日はちっとも減っていない。

 むしろ僕と同程度にシフトが詰まっていて、平時より多く働いているぐらいだ。


 晴香ちゃんは現在、高校三年生。

 ならば少なくとも、今年は高校生活で最後の夏休みのはずなんだよね。

 そんな貴重な季節を、地元のスーパーでアルバイトして過ごしている。


 この子がどんなかたちで青春を送ろうと、もちろん僕に口出しする権利はない。

 しかし現状の日々が何となく、晴香ちゃんには不似合いな夏休みに感じられた。


「もう今はお盆だけれど、どこかへ遊びに行ったりする予定はないの? 海とか山とか」


「……ありませんねー。一応、親戚の家には挨拶に行って、お墓参りしてきましたけど」


 素朴な疑問を投げ掛けてみると、晴香ちゃんは微妙な間を挟んでから答えた。

 なぜか今一瞬、険のある視線を向けられた気がするけど、どうしたんだろう。


 それはともかく、やっぱり特段行楽の予定などはないみたいだ。

 改めて憶測通りとわかっても、ちょっと意外な印象があるなあ。

 晴香ちゃんは、明るく社交性もあって、学校の友達も人並みに居るはず。

 なのに誰からも遊びに誘われていないっていうのは、不思議な気がする。

 いやまあ、僕の先入観で決め付けるようなことじゃないんだけれど……。


 なんて、心の中で少しだけ不可解さを感じていると。

 晴香ちゃんからも、同じように予定を訊き返された。


「先輩の方こそ、夏場になってもどこかへ出掛けたりしようと思わないんですか」


「まあ僕は元々、普段から休みの日もあまり外出しないし。以前にも話したけど」


 僕は、肩をすくめて、笑ってみせる。

 他愛ない世間話のつもりでやり取りしていたからだ。


 ところが、いきなり晴香ちゃんは食い下がってきた。

 これまた思い掛けない反応なので、少し驚かされた。


「でも『折角の夏なんだし、何か思い出を作りたい』とかって考えたりはしないんですか」


 晴香ちゃんは、こちらをじっと覗き込んでくる。

 薄墨色の瞳の奥には、とても深く、透明な光がたたえられていた。

 何かを真剣に祈りながらも、同時におびえるような気配がうかがえる。

 その綺麗な目に見据えられ、僕は訳もなく狼狽うろたえそうになった。


「そういうのも普通なら、あるんじゃないかなって。そう、身近な誰か――あ、いえ……」


 晴香ちゃんは、尚も問い掛けつつ、しかし途中で小声になって言いよどんだ。

 そうして、不意に誤魔化ごまかすような咳払せきばらいを挟んでから、言い直して続ける。


「あくまで一般論ですけど。先輩もたまには息抜きしたくならないのかな、って」


「……それはそのまま、晴香ちゃんにも当てまる話なんじゃないかと思うけど」


 努めて柔らかく言い返したら、晴香ちゃんはちょっと言葉に詰まって目を伏せた。

 三秒余りの間を置いたあと、やや沈んだ調子で「まあ、そうなんですけど」とつぶやく。

 それから、いつものようにベーカリーコーナーで購入した菓子パンに噛り付きはじめた。



 ……こんな会話を交わした日には、休憩中の控え室に微妙な空気が漂ってしまう。

 さて、いったい何が原因で、晴香ちゃんとギクシャクするようになったんだろう。

 あれこれ密かに考えてみたものの、明確に断定できる問題が思い当たらない。

 僕は、どうしていいかもわからず、現状をやり過ごすことしかできなかった。



「――やっぱり、どうにかしてはっきりさせた方がいいのかな」


 だから、このとき晴香ちゃんが独りちていたことの意味も、全然把握できていなかった。




     ○  ○  ○




 やがて八月も、お盆期間が終了する第三月曜日に至った。


 あとになって振り返ってみれば――

 この日の夜、まさしく「転機」と位置付けられる出来事に遭遇していたんだな、と思う。

 僕と晴香ちゃんの関係性は、ここを境にして引き返しようもなく変化してしまったんだ。



 休憩時間に夕食を済ませると、その後は再び品出し業務に戻った。

 売り場とバックヤードを往復し、台車で運んだ商品を並べていく。

 レトルト食品と飲料を補充して、次はチョコレート菓子の陳列に取り掛かった。

 普段通りの手順で、商品棚の端から所定の位置を確認し、素早く作業を進める。


 淡々と仕事に従事しているうち、しばらくして時刻が午後九時半を過ぎた。

 台車に積んだ品物を取り出そうとした際、付近の通路が視界の片隅に映る。

 そこに女の子の姿があった。それも二人だ。

 並んで歩きながら、こちらへ近付いてくる。


 一人は見慣れた相手で、晴香ちゃんだった。

 そう言えば高校生アルバイトだから、もう終業時刻なんだよね。

 店の制服から着替え、涼しげで可愛らしい私服姿になっている。

 今夜も退勤前の挨拶に来てくれたのかな。


 もう一人は……うーん、誰だろう? 

 ぱっと見た限りの印象じゃ、そっちの子も高校生みたいだけど。

 やはり夏らしい服装だけど、晴香ちゃんより派手な雰囲気だな。

 特に髪の毛なんか、明るい蜂蜜色に染めちゃってるみたいだし。



 思わず作業の手を止め、通路側を振り返った。何だか妙な胸騒ぎがする。

 女の子たち二人が歩み寄ってくるのを、僕は半ば放心のていで眺めていた。


「――お疲れ様です、先輩」


 すぐ傍まで来て立ち止まると、晴香ちゃんが声を掛けてきた。

 いつになく、やけに硬い口調だった。面差しにも笑顔はない。

 僕は、ひとまず気を取り直し、ひと呼吸挟んでから返事する。


「晴香ちゃんも、お疲れ様」


「あの、唐突なんですけど」


 挨拶が済むとすぐさま、晴香ちゃんは用件を切り出してきた。

 どうやら、ただ退勤前に顔を見せに来ただけじゃないらしい。


「こっちの子はあたしと同じ学校に通う友達で、南野麻里菜っていいます」


 晴香ちゃんは、片手で隣を示して、連れてきた女子高生を紹介する。


 うながされてそちらを見ると、髪の毛を蜂蜜色に染めた派手な子――

 南野さんは、軽く会釈しながら「……どうも」と、小声でつぶやいた。

 なぜか当惑したような表情で、メイクを施した瞳にも落ち着きがない。


 いささか面食らって、僕は目を白黒させるしかなかった。

 晴香ちゃんは、こちらの反応を窺いながら、先を続ける。


「以前にこの店のパンが好きだって言っていた子のこと、覚えてますか?」


 たしかめるように問われて、僕は先日のやり取りを思い出した。

 そういや、こないだ晴香ちゃんからそんな話を聞かされたっけ。

 高校の同じ部活の友達で、ベーカリーコーナーの商品が気に入っている子が居るとか。

 晴香ちゃんの紹介するところによれば、この子が件のパン好き女子高生みたいだった。


 何となく、僕が頭の中で勝手に想像していたような女の子とは違ったな。

 スーパーで売っているパンが好きだなんていう女子高生は、もっとこう……

 上手い表現が思い浮かばないけれど、素朴なタイプの子だと思っていたよ。



 まあ差し当たり、南野さんという女の子が何者なのかはわかった。

 しかし判然としないのは、この子をわざわざ僕に引き合わせたようとした理由だ。

 どういうことかと怪訝けげんに思っていたら、晴香ちゃんは再びきょく言葉を発した。


「実はマリナに先輩のことを話したら、この子も一度会ってみたくなったらしくて」


「……あの、えっと。こちらの、南野さんだっけ――彼女が、僕に会いたいって?」


 びっくりして訊き返すと、晴香ちゃんは静かに首肯する。


「はい、そうです。だから仕事が終わる頃を見計らって、お店に来てもらいました」


 謎が解けたら、また次の謎を提示された気分だった。

 むしろ、余計にわけがわからなくなって、ますます混乱してくる。

 女子高生二人のあいだで、どんなやり取りが交わされたんだろう? 


「あっ、いやー。その、会ってみたくなったってのには、何も特別な意味はないんでェ!」


 懐疑の念を強めていると、南野さんが慌てた様子で声を上げた。

 かすかに額に汗が滲んでいて、言い訳するような口振りだった。


「いつもハルカがお世話になってるパイセンだっていうから、どんな人なのかなァと……」


 あくまで純粋な好奇心で気になっただけなんですゥ、と強調してくる。

 僕は、やっぱり何となく不審だな、と思った。たとえ仲がいい友達の話に登場する人物でも、単なるアルバイト先の従業員と会ってみたくなったりするものだろうか。

 とはいえ「はあ、そうなんだ」と、胡乱うろんに感じつつも応じるしかない。



 ……それにしても、この南野さんっていう女の子だけど。

 何だかよく見てみると、不思議な気配のある女子高生だ。


 派手な容姿になぜか引っ掛かりのようなものを感じるというか――

 そう、これが初対面じゃないみたいな、既視感きしかんみたいなものを覚える。

 でも僕には、星澄市内にアルバイト以外で高校生の知人なんて居ない。

 にもかかわらず、なぜこんな感覚を抱いてしまうんだろう。


 なんて首を捻っていたら、南野さんがこちらへ向き直って眉根を寄せた。

 そのまま少し前へ身を乗り出し、僕の顔を正面からまじと凝視してくる。


「――んんっ? あれ、でもなんか……お兄サンって、どこかで会ったことがあるような」


 なんと相手に既視感を覚えているのは、南野さんも同様らしかった。

 こうなると、過去にどこかで互いを見知っていた可能性が出てくる。

 さあ、ならばいったい、いつどうやって面識を得たのだろうか……



 と、不意にそのとき。

 南野さんの髪がひと束、襟足から肩の上へ落ちて掛かった。

 長くてちょっと癖のある、鮮やかな蜂蜜色に染めた髪の毛。


 今一度それを見て、ようやく僕はふっと思い出した。


「ねぇ南野さん。もしかすると君って先月、新冬原へ出掛けたりしなかった?」


「……あああああ――っ!! まさか水族館の近くでぶつかった人――っ!?」


 試しに問い質してみると、南野さんは驚愕の面持ちで叫んだ。

 思った通りだ! 特徴的な蜂蜜色の髪は、見紛うはずもない。


 七月第三日曜日、バイトを休んで美織さんと新冬原までデートへ出掛けた日のこと。

「星澄ルーセント水族館」前の路上を歩いていたら、雑踏でぶつかった女の子が居た。

 あのときのギャル系女子高生こそ、今目の前に立つ南野さんだったんだ。

 いやはやまさか、その子が晴香ちゃんと高校の同級生だったなんて……

 まったく世間は広いようで狭い。



 僕は、僅か四、五秒程度だけれど、驚きの余り呆気に取られてしまった。


 直後に我に返ったのは、晴香ちゃんの様子がおかしいと気付いたからだ。

 普段と異なる気色を感じ、かたわらを振り返って何事かと表情を窺ってみる。

 小作りで可愛らしい顔は、血の気が引いて蒼褪あおざめ、唇が震えていた。

 あたかも幽霊と出くわしたみたいにおののいた目で、こちらを見ている。


「あ、あのっ。せ、せんぱい――」


 晴香ちゃんの口から、切れ切れの呼気と共に言葉が漏れた。

 酸欠で藻掻もがきながら、尚も必死に絞り出したような声色だ。


「あたし、失礼しますっ……!!」


 それだけ告げると突然、晴香ちゃんは微妙に身を縮めるような姿勢で駆け出した。

 スーパーの出入り口側へ向かって、買い物客のあいだをすり抜けながら立ち去る。


「ちょ、ねぇ待ってよハルカ!!」


 それを見て、南野さんも同級生に呼び掛けながら走り出した。

 慌てたようにあとを追いつつ、途中でこちらを一瞬振り返る。

 どういうわけか僕を見る目つきは鋭く、非難するようだった。



 僕は、どうすることもできず、女子高生二人が走り去る有様を見送ることしかできなかった。

 そもそも何が起きているかさえ判然としておらず、事物の因果関係も正しく理解していない。


 目まぐるしく繰り広げられる展開の中で、辛うじてわかったのは――

 この場を離れようとするとき、晴香ちゃんの姿が酷く悲痛そうに見えたことぐらいだった。

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