53:お姉さんと高校生活を夢見てみる

 僕は、ワイシャツをはだけさせたままの恰好で、思わず身体を硬化させた。

 不条理に直面した緊張感で、心なしか息が苦しい。手のひらにも汗が滲む。


 しかしながら美織さんは、こちらへ変わらず期待の視線を送っていた。

 枯葉色っぽい瞳の奥には、無邪気な感情が満ちているみたいに見える。

 それは透明で、子供のように純朴な……変態的な欲望だったと思う。


 そうして、たとえ変態的でも恋人から求められれば、やはり期待は特別なものだ。


 ――お姉さんが望む願いを、僕はあくまでこばむのか? 


 戸惑いは一瞬で、すぐさま心の中には拒めるわけがない、という答えが出ていた。

 だって、これまで幾度となく「大好きなお姉さんのためなら何を捧げても惜しくはない」と、考え続けてきたはずじゃないか……ッ!! 



 僕は、ベルトの金具を外し、着衣の下腹部にあるファスナーを下げた。

 スラックス前面の隙間から、トランクスの生地が僅かに覗いて見える。

 いったい自分は何をしているんだろう。頭がおかしくなりそうだった。


 美織さんは、やたらと興奮した様子で、写真撮影を再開する。

 額に汗を浮かべて呼気を荒げ、肩をかすかに上下させていた。


「うっ、ううっ。ありがとう……ありがとう裕介くん、君のぱんつにありがとう……」


 感極まったようなかすれ声をしぼり出しながら、お姉さんはシャッターを切り続けている。


 僕は、そのまましばらく心を虚無にし、被写体モデルの役割を果たすしかなかった――……




     ○  ○  ○




「裕介くんも協力してくれたおかげで、これなら作画資料に当面不自由せずに済むよ」


 写真を一頻ひとしきり撮影し終えると、美織さんはすっかり幸福そうな笑顔で言った。

 寝室のベッドへ腰掛け、手元のデジカメに保存された画像をたしかめている。

 尚、僕もお姉さんも藤凛学園の制服を着用したままで、まだ着替えていない。


「そ、そうなんだ。美織さんに喜んでもらえたのなら、本当によかった。僕も嬉しい」


 僕は、着衣の乱れを直し、ベッドの隣に並んで座った。

 安堵と虚脱が心の中で混ざり合って、溜め息が漏れる。


「正直途中から、ぱんつの見える写真撮られたりするのが恥ずかしかったけど」


「あはは。ぱんつを露出して恥ずかしかったのは、私もお相子あいこってことで……」


 美織さんは、自分も照れ臭そうに笑って、なだめようとしてきた。

 そんなふうに取りつくろおうとしてくるのは、まあおおむね想像通りの反応だよね。

 ただし次いで付け加えられた一言には、幾分畏怖いふを抱かざるを得なかった。


「それに裕介くんの写真なら、ぱんつの下まで露出したのも持ってるからね私」


「……何ですとぉ!? ぱっ、ぱんつの下までというと、それってつまり――」


「以前言ったよね? 夜中にえっちしたあと、全裸写真を撮ったことあるから」


 ……そう言えば聞いた気がするなあ、そんな話! 

「万一別れ話を切り出されたときの保険」として、撮影しておいたとか何とか。

 まだあれ、保存してあったんだ。お願いだから削除してもらいたいんだけど。


「大丈夫だよ安心して。今のところはあの写真、まだネットの海に放流したりしていないし」


「いや今のところだけじゃなく、未来永劫えいごう絶対に流出させたりしないで欲しいんだけど!?」


 ごく自然な調子でお姉さんが怖いことを言うせいで、慌てて抗議せずに居られなかった。


 ていうか、もしかして今日の写真撮影でも、僕は危険な素材を提供してしまったのでは。

 ちょっと背筋が寒くなった。作画資料以外の用途に使わないでくださいよあれもこれも。



「それにしてもブレザー制服姿の裕介くん、やっぱりメチャクチャ可愛いなぁ~!」


 美織さんは、デジカメの背面液晶へ視線を戻し、再度写真を眺めて喜んでいる。

 余程上機嫌らしく、笑みが絶えない。子供みたいに無邪気なはしゃぎ方だった。

 作画資料が充実したことで、そこまで嬉しいのかな……

 と思っていたら、ちょっと意外な言葉が発せられた。


「好きな男の子が高校の制服を着ているところ、ちゃんと見る機会があって嬉しい」


 恋人の心情を咄嗟には把握し損ね、僕は「……え?」と短い疑問の声を漏らしてしまった。

 お姉さんは顔を上げて、こちらへ向き直る。いまだに笑顔だったけれど、枯葉色っぽい瞳の中には、ほのかな羞恥しゅうち寂寥せきりょうのようなものが見て取れた。


「本当に私って、中高生の頃から来る日も来る日もオタクなことばかりしてきたの」


 美織さんは、デジカメをベッド脇のテーブル上へ置きながら、穏やかにつぶやく。


「だからもう、好きな男の子と同じ制服を着られるなんて思ってなかったんだ……」



 そこまで話を聞いて、僕はやっとお姉さんの気持ちを少し理解できたように思う。


 たった一度の人生で、多くの人は望むものすべてを手に入れることなんかできない。

 何かを手に入れれば、少なからず他の何かを得る機会は失われてしまうものだろう。


 美織さんは、中学、高校、大学と、過去の大半を好きなものに傾けてきたという。

 ひたすらイラストを描き、学校で漫画研究会に所属し、Webに作品を投稿し……

 たぶん他の多くを犠牲にした結果、イラストレイターになる夢をかなえたんだよね。


 そうして、美織さんが捧げてきた一番の供物くもつこそ、かけがえのない「青春」だった。


 高校卒業から一〇年の歳月が過ぎたお姉さんは、もう二度と女子高生に戻れない。

 特別な夢を選んだから、高校時代にありふれた青春を得る機会は失ってしまった。

 もちろん美織さんは、決して自分の現在地を悔いているわけじゃないだろう。

 だが手に入れられなかったものに対するあこがれも、ずっと消せはしないと思う。


 今になって振り返れば、僕も高校時代には後悔しかないからわかる。

 お姉さんとは異なり、何かに打ち込んだせいで失われた青春じゃないので、過ぎ去ったものの性質を同列に語ることはできないかもしれないけれど。



「――今隣で女子高生のブレザーを着ている美織さんだって、メチャクチャ可愛いよ」


 僕は、おもむろに恋人の手を取って、そっと握りめた。


「高校時代を思い返してみたって、こんなに可愛いクラスメイトは居なかったと思う」


 あくまで個人の感想だけど、嘘を言ったつもりは一切なかった。

 制服姿のお姉さんは、本当に魅力的だ。着衣の下ではち切れそうな胸元も、深くニーソックスが食い込んだ大腿部だいたいぶも……そうした肢体したいを持て余し、はにかむ有様自体にもき付けられる。

 まあ実際のところ、それは女子高生らしい可愛らしさじゃなく、やっぱり「お姉さんが制服を着用している」という特殊性からかもし出された印象なのかもしれないけれど。

 過去に出会ったどんな女子高生よりも、今のお姉さんは可愛らしいと思う。


 でも美織さんは、僕の言葉を即座に受け取ってはくれなかった。


「……あはは。お世辞でも嬉しいよ、ありがとう。おばさんの制服姿をめてくれて」


「お世辞じゃないよ。さっきも写真を撮っているとき、密かにドキドキしていたんだ」


 自嘲で受け流されそうになったので、僕は真剣に食い下がる。


 美織さんは、困ったみたいに少しうつむき、狼狽ろうばいした様子をのぞかせた。

 空いている方の手で、落ち着きなくスカートの裾をつかんだりしている。

 そのまま二、三秒はさんでから、かなり不意打ち気味の一言を発した。



「じゃあ、もし私が高校時代に同級生だったら――裕介くんから、告白してくれる?」



 さすがにちょっとびっくりして、僕は上体を僅かに後ろへ反らした。

 お姉さんと高校時代を一緒に過ごす光景が、にわかに脳裏に思い浮かぶ。

 教室で机を並べて、隣の席から微笑んでくれる女子高生の美織さん……


 でも、すぐに僕は悲しい結論に到達して、頭の中から妄想を追い出した。


「……う~ん。僕から告白するのは、ちょっと無理じゃないかなあ」


「ええっ、どうして!? 制服姿にドキドキしてくれたんだよね?」


 美織さんは、顔を上げて振り返ると、焦燥しょうそうの滲む口調で問い質してきた。

 驚きとおびえの相半ばする反応は、まるで幽霊と出くわした子供みたいだ。


 僕は、苦笑いを堪えながら、さとすように思うところを伝えた。


「だって美織さん、本当にメチャクチャ可愛いから。――たぶん告白したって自分なんかじゃ、絶対相手にされないだろうって考えちゃいそうだもの」


 美織さんは、いったん口をつぐんで、頬を桜色に染めた。

 だが素直に喜べないらしく、僅かに眉根を寄せている。


 そう。いまだにお姉さんは、自分がどれだけ魅力的な女性なのかを、正しく把握していない。

 好きなものに熱中し、独特の生き方を貫いてきたせいで、色々とこじらせすぎているからだ。

 もし絵を描くことに青春を全振りしていなかったら、これまで皐月さんに負けず劣らず華やかな恋愛遍歴を誇っていたとしても、本来はおかしくない。


 さて、そんなお姉さんが高校時代に同級生だとしたら……? 

 僕は、あっさり恋に落ちる自信こそあれ、自分から告白しようとは考えないだろう。

 普通に考えるなら、平凡な高校生男子には到底勝算がある行為だと思えないからだ。


 僕がお姉さんと恋人同士になれたのは、つくづく奇跡的な出来事なんじゃないか。

 たぶん美織さんが年上で、しかも沢山偶然が積み重ならなきゃ交際できなかった――

 僕は率直にそう感じているんだけど、美織さんは納得できないらしい。


「高校時代の裕介くんのことも、きっと私は出会えば好きになっていたはずだから、勝算がないなんて思うはずないもん」と主張し、どうしても譲ろうとはしなかった。


「……高校生の頃の裕介くんだって、きっと凄く素敵だと思う」


「でも高校生の美織さんは、もっと遥かに素敵に違いないから」


「いつだって私は、裕介くんが大好きだよ」


「僕だって美織さんが、いつでも大好きだ」


 美織さんは、枯葉色っぽい瞳をうるませて、こちらを覗き込んできた。

 僕も目を逸らしたりせず、それを真っ直ぐに受け止めて見詰め返す。

 恋人同士の視線が至近距離で、相手をとらえてからみ合った。



「あのね裕介くん。本当に君が私のことを好きなら――」


 美織さんは、か細い声音でささやく。


「どんな場合でも、私を好きになることから逃げないで」


 僕は「……うん」と、少しだけしわがれた声で答えた。

 例え話の高校生活の中でぐらい、恋人の理想に応じておくことが許されると思う。

 何より大好きなお姉さんから、こんなにも強く求められれば、あらがえるはずがない。


 どちらからともなく顔が近付き、二人の唇が重なった。


 互いに何度となく身体を許している関係にもかかわらず、初々しいキスだった。

 丁寧に時間を掛けて、口と口とで優しくついばみ合う。いつになく甘酸っぱかった。


「制服姿でキスしたのって、これが初めて」


 静かに顔を離すと、美織さんはちいさな声でつぶやく。

 甘い吐息が唇の隙間から、途切れ途切れに漏れていた。


「何だか私、ちょっぴり変な気分かも……」


「わかるよ。僕も美織さんと同じだからね」


 高校時代に恋愛らしきものを経験して来なかったのは、僕だって差異がない。

 お姉さんも言っていた通り、もう恋人と同じ制服を着る機会はないと思っていたし、同じ制服を着たままキスすることだって、死ぬまでないと思っていた。

 もっとも当然、全部ごっこ遊びにしか過ぎないのだけれど。


「私、こんなに何もかも裕介くんの初めてをもらっちゃっていいのかな」


「僕はいつだって何もかも、美織さんに貰って欲しいと思っているよ」


 美織さんの瞳が当惑に揺れるのを見て、すぐさま僕はけ合った。


 ……それが二人のあいだにただよう空気を、決定的に変えた気がする。

 互いが相手を欲し、愛をたしかめ合わずに居られなくなっていた。



 写真撮影していたときまでと違って、室内にはつやっぽい雰囲気が満ちはじめている。

 日中からカーテンを閉め切った寝室で、ベッドの上に制服姿の成人男女が二人っきり。


 改めて考えてみても、明らかにまともな状況じゃないよね。不道徳な雰囲気すらある。

 最初にお姉さんの制服姿を見た瞬間から、淫靡いんびな気配を漠然と感じていたけれど――

 それが目にうつる周囲の光景には、ありありと表れている。

 しかし今はむしろ、その異質さに興奮をき立てられた。


 美織さんが再び顔を近付けてきて、自分の唇で僕のそれを吸った。

 ちゅっ、ちゅっ……と、水っぽい音を立てながら、何度となく熱っぽいキスを繰り返す。

 そのあいだに僕の首元へ手を伸ばすと、ネクタイを緩め、音もなく取り去ってしまった。

 お姉さんの白い指先は、器用な動作で、次にワイシャツのボタンを外しに掛かっていく。

 整えた制服がまたしても乱れ、薄く汗ばんだ素肌がさらされた。


「このあと、バイトに行かなきゃならないんだけど」


 僕は、若干ぼうっとした頭で、キスの合間につぶやく。


「それにお昼ご飯の準備もしなきゃいけないし……」


「バイトは今日、普段より遅いシフトだったよね?」


 美織さんは、手のひらで僕の腹部をまさぐりながら言った。


「今からでも、一時間程度で済ませれば大丈夫だよ」


「う、うん。たしかにそれは、そうだと思うけどさ」


「昼食は少しぐらい遅くなったって、かまわないし」


 蠱惑的こわくてきに囁くと、美織さんはおもむろにベッドの上へ座り直す。

 自ら制服に手を掛け、ブラウスの前面を開けた。途端に下から、豊かな胸があふれてこぼれる。

 お姉さんは待ち切れない様子で、ブラジャーを上へずらし、双丘を差し出すように見せた。

 白く柔らかなふくらみが緩く上下し、その先端で桃色のつぼみ息衝いきづいている。綺麗だった。


 僕らは、互いに半裸のままで愛し合い、ひたすら求め合う。

 やがて美織さんが寝転がって、スカートをめくり、両脚のあいだからショーツを抜き取った。

 僕もスラックスとトランクスをひとまとめに下ろすと、そこへ身体を重ね、腰を沈めていく。


「ねぇ裕介くん。高校生だった頃に初体験を済ませちゃった人って――」


 二人でひとつにつながりながら、美織さんは譫言うわごとのように囁いた。


「処女や童貞を捨てるとき、いったいどういう気持ちだったんだろうね」


 その問い掛けに対する回答を、僕は無論持たなかった。

 通り過ぎた高校時代は戻って来ないので、仕方がない。



 こうして二人で制服姿になっていても、高校生の恰好を装っているだけ。

 あの頃に手に入れられなかった体験を、僕とお姉さんはもう二度と得ることはない。

 ……ただし過去に対して後悔こそあれ、最早未練はうすれて、消え去ろうとしている。


 僕が美織さんと出会えた今現在もまた、すでに遠ざかった青春の結果だろうからだ。



 僕は、お姉さんの名前を何度も呼びながら、殊更に深く、愛欲の海へおぼれていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る