40:お姉さんとアシカやイルカのショーを見る

 熱帯魚が泳ぐ水槽の前で話し合って、互いに胸襟きょうきんを開いたあと。

 さっきお姉さんが他の場所で取っていた行動を、僕は何気なく思い起こした。

 ――そう言えば別の階の区画じゃ、イラスト用の資料集めしていたんだっけ。


「あのさ美織さん。ここでは写真を撮らなくても、かまわないのかな」


 試しにたずねてみると、美織さんは我に返ったように顔を上げた。

 枯葉色っぽい瞳を見開き、慌ててバッグからデジカメを取り出す。

 案の定、やり取りしているうちにすっかり忘れていたらしい。


「え、えっと……それじゃ撮影が済むまで、少し待っていてくれる?」


「もちろんだよ。差し当たり時間は大丈夫だから、好きなだけどうぞ」


 躊躇ためらいがちに訊き返されたのに対して、故意に鷹揚おうような素振りで請け合う。

 お姉さんの要望に応えるぐらいの余裕なら、まだ多少はあるはずだった。

 スマホで現在時刻を確認すると、午後一時二〇分過ぎ。うん、問題ない。


 早速、美織さんは水槽の側へ向き直り、目の高さでデジカメを構える。

 例によって遊泳する被写体(魚)に苦心しつつ、シャッターを切りはじめた。

 僕は、館内通路の二、三歩後方から、その様子をのんびり見守らせてもらう。

 他の来館客の見物を邪魔しないため、一応は周囲にも気を配っておく。


 と、ほどなくして、おもむろに美織さんがこちらを振り向いた。

 デジカメを両手で掲げたまま、いったん撮影は中断したらしい。

 はにかむような懊悩おうのうするような、複雑な表情を浮かべている。


「ねぇ裕介くん。さっきも資料集めし終えたあと、内心考えていたんだけど」


 何事かと思っていたら、美織さんは幾分ひるんだような口調で問い掛けてきた。


「私一人で好きなことしちゃって、きっと君はそのあいだつまらないよね?」


「――いや。別にそんなことないから、何も気を遣ってくれる必要はないよ」


 僕は、ちいさく片手を掲げて、心配無用だと身振りで示してみせた。

 入館時にも話したことだけれど、二人で一緒に居られるだけでも楽しい。

 好きな人と同じ経験を共有することに意味があるんじゃないか、と思う。

 それと何より、これはちょっと特殊な感覚かもしれないんだけど――


「僕は美織さんが好きなことに夢中になっている姿を、傍で眺めていると凄く嬉しくなるんだ」


「……もおぉ~。すぐにまた、そういうこと言うんだから……。はあぁ好きいぃ~~……!!」


 美織さんは、深く呼気を吐き出すと、せつなそうにうめく。

 しかも見悶えるような動作で、僅かに身体をくねらせた。

 我が恋人ながら、正直ちょっぴり気持ち悪い反応だった。


 ……とりあえず、早く資料用の写真撮影に戻った方がいいんじゃないですかね? 

 いくら時間があると言っても、午後二時からはアトラクションがはじまるので。




     〇  〇  〇




 さて。「珊瑚の海」区画を巡ったあとは、同じ階の「珍しい魚」の展示を見物する。

 主に深海や密林地帯に生息する魚類を観覧可能な、大型の水槽が設置されている場所だ。

 この辺りは撮影禁止の通路もあるので、美織さんも資料集めは自重せざるを得なかった。

 アンコウやピラルクが遊泳する水槽を眺めていくと、やがてフロアを一周し終える。


 そのため、エスカレーターに乗って六階へ引き返し、南側外縁部にある螺旋階段を目指した。

 上った先に待っているのは、「星澄ルーセント水族館」の屋上展示施設「天空の水庭アクアガーデン」だ。


 頭上に青空が広がる開放的な空間で、フロア中央に大きな円形のショープールがある。

 その周りをステージや観客席が囲み、外側へすり鉢状にせり上がる構造になっていた。

 緩い傾斜が付いた通路の脇には、南国を彷彿ほうふつとさせる樹木の類が所々植えられている。

 ここが高いビルの上にあるという事実も相俟あいまって、非日常感を覚えずにはいられない。

 おまけに辺りは大勢の来館客だらけで、相当な人混みだった。



 もう少しすると、この屋上で日曜日限定のアトラクションがはじまる。

 ごく定番のもよおしではあるけれど、アシカやイルカのパフォーマンスだ。

 ちなみに土曜日はペンギンショーだったらしい。


 僕とお姉さんは、ひとまず見物するのにあつらえ向きの場所を探すことにした。

 階段式のスタンドを上段側から下りていき、空席がないかを順に見ていく。


 ……しかしながら、やはり大半の席が埋まっていた。

 さすが休日の人気イベントだけある、というべきか。

 きっと館内の常設展示より、こっちが目当ての家族連れなんかも多いんだろうなあ。

 僕らは二人で並んで座りたいから、ますます空いている場所を見付けるのが難しい。



 こりゃ困ったなあ、などと思っていたら。

 スタンド席西側の中段辺りへ目を向けた際、ふと見覚えがある女の子を発見した。

 水族館に入る前に道端でぶつかった女子高生だ。蜂蜜色の髪は見紛みまがうはずもない。

 あのとき同行していた女の子も、すぐ隣の席に腰掛けていた。


 傍には他にもあと二名ばかり、彼女らの知り合いらしき人物が見て取れる。

 どちらも初めて見る顔で、二〇歳ハタチ前後の男性だ。わりと服装が派手だった。

 合計四人で寄り集まり、ドリンクのタンブラーを手に持って談笑している。


 ここでまた見掛けるなんて奇遇だな……

 と軽く驚いたものの、考えてみればショーは日曜日の目玉アトラクションなんだよね。

 あの子たちも水族館に来た客なら、観覧していこうとするのは当たり前かもしれない。

 まあ何にしろ、無駄にじろじろと彼女らを観察するのは止しておこう。

 気付かれたら怪訝けげんに思われかねないし、気まずいなんてもんじゃない。



「――あっ。見て裕介くん、向こうにまだ座る場所があるみたいだよ」


 そのとき、お姉さんが声を弾ませて、僕の名前を呼んだ。

 スタンド席東側を指差し、注意をうながそうとしている。

 視線を転じてみれば、なるほど座席が二人分空いていた。

 最前列中央寄りに位置する場所で、ステージが目の前だ。


 そこまで小走りに近付き、並んで着席してみる。

 丁度正面には、観客席とショープールを仕切る鉄柵が立っていた。少し観覧の邪魔だな。

 それと座席自体がステージより、ここの列だけ一段分低く設えられているみたいだった。

 どうやらアトラクションの最中は、若干見上げるような姿勢で眺める必要がありそうだ。


 もっとも、そうした部分さえ我慢できれば、他に別段不自由は感じそうにない。

 むしろ最前列だけあって、ここで見物するパフォーマンスは迫力があるだろう。


「なかなかいい場所だね。他に空席もなさそうだし、ここにしようか」


「あはは、そうだね。ひょっとしたら私たち、けっこうラッキーかも」


 僕とお姉さんはうなずき合って、確保した席に改めて腰を落ち着ける。




 やがて、プールサイドのステージ上に女性が一人姿を現した。

 濃紺のウェットスーツを着用し、片手にマイクを握っている。

 おそらくアシカやイルカの調教師トレーナーだろう。


<――はあ~い! ご来館の皆さん、こんにちは――!!>


 スピーカー越しに明るい声色で、元気よく呼び掛けられた。

 子供たちが「こんにちはー!!」と、観客席から叫び返す。

 大人の来館客は皆、女性調教師の挨拶に拍手で応じていた。


<本日は『星澄ルーセント水族館』へお越し頂きまして、誠にありがとうございまーす!>


 来館に対する礼を述べてから、早速アトラクションの開演が告げられる。


 まずはアシカのパフォーマンスだ。

 調教師が笛を吹いて合図すると、黒い体表の海生生物が舞台袖から登場した。

 アシカは全部で四頭だ。行儀よく列を成して、のっしのっしと行進してきた。

 笛と身振りで指示が送られ、所定の位置へと従順に並ぶ。

 そうして、ボールや投げ輪を使ったショーがはじまった。



「わああぁ~……。実は私、こういう水族館のアトラクションを見物するのは初めてだよ~」


 美織さんは、次々と繰り出されるアシカの芸に大喜びだった。

 軽く興奮した様子で、やや座席から前に身を乗り出している。


「テレビで見たことはあったけど、本当にアシカって投げ輪を首でキャッチできるんだねぇ」


「わかっていても実物で見ると、ちょっぴり感心しちゃうよね。よく訓練されているなって」


「きっと調教師さんが毎日繰り返し仕込んだんだろうねー。ご褒美ほうびをあげたりしながら……」


「そうだね。今も舞台上でパフォーマンスが成功したら、えさの魚を食べさせているみたいだ」


「調教師さんも心の中で『上手にできたわねポチ、特別にご褒美をあげる』って思ってそう」


「……調教師さんの心の声が、妙に卑猥ひわいな設定に感じるんだけど。あとなんでアシカがポチ」


 お姉さんの不可解な感想に対して、僕は咄嗟とっさにツッコミ入れずには居られなかった。

 しかし聞いた上でか否かは定かじゃないけど、それはあっさり受け流されてしまう。


「あっ、また次の芸がはじまったよ~。それにしても調教師さん、本当に素敵な笑顔だねぇ」


 たしかにステージでは調教師の合図に従って、アシカがボール遊びを開始していた。


「たぶん心の中では『まだ餌が欲しいの? まったくいやしい駄犬だけんねポチ。じゃあ上手におねだりしてご覧なさい』とかって思いながら、パフォーマンスの指示出ししているんだろうなー」


「絶対そんなこと思ってないよ!! ていうか、どこからそんな心の声が出てくるの!?」


 調教師の仕事に関して、かなり圧倒的な誤解めいたものを感じる。やばい。

 あとポチという名前からは離れるべきだし、根本的にアシカは犬じゃない。


「ど、どこからって……。調教師が出てくるゲームなら、よくある台詞だと思うけど」


「それって絶対、調教する対象がアシカやイルカじゃないゲームの台詞だよね……?」


「でも安心して裕介くん。どちらかというと、私は好きな男の子にしつけられる方が好きだから」


「いきなり不安になる特殊な願望口走らないでよ!? アトラクションの最中だからね今!!」


「ちなみに私の知り合いには、男の子を躾けるのが好きそうな後輩の女の子も居るんだけどね」


「……その女性には、遺憾ながら僕にも心当たりがあります……。うん、誠に遺憾ながら……」


 重ねてツッコミ入れ続けていたものの、最後の発言に関しては賛同せざるを得なかった。


 試しに想像してみただけでも、皐月さんがドS調教師と化した様子は容易に思い浮かぶ。

 むちを所持してセクシーな革製の衣装に身を包み、男性をハイヒールのかかと足蹴あしげにする姿とか。

 冷たくさげすむように相手を上から見下ろし、嬉々として罵倒ぼとうの言葉を投げ掛けるんだろうなあ。

 ……うーん、あまりにも似合いすぎる。本人に言ったら次の朝日はおがめそうもないけど。



 そんな会話を交わしつつ、二人で楽しくアトラクションを観覧していたものの。

 アシカの群れは、教え込まれた芸をひと通り演じ終えると、建物の奥へ引き返していった。

 見物していた来館客からは、舞台を下りる黒い海生生物たちに惜しみない拍手が送られる。


 いよいよ次は、イルカショーの開演だった。

 女性調教師が無線機を取り出し、他の係員と短く連絡を取る。

 すると直後、ショープールの水面に大きな影が二つ出現した。

 再び合図の笛が吹かれると、二つの影はざぶんと音を立てて、水上へ身体を浮上させる。

 もちろん、その正体はイルカたちだ。待ってましたとばかり、スタンドが歓声で沸いた。


「わあああああ~凄いすごーい!! イルカさんだよ裕介くん、はわわっ凄いねー!!」


 はしゃぎまくる美織さんは、隣から僕の肩をつかんでがっくんがっくん左右に揺らす。

 童心に返っている影響か、語彙ごい力までアラサーとは思えない水準まで低下していた。

 もはや僕の名前やイルカという名詞の他は、感嘆詞と「凄い」しか口走っていない。


 それからは調教師の指示で、イルカたちも様々なパフォーマンスを披露していく。

 水面に対して身体を垂直に立ててみたり、放り投げられたボールを頭部で打ち返してみたり、跳躍して高所から吊るされたリングを潜ってみたり、などなど……


 そうした芸を目の当たりにするたび、またもや美織さんは笑顔で声を上げる。

 相変わらず「凄いすごーい!」「わあああああ」「はわわっ」と、ほぼ同じ反応を何度も繰り返していた。両手を握り締めながら、食い入るようにイルカの挙動を見詰めている。



 ……いやはや、こりゃ思った以上に大騒ぎだねお姉さん。

 日頃は引き篭もり気味なのも、まるで嘘みたいに思える。

 この水族館に入った当初、どんなふうに楽しもうかで試行錯誤していたのが信じられないよ。

 アラサーだからって気後れしていたことすら、たとえ一時的にしろ忘れてくれているようだ。

 ラブコメ漫画や恋愛ゲームの真似事じゃなく、純粋にデートを満喫まんきつしているみたいに見える。


 実は美織さんも出不精でぶしょうなだけで、行楽したり騒いだりすること自体は嫌いじゃないのかもね。

 学生時代は同人誌即売会やアニメイベントにも参加していたらしいし、自宅でアイドルアニメのライブ映像を観賞する際だって大盛り上がりしていたし。



 ――ああ。やっぱり僕は、幸せそうな美織さんが好きだ。


 お姉さんが夢中でイルカを眺めているあいだ、僕はその綺麗な横顔にずっと見蕩みとれていた。

 もしかしたら美織さんは今後も、心の底から自分に向けられた好意に自信を持てる日は来ない

のかもしれないし、年下の恋人と一緒に居る自己嫌悪から逃れられる術もないのかもしない。

 だってどれだけ努力しようと、七歳の年の差を縮めることは不可能なのだから。


 しかし、それがたとえどんなに非合理的だとしても。

 お姉さんを好きであり続けたい、と僕は願うだろう……。

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