41:お姉さんはもうびしょ濡れじゃないか

<――それでは、次が本日上演される最後のパフォーマンスになりまーす!!>


 いつの間にか気が付くと、どうやらイルカショーも終幕に差し掛かっていたらしい。

 女性調教師トレーナーは、大きな身振りと共に笛を吹き、ショープールへ向かって合図を送る。

 ただちにイルカが命令に従って、大きな身体を水中へ潜らせた。


 それと同時に何やら、観客席側でも一斉に奇妙な反応が起きる。

 少なからぬ来館客が、おもむろに自分の荷物を漁りはじめたんだよね。

 特に僕らが腰掛けている場所の近辺では、皆が所持品を確認している。


 いったい何事かと、目を白黒させていたら――

 すぐ傍の席に座っていた家族連れの客が、鞄の中からビニール製品を取り出した。

 レインコートだった。折り畳まれていたそれを広げて、手早く着用に及んでいる。

 はっとして背後を振り返ってみると、そこには折り畳み傘を差している客が居た。



 僕とお姉さんは、思わず互いの顔を見合わせる。


「ねぇ裕介くん。もしかすると、これって――」


「……うん。どうやら、まずい状況みたいだね」


 今頃になって、ようやく事情が全部呑み込めた。

 アシカやイルカのショーは、水族館で休日の人気イベントだ。

 にもかかわらず、なぜ最前列の客席だけが空いていたのか? 


 その答えをこれから、僕らは身を以て知らされようとしているようだった。

 何しろアトラクションの最中なので、勝手に座席を立つわけにもいかない。


 きっと他の客は、事前に詳しい情報を得てから来館していたんだろう……

 それゆえ、スタンド中段よりもショープールに近い席には皆、座るのを避けるか、雨具の類を所持した上で腰掛けていたんだ。もっと早く察するべきだった。


 美織さんが微笑みながら、僕の手に手を重ね、握ってくる。

 こちらからもそれを握り返し、同じように微笑んでみせた。

 二人で一緒に覚悟を決めた表れだ。もうどうしようもない。



 ほどなく、二頭のイルカがショープール中央の水面へ浮上してくる。

 そのまま手前と奥に並んで跳び上がり、半円状の軌跡を宙に描いた。

 さらに何度もジャンプを繰り返しながら、水の中を時計回りの挙動で泳ぐ。

 イルカたちはどんどん加速し、たちまちプール外縁部の側へ接近してきた。


 そうして、僕らが座る観客席の傍まで来ると、ひと際高く水中から跳躍する。

 二頭のイルカは、宙に飛んだ自らの巨体を、誇示するように見せ付けてから――

 次の瞬間、派手な水飛沫みずしぶきを舞い上がらせつつ、再びショープールの中へ沈んだ。


 青空の下には美しい虹が生まれ、飛散した水滴は驟雨しゅううと化す。


 僕と美織さんは、それを無防備なまま、頭から全身に浴びた。

 いかにも見事で華々しい、アトラクションのくくりだった。




     〇  〇  〇




 上演後にはまず、水にれた被害を把握するため、身の回りの品を検めた。


 とりあえず二人共、スマートフォンは無事に動作を確認することができた。

 僕は、スマホに取り付けたケースがシリコン製で、一定の防水効果があったみたいだ。

 お姉さんのスマホは、撥水性はっすいせいが高い革製の鞄の中に入れていたため、助かったらしい。

 ショーに熱中していたせいで、写真撮影を忘れていたのも幸いだったと言えるだろう。

 おかげで資料用の画像を保存したデジカメも、辛うじて難を逃れることができた。



 ちなみにネットで、ここの水族館に関する批評レビュー記事を探して読んでみたところ。

 イルカショーで観客席の最前列に座ると、水を浴びてしまうのは有名な話だったらしい。

 やはり情報収集が不充分だったか。文字通り初デートの洗礼を受けてしまったみたいだ。


 もっとも批評記事には、同じように水を浴びた来館客の書き込みも散見される。

 その中には「びしょ濡れになったあと、どんな処置を取ったか」についても、詳しい経験談が寄せられていて、僕らにとって参考になる部分があった。


 そうしたものの一例を挙げると――

【売店ではタオルも販売されているので、身体を拭くために購入しました】

 などといったコメントは、非常に有益な内容に思われた。



 かくいうわけで屋上フロアを出ると、僕とお姉さんはビル六階へ直行した。

 ここには主に水族館の記念品などを販売する、売店区画が設置されている。


 噂のタオルを求めて、僕らは売り場をあちこち探し歩いた。

 尚、いまだに頭髪や着衣が乾いていないため、館内での行動は慎重にならざるを得ない。

 棚や平台に置かれた商品にも、購入するもの以外は極力触れたりしないように注意する。


 目当てのタオルは、六階西側寄りの一隅いちぐうに陳列されていた。

 棚の上には、ハンドタオル、スポーツタオル、バスタオルと、大小三種類が積まれている。

 いずれもマリンブルーの生地に白い文字で、水族館の名称やイラストがい込んであった。

 見るからに土産物みやげものっぽい品物だけど、用途で選別している場合じゃない。

 スポーツタオルとバスタオルを二枚ずつ確保し、レジで精算してもらう。

 同じ階にある休憩スペースまで移動すると、購入した品で身体を拭いた。


 ……で、そのあとはバスタオルを、美織さんの肩の上に掛けてあげる。

 お姉さんは不思議そうにこちらを振り返り、瞳をぱちくりとまたたかせた。

 どうやら、恋人から自分が過度に気遣きづかわれたと感じている様子だった――

「まだ衣服が半乾きなので、身体を冷やさないように配慮されたらしい」と。


 だが、その認識は誤解なので、僕は故意に咳払せきばらいしてみせてから説明する。


「あー、えっと。ブラの肩紐とか、ちょっと透けて見えちゃってるから」


 ようやく指摘されて理解したのか、美織さんは頬をほんのりと桜色に染めた。

 キャミソールを重ね着した胸部付近は助かっているものの、肩から背中にかけては水で濡れたトップスが透けている。そのため、淡い水色のブラジャーが部分的に視認可能な状態なのだ。


「あ、ありがとう裕介くん。全然気付いてなかったよ。でも、その――」


 美織さんは、さすがに多少取り乱したらしく、早口で礼を言った。

 それから気恥ずかしさを誤魔化ごまかすようにして、自嘲的に付け足す。


「年増女のブラが透けて見えたって、誰も嬉しくなんかないだろうけど」


「もう、すぐにそんなことばかり言うんだから。困ったお姉さんだなあ」


 少し呆れて、苦笑してしまう。

 いくら年増と自虐してみたって、まだお姉さんは二八歳でしょうが。

 童顔か否かの件はともかく、魅力的な女性であることは間違いない。

 成人男性ならば、劣情を刺激されそうになる人間は少なくないはず。


「そんなに何度も僕から『そんなことないよ、美織さんは美人だから』って言われたいの?」


「……うん、言われたいよ何度でも。だって、裕介くんから好かれてるって安心したいもん」


 軽い諧謔かいぎゃくを込めて訊いてみるくと、しかし美織さんは神妙な面持ちで返事した。

 まさか率直に肯定されると思わなかったので、思い掛けなく面食らってしまう。


 でも改めて、今日のデートの意義を再認識させられた。

 そしてまた皐月さんが「恋人からの愛情を確信させるための特効薬なんてない」と言っていたことも思い出す。あくまで二人は少しずつ、歩み寄りを重ねていくしかないんだ。


 だから僕は、包み隠さず本音を伝えることにした。


「あのね美織さん。僕が他の男に見せたくないんだ」


「裕介くんが? 他の人に、って……私のブラを?」


 お姉さんから訊き返されたので、黙ってうなずいてみせる。

 そう。実はこれこそ、いつわりなき気持ちだ。僕にだって独占欲はある。

 こんなに素敵な恋人の下着を、他の誰の目にも触れさせたくはない。


 とはいえ、そういう恋人の身勝手な心情を、美織さん自身が僕に対して向けるのはともかく、こちらから向けられて不快に感じないかは、よくわからなかった。

 なので僕としても、打ち明けるには少し勇気が必要だったんだ。


 でもどうやら、そうした心配は取り越し苦労だったらしいと、僕はすぐに悟った。


「そ、そっか、わかったよ。もう見られないようにする」


 美織さんは、羽織るようにバスタオルを肩に掛けたまま言った。

 うつむき気味の姿勢だったけれど、横から見える口元は僅かにほころんでいるみたいだった。

 栗色の髪は乾き切っておらず、湿しめって垂れた隙間には耳が覗いている。その先端は赤い。



「――だって私は、裕介くんだけのお姉さんなんだから」




     〇  〇  〇




 アトラクションも終了したので、僕とお姉さんは「星澄ルーセント水族館」をあとにした。

 何はともあれ、恋愛経験値が低い二人の初デートにしては、充実していたんじゃないかな。

 ……むしろ充実しすぎていて、想定より密度が高い外出になってしまった感覚もあるけど。


 雛番までは行きと同様、地下鉄を乗り継いで帰路に就くことにする。

 ていうか水で濡れていたから、タクシーを拾っても座席に腰掛けるのは気が引けた。

 まあそんなわけで、新冬原から雛番中央まで、地下鉄の車内で立ったまま揺られる。


 移動中には時折、他の乗客から好奇の目を向けられたりもした。

 ただし、それはたぶん、僕とお姉さんの年の差を珍しがっていたわけじゃない。

 ずぶ濡れで乗車してきたカップルに対して、単純に興味を引かれたせいだろう。

 なぜなら美織さんはこのとき、まだ肩からバスタオルを掛けていたんだけれど――

 そこに水族館の名称を見て取ると、誰もが納得したような顔になっていたからだ。


 もっとも、仮にまたお姉さんが「好かれている」という自信を失う状況になっていたら。

 そのときにはたとえ公衆の面前だろうと、肩を抱き寄せてみせるぐらいの覚悟はあった。



「ロイヤルハイム雛番」へ到着する頃には、着衣もほぼ乾いていた。

 もう午後五時近いけれど、夏場の陽気が続いているおかげだろう。


 マンションの部屋に入ると、真っ先に給湯器の端末を操作する。

 イルカショーで水浴びさせられた身体を、洗わなきゃいけない。


「ふあーっ! ちょっぴり疲れたけど面白かったね~水族館!」


 美織さんは、リビングのソファに腰掛けると、両手を高く上げながら背筋を伸ばす。

 すでに被服は乾燥しているものの、まだ無闇に座ったりしない方がいいのでは……

 と思ったけれど、お姉さんは「あとで除菌スプレーき付けておくから」と言って、意に介す様子はなかった。むしろ僕を手招きし、自分の傍へ来るようにうながす。


 僕は、軽く肩をすくめつつ、ソファの隣に腰を下ろした。


「色々予想外のこともあったけど、喜んでもらえてよかったよ」


「あはは。たまにはいいね、二人で一緒に出掛けたりするのも」


 美織さんは、手を下ろすと、柔和に微笑み掛けてきた。

 ソファの上で身体をひねり、こちらを向くと耳元で囁く。


「だけど自宅じゃないから、不自由に感じることもあったけど」


 枯葉色っぽい瞳がうるみ、僕の顔をやや上目遣いにのぞき込んでくる。

 透明で訴えるような光彩を湛え、視線を合わせて放そうとしない。


 すでに「水族館で何が不自由だったの?」と、質問するだけの余裕はなかった。

 それより早く、お姉さんが顔を近付け、僕の口唇に自分のそれを重ねたからだ。

 じっくり味わうような、丹念なキスだった。


「……デート中の裕介くん、凄くずるいよ。私を何度も、きゅんきゅんさせたりして」


 美織さんは、いったん顔を離すと、恨めしそうに言った。

 しかし声音は甘ったるく、糾弾きゅうだんするような口調じゃない。


「ずっとこういうことがしたくても我慢しなきゃいけなくて、大変だったんだから」



 ほんの少しのあいだ、無言で見詰め合う。


 それから、お姉さんは「ねぇ、見て」とつぶやき、キャミソールをたくし上げた。

 次いでトップスの前面をはだけさせ、おもむろに白い肌と水色のブラがさらされる。

 半ば着衣を脱ぎ、半ば着たままの姿は、とても綺麗で、同時になまめかしかった。


 僕は、ごくりと喉を鳴らしつつ、胸の鼓動が加速しそうになるのを抑えていた。


「ひょっとすると、そのぅ――美織さん、ここで今からつもりなの?」


「だって待ち切れないんだもん。入浴前に一回ぐらいなら、いいでしょ?」


 どうせ汚れたって身体は洗うし、あとで衣服なら着替えるし……

 ということらしい。まあお姉さんが主張したいことはわかる。


 いずれにしろ恋人から強請ねだられれば、もはやあらがう術はない。

 大人しくうなずいて同意すると、美織さんは無邪気に喜ぶ。


「そっか、よかった。それじゃ私のブラ、今日は裕介くんに外して欲しい」


 僕は、従順に指示されるまま、はだけたトップスの隙間へ両手を入れ――

 お姉さんが身に着けているブラジャーの背面を、そっと左右から摘まんだ。

 そのまま不慣れな手付きで、幾分苦心しつつもホックを外す。

 と、ブラの肩紐が緩み、内側からは美しい双丘が解放された。


 そうする間にも、美織さんのスカートがするりと滑り落ちる。

 華奢な両足が露出し、くびれた腰までの曲線が目の前に現れた。


 僕は、感嘆のうめきを漏らし、美織さんのなめらかな素肌に触れていく。

 豊かでこぼれそうな胸を、手のひらで包み、ゆっくりと心を込めてさすった。

 お姉さんも、自らブラをずり上げながら、率先して導こうとしてくれる。

 僕の指先は、柔らかなふくらみに沈み、硬くなった紅色の頂点をこすった。



「――ねぇ裕介くん。やっぱり私ね、ずっと君から好かれ続ける自信はないかもしれない」


 美織さんは、やがて頬を上気させながら言った。

 せつなげに呼気を吐き、かすれがちな声で続ける。


「七つも年上だし、そのくせ身勝手で、君を誘惑してばかりでいいのかな、って思う……」


 それはどこまでも純粋な、ありのままの告白だった。


 美織さんは、愛撫あいぶに身体を委ねつつ、僕の腰部へ手をすっと伸ばす。

 ベルトを器用に抜き取ると、ボトムスとトランクスも下ろしてしまった。

 ソファに腰掛ける僕と、正面から向き合う体勢で、ひざの上へまたがってくる。


 直後に再び、僕とお姉さんの目と目が合った。


「でも私が裕介くんのこと、どうしようもなく大好きな気持ちだけは本当だから……っ!」


 美織さんは、足の付け根に着用していたショーツを、自らの手で取り去った。

 まるで意思を証明しようとするようにして、緩やかな動作で腰を沈めていく。



 そうやって、深く深く、二人でひとつにつながりながら。

 僕は、大好きな気持ちなら負けないのに、と考えていた。


 互いに愛し合うほど、殊更ことさらつのるもどかしさをめて。

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