39:お姉さんが無駄にまた乙女力を発揮した結果

 美織さんが思案していた要因は、僕がデートで失敗した部分とは無関係みたいだ。

 とはいえ責任を免れても、それだけで状況が好ましい変化を遂げるわけじゃない。


 そうしてお姉さんが今、もっと根本的な事情に触れようとしているのがわかった。



「ここの水族館に入る直前の出来事だったけど――」


 美織さんは、タクシーの件に続いて、再度意外な話題を持ち出してきた。


「道端を歩いていたら女子高生と出くわしたよね?」


 僕は「うん……」と短く答えて、神妙にうなずく。

 二人組で、片方はいかにもギャルっぽい雰囲気の女子高生だった。

 僕ら二人のことを順に眺めて、何か妙な反応を示していたような。


「あのとき君とぶつかった方の女の子なんだけどね」


 美織さんは、水槽の熱帯魚へ視線を戻しながら言った。


「私と君が一緒に歩いていたのを見て、物珍しく思ったみたいだった」


「それって、あの子が僕と美織さんの年の差を察したからってこと?」


 驚いて訊くと、お姉さんは「たぶんね」と小声でつぶやく。

 それから水槽の側へ向き直り、また熱帯魚の群れを眺めた。


「やっぱり童顔でも、見る人が見ればすぐに私がアラサーなのはわかるんだよ。それで『年増女が若くて可愛い男の子を連れて歩いてる』って思われちゃったんだろうね」


「……まさか。それはちょっと、さすがに意識過剰すぎるんじゃないかな」


 僕は、若干狼狽ろうばいしつつ、美織さんの見方を否定せずにいられなかった。

 酷く厭世えんせい的な観念のように感じられ、素直に受け入れ難いものがある。

 でも、色々こじらせているお姉さんは、寂しそうに続けた。


「レストランで言い合いになったときにも――こっちを見ていた他のお客さんの中には、きっと二人の年の差に気付いて、同じようなことを考えた人が居たはずだと思う」


 あのとき気が昂って、不用意に衆目を集めてしまったことも、幾分後悔しているらしい。

 まあ僕もさっきの口喧嘩に関しては、それなりに反省すべきところがあると思っている。

 しかし、それは決して「お姉さんとデートしている様子を他人に見られた」こと自体が羞恥心を刺激したからってわけじゃない。



「ねぇ、どうしたの美織さん」


 僕は、思い切ってたずねてみた。


「以前は二人で一緒に駅前を歩いたりしていても、そんなことにいちいち執着したりしなかったじゃないか。今日に限って、なぜ人目を気にしているの」


 少なくとも恋人同士になる以前には、今日みたいな素振りはなかった。

 喫茶店で会うのも、ちょっとした買い物に付き合うのも、タクシーで移動するのも……

 お姉さんは僕と一緒に行動することを、いつでも喜んでくれたし、また楽しんでくれた。

 周りが二人の年の差をどう思うかについて、ほとんど拘泥こうでいする気配は見せてこなかった。


 なのに突然、それを今になって意識するようになるなんて。妙な違和感を覚える。

「年下男子が好き」と公言してはばからないお姉さんには、似合わない態度じゃないか。



「それはやっぱり……初デートすることになったからかな」


 美織さんは、ぼつりとつぶやいてから、逆に訊き返してきた。


「むしろ裕介くんは私と一緒に居て、恥ずかしくないの?」


「恥ずかしいわけないよ。でなきゃ恋人にもなってないし」


「本当に? こんなアラサーおばさんなのに大丈夫なの?」


 すぐさま請け合ったものの、美織さんは鵜呑うのみにしようとしない。

 重ねて問い質そうとしてくるので、何度も繰り返し言い聞かせる。


「大丈夫も何もないさ。美織さんは凄く素敵な恋人だもの」


「アラサーおばさん(※オタク趣味)なのに大丈夫なの?」


「いや別にかまわないし、趣味は言わなきゃわからないよ」


「アラサーおばさん(※男の子の膝小僧大好き)なのに?」


「そ、それは恥ずかしいというより、心配な性癖だね……」


 ていうか仮に恥ずかしいとしても、性癖は年齢と無関係なんじゃないでしょうか。

 などと内心ツッコミ入れてしまったけど、お姉さんの面差しは真剣みたいだった。



「……実は昨日の夜から、妙に胸がざわついて」


 美織さんは、微妙な間を挟んでから言った。


「周囲の目が怖いと思うようになったんだよね」


「すると本当にデートが次の日に迫った影響で、急に気になりはじめたのかあ」


 経過を踏まえて、推測を巡らせてみる。

 昨夜のうちに心理的な変化があったとするなら、他に原因は考え難い。

 おそらく一昨日までは、純粋に外出を楽しみにしてくれていたはずだ。


「でも以前までだったら、君と出掛ける機会があっても何も思わなかったのに」


 でも美織さんは、安易に納得できないみたいだった。

 過去の出来事を手繰りつつ、自らをかえりみようとする。


「恋人同士になるまでは、とにかく君に好かれたかったんだよね。どんなことしてでも君を彼氏にしたかったし、だから私の部屋に呼んだりしたの。そうして同棲しはじめてからは、もう君を誰にも渡したくなくなった。ますます君を好きって気持ちが強まったから」


 熱帯魚を見詰めていた美織さんの瞳が、すうっと細められた。

 かたちの良い唇が僅かにほころんで、優しい声音の笑いが漏れる。


「……あはは。こうやって改めて思い返してみると――二人のことがどう見えるかで、周りの目が怖くなっちゃった原因は、私が君を好きになりすぎたせいかもしれない」


 うっかり大切なことを見落としていた――

 まるで、そう言いたげな口振りに聞こえた。

 そうして話に耳を傾けているうち、なぜお姉さんが今更人目を意識するようになったか、僕もようやく理由を悟りはじめた。

 ……あるいは、そこに恋愛の質的な移ろいを見て取った。


 理想を求めて、相手に好かれたい、相手を手放したくない、という願望を充足させようとする段階よりも、きっと僕らは深い関係に至ろうとしている。それはかつて皐月さんが指摘していた「互恵関係」から、もう半歩先へ進んだ状態だと思う。



「うん、やっぱりおかしいよ」


 美織さんは、自己完結的に言ってうなずく。


「裕介くんみたいに若い男の子が、アラサーのおばさんとデートだなんて」


 その一言を聞いて、僕も密かに確信した。


 ――お姉さんは、自分の願望抜きに二人の関係を見直そうとしている。


 もちろん、その根底にはまだ「自分がこのまま好かれ続けていられるかも自信がない」という要因が関わっているのだろう。七歳の年の差とも、無関係な問題じゃない。

 僕は今日、それを少しでも改善したいと思って、お姉さんをデートに誘ったんだ。

 ただ単に「互恵関係」を維持するためじゃなく、心からの好意を伝えようとして。


 ところが美織さんは、真っ直ぐな愛情を求めたくせして、いざ互いの仲を深めるためのデートへ出掛けることになってみたら、あべこべに気後れしはじめたんじゃないだろうか。

 つまり「好かれ続けている自信がない」ことは、二人の「互恵関係」を一時除外しようとした際に「好かれることが許される自信の揺らぎ」も生み出してしまったわけだ! 


 だから今頃改めて、美織さんは「アラサーなのに七歳年下の男の子から愛されていいのか?」という疑念を抱きはじめてしまったんだと思う。


 やばい。本気でこじらせすぎですよお姉さん。

 どうしてこんなになるまで放っておいたんだ……

 って、当然恋人である僕の責任も大きいんだけど。



「新冬原まで地下鉄に揺られていたとき、向かい側の席に大学生ぐらいのカップルが座っていたの覚えている? 彼氏も彼女も同年代で、とっても仲良さそうにしていたんだけど」


 尚も美織さんは、ここまでのデートで遭遇した出来事を持ち出して言った。

 二人を取り巻く世界の光景が、今日はそれほど引っ掛かっていたんだろう。


「――きっと『ああいうのが普通の恋人同士なんだろうな』って、見ていて思った」


 大学生カップルに対する印象を、美織さんはしみじみと語った。

 さながら「自分には同じような資格がない」と、言いたげな口調だった。

 もはや、お姉さんが疑念を抱いているという、これ以上の裏付けはない。


 うーん。こりゃデート前よりも、ますます面倒臭い思考におちいっているのでは? 

 しかし将来的に「互恵関係」を脱するためには、避けられない状況でもあるんだろうなあ。

 ましてや、いずれただの恋人同士じゃなく、その先の関係を目指そうとするなら尚更……

 今はいったん余計にこじれちゃっているけど、ここを乗り越えなきゃいけないんだと思う。


 そうだ。デート中の出来事なら、他にだって思い出すべきものはある。

 昼食前に「ふれあいコーナー」で交わした会話について考えてみよう。

 いつか二人の子供が欲しい、と美織さんは言っていた。その時点では、すでにこのまま自分が好かれていてもいいのかと、ほのかな迷いを感じはじめていたはずなのに。

 あれは紛れもなく、お姉さんの本心のはずだ。僕にもはっきりわかる。



 ――ならば、ここで何もせずに引き下がるわけにはいかない。


 皐月さんは居酒屋で会ったとき、

「もっとガンガン愛してあげなさい」

 と言っていた。


 いよいよ、それを実行に移すときが来たんだ。

 僕は、やるしかない、と自らに言い聞かせた。

 正直言えば、これまで以上に恥ずかしいけど。


 勇気を出して、恋人の手に自分の手を伸ばす。

 何も言わずに手のひらを重ねて、そのまま握り締めた。

 唐突な感触に気が付き、お姉さんはこちらを振り向く。

 枯葉色っぽい瞳の中には、戸惑いの光彩が揺れていた。


「いきなりどうしたの裕介くん。放して」


「嫌だ。美織さんと手をつないでいたい」


 美織さんがあらがう素振りを見せたので、僕は手を引いて握り直す。

 すると若干ひるんだ様子で、強いてさからおうとはしなくなった。

 そのまま目線を横へ泳がせつつ、かすれた声音を漏らす。


「私みたいなアラサー女と手をつないだりして、どうするの……」


「恋人同士で手をつなぐのは、何も特別なことじゃないでしょう」


 僕は、お姉さんの傍に身を寄せ、互いの顔を近付けた。

 握った手と手の指に指を絡めつつ、静かに囁き掛ける。


 今立っている位置の背後では、他の来館客が通路を行き来していた。

 でも、僕らがどんな言葉を交わしているかは、聞き取れないだろう。


「それに僕だって何年かすれば、すぐにおじさんになるよ」


「そのときには私もまた、もっとおばさんになってるもん」


「じゃあ、さらに何年かして僕も、もっとおじさんになる」


 言い返してくる美織さんに対して、何度でも言い返す。


「そうやって、ずっと二人で一緒に居ればいいじゃないか」


「ずっとって、いつまで? 五年後、それとも一〇年後?」


「五年後でも一〇年後でも……五〇年後でもかまわないよ」


 これから半世紀も経てば、二人は互いにありふれた高齢者になる。

 その頃にはきっと、僕らの年の差なんか誰も興味を持たなくなるだろう。

 今は多少普通じゃないことだって、いずれは平凡なものになり得るんだ。


 裏を返せば、それぐらい「普通」という尺度はもろく、変質してしまう。

 もう何度自問したかわからないけど、そもそも「普通」とは何なのか。

 そんな唯一無二の概念があるのか? 



 辛抱強く語り掛けると、ようやく美織さんはこちらを向いてくれた。

 整った眉目には、不安と期待がぜになって表れているのがわかった。

 瞳と肩は、僅かに震えている。そんな有様がはかなげで、とても綺麗に見えた。


「本当に五〇年後も、私と一緒に居てくれるの?」


「美織さんが僕を嫌わない限り、いつまでだって」


「……私が裕介くんを嫌いになるはずなんてない」


「そっか。それを聞かせてもらえて、安心したよ」


 率直に喜びを伝えると、美織さんは居心地悪そうに身動みじろぎした。


 やっぱり、美織さんはとても素敵なお姉さんだ。

 アラサーだとしても、誰より乙女で可愛らしい。


 あるいはれた大人ならば、お姉さんのこじらせた態度を好ましく思わないかもしれない。

 自分が弱みに感じている要素を、故意に卑下ひげして恋人の関心を引こうとしているだけだと。

 だが僕は、それが仮に浅はかな駆け引きだったとしても、やはり魅力的だと思っただろう。

 人間の愚かしさは愛おしい。少なくとも、血の通わないさかしらさよりはずっと。


「ねぇ美織さん。日本人男女の平均寿命が現在、何歳ぐらいなのか知ってる?」


 僕は、ほんの思い付きからささやかな雑学を持ち出し、問い掛けてみた。

 二人の未来を想像するうち、たまさか記憶の隅から掘り起こされたものだ。


「男性が約八一歳で、女性は約八七歳らしい。女性の方が約六歳長生きなのさ」


 これは実際のところ、あくまで近年の調査結果のはずだ。

「いずれは平均寿命一〇〇歳を超える時代が来る」というような説も、聞いた覚えがある。

 ただしそうなったとしても、男性より女性が長命なのは変わらないんじゃないかと思う。

 その前提で、ここでは話を続ける。


「僕と美織さんは年の差七歳でしょう。だったら一歳程度の誤差はあるにしろ、これからずっと一緒に居れば、お互いほとんど一人で生きていかずに済むんだ」


 年の差のおかげで、僕らには特別な幸せがあり得る。

 普通じゃない二人だから、必ずしも普通の平均寿命まで生きられるとは限らないけれど――

 もし統計通りなら、将来互いに孤独を味わわせる期間を、最小限にできる見込みもあるんだ。



「……もう、ずるいよ裕介くん。そんなことばっかり言って……」


 美織さんは、湧き上がる感情がにじむ顔を、慌てて隠すみたいにうつむく。

 そうして、つないだままの手に少し力を込め、こっそり握り返してきた。

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