38:お姉さんと痴話喧嘩しちゃう

 水族館のサービスセンターは、エスカレーターで六階に上がってすぐの場所にあった。

 そこで事情を説明して、女の子とはぐれた保護者さんを館内放送で呼び出してもらう。


 女児のご両親は、慌てて息急いきせき切らしながら、五分と経たずに駆け付けてくれた。

 少し前から我が子の姿が見当たらないので、親御さんもあせってさがしていたらしい。

 僕らとしては取るに足りない親切のつもりだったけれど、頭を下げて感謝された。



 そうして、女の子とご両親に別れを告げてから、今一度時刻を確認した。

 現在は正午を、すでに三〇分ほど過ぎている。予定変更が必要みたいだ。


 なので、このあとはひとまず先に昼食を取ることになった。

 ビル六階には記念品の類を販売している区画と併設して、丁度レストランがある。

 館内通路から出入り可能な店で、水族館に戻る際にも入場券を買い直さずに済む。

 だから、まだ下の階で見物していない水槽は、食事を終えてから見て回ればいい。



 レストランは「PISCISピスキス」なる名称で、主に洋食の海鮮料理を提供していた。


 水族館に併設された飲食店が、魚介類を調理して客に出している――

 というのは、たぶん施設としての統一感を意図しているんだろう。

 ただ見方を変えれば「ついさっき泳いでいるところを見たのと同じ魚が、皿の上に乗せられて運ばれてくる」なんてことも、当然あり得るわけなんだよね。

 さあ果たして、これは趣味がいいと言えるのかどうなのか。


 しかし何はともあれ、いったんビルの外へ出て別の店を探す気にもなれない。

 郷に入れば郷に従えとばかり、僕と美織さんは「PISCIS」へ入店する。

 制服姿の店員さんに案内されて、レストランの奥にある二人席まで通された。

 昼時だから混雑しているかと思ったけれど、すぐに座れたのは運が良かった。


 差し向かいでテーブルを挟み、思い思いのメニューを注文する。

 僕は白身魚のムニエルとタコのカルパッチョ。美織さんは海老えびグラタンだ。

 どちらもセットメニューで、パンやコーヒーなどを選んで付けてもらえる。

 値段は二〇〇〇円近かったものの、料理の味は申し分なかった。

 もっとも食事中の空気は、微妙にどんよりとよどんでいたけれど……。



「――ぐふぅ……。『おばさん』って、生まれて初めて呼ばれちゃったぁ……」


 美織さんは、スプーンでグラタンをすくいながら嘆いていた。

 さっき喰らった女児の一撃が、まだ尾を引いているらしい。


「もちろん、そろそろ呼ばれても仕方ないって、覚悟していたんだけどね……」


「きっとあの子は美織さんが大人の女性だから、思わず弾みで言っただけだよ」


 僕は、タコのカルパッチョを口へ運びつつ、思ったままのことを伝えた。


「外見の印象で言えば、僕には美織さんが女子大生ぐらいの年齢に見えるけど」


「それは嬉しいけど、裕介くんの主観が入り過ぎ」


「そうかな。そんなこともないと思うんだけどな」


 恋人だからって、どうやら容姿を色眼鏡で見ていると思われたらしい。

 食い下がってみたものの、美織さんは溜め息混じりにかぶりを振った。


「私って自分でも童顔だと思っているけど、それって誰もが実年齢より若く見てくれるってことじゃないからね。目鼻立ちに子供っぽい部分があるってだけで」


 ……うむむ、そんなものだろうか。

 まあ、たしかに「実年齢より若く見える」ことと、ただ単に「身体的に子供と同じような部分がある」ことは、似ているようでまったく意味が異なるのはわかる。

 例えば、大人でも背丈があまり子供の頃と変わらない人は多いし。


 そうすると以前「すっぴんだと童顔が辛い」と言っていたのも、言い換えれば「メイクしないと目鼻の造作が幼いわりにアラサーなのがバレそうで怖い」というような意味だったのかな。

 でもって、すっぴんでもメイクしていても若く見えるのは、僕の思い込みだってこと? 


 たぶんそんなことない、とは思うけど……強く本人に言われると少し自信がなくなる。

 僕が美織さんを大好きなのは事実だし。無意識に贔屓目ひいきめが入っちゃっているのかなあ。



「しかもあの女の子、裕介くんのことは『おにいさん』って呼んでたもん」


 美織さんは、残酷な真相を暴く探偵みたいな口調で続けた。


「やっぱり少なくとも、私の方が裕介くんよりも年取って見えるのは間違いないんだよ。まあ、実際に七歳も年上なんだから、当たり前ではあるんだけど……」


「うーん。美織さんが年長なのはともかく、僕だって二一歳の成人男子なんだけどなあ。二人共二〇代だし、そこまではっきりと年の差が外見に現れているものなのかな」


 断定的な見解に対して、首を捻らずにいられなかった。

 仮に女子大生に見えないとしても、美織さんが可憐なお姉さんだという点は譲りたくない。

 とすれば、二人がカップルとして客観的に不釣り合いだ、なんてこともないはずだと思う。


 ところが、その主張は意外な反論で否定された。


「でもほら……裕介くんも男の子としては、わりと可愛い系の面立ちだし」


「かっ、可愛い系って。それは僕も、美織さんみたいに童顔だってこと?」


「うーん、童顔とは違うんだけど。……笑顔が素敵な感じ、というか――」


 びっくりして問い質すと、美織さんは急にもじもじしながらうつむく。


「ちょっぴり横顔とか、男性アイドルっぽい雰囲気もあるし。好きぃ……」


 いやいや、ちょっと待ってくださいよお姉さん。

 それこそ恋人としての主観が入り過ぎなのでは。


 そりゃ僕自身、自分が男らしい精悍せいかんなタイプの顔付きだと考えたことはないけれど。

 それにしてもアイドルっぽいと思った試しなんかない。情実に囚われていると思う。

 あと最後の「好きぃ……」っていうのは、もはや単に個人的な好意の表明ですよね? 


 なので、ちょっとそれはないでしょう、と逆に言い返そうとした。

 でも美織さんは、僕より先に言葉を続けて、それをさえぎってしまう。


「こないだ皐月ちゃんも言ってたよね? ――裕介くんは『けっこう顔も可愛い』って」


 …………。


 そう言えば、ちらっとそれらしきことを言われたような気がしなくもないな……。


 ならば美織さんが童顔な点を差し引いても、僕は尚も年下に見える容姿なんだろうか。

 鏡の前で毎朝、自分の顔を眺めていても、そんなふうに感じたことはなかったけれど。



 ほんの少しだけ、考え込んでしまう。

 しかし、すぐに僕はかぶりを振って、雑念を追い払った。

 大切なのは、お姉さんが魅力的な恋人だってことなんだ。

 誰が何と言おうと、それだけは断言できる。


「……この際、僕のことなんて関係ないよ。美織さんは凄く可愛い」


 僕は、ちからを込めて請け合ってみせた。


「美織さんは可愛いよ。僕の主観でもいい、可愛いお姉さんなんだ」


「な、何を言い出すの裕介くん。私はアラサーのおばさんだよ……」


 美織さんは、戸惑いがちに否定し、やや怯んだ素振りを覗かせる。

 でも引き下がるつもりはない。僕は、念を押すように繰り返した。


「いいや可愛いお姉さんだ。美織さんは可愛いからね、間違いない」


「い、いきなり変なこと言わないでよ。それに可愛いのは、裕介くんの方だし」


「僕のことは関係ないって言ったよね? 大事なのは美織さんが可愛いことさ」


 あくまで美織さんは否定するので、こっちも重ねて抗弁する。

 だがお姉さんは、頑なに聞き入れようとしなかった。手強い。


「違うもん……。可愛くて素敵なのは裕介くん。だって全部、私の好みど真ん中だもん」


「美織さんも案外、聞き分けがないね……。そっちこそ僕の理想のお姉さんじゃないか」


 さすがに僕も幾分、苛々いらいらしてきた。


 なんでわかってくれないんだろう。

 他人の目にどう映ろうと、僕にとって美織さんは最高に可愛い。

 お姉さんを好きでいられるなら、他のことなんてどうでもいい。


 そんな気持ちが先走って、次第にやり取りが喧嘩腰けんかごしになってしまう。

 おかげで美織さんまで触発されたのか、強めの口調で非難してきた。


「馬鹿言わないでよ! 理想の彼氏は裕介くんじゃない、だからこんなに好きなのに!」


「馬鹿言ってるのは美織さんだろ!? 美織さんを大好きなのは僕の方なんだから!!」


「でも私の方がもっと君のこと好きだもん! 裕介くん好き好き! 本当に大好き!!」


「ふんだ、僕の方がもっと美織さん大好きだもんね!! 死んでもいいし――……!?」


 などと声を荒げて、互いに食って掛かっていたんだけれど。

 不意に口論の途中で、何やら妙な気配を感じて口をつぐんだ。


 それでやっと我に返って、恐る恐る辺りを見回す。

 店内で食事している他の客が皆、僕らをちらちら見ていた。

 今の言い合いで、明らかに衆目を集めているみたいだった。


 意識して耳を傾けると、周囲で囁く声が聞こえてくる。


「何あれバカップルじゃない? 水族館で痴話ちわ喧嘩げんかすんなっての」

「こういうのはサメも食わないっていうんだっけ、水族館だけに」

「はあ……リア充なんか、みんな海の藻屑もくずと化せばいいのに……」

「ママー、スキってさっきすいそうでおよいでたサカナかなー?」

「それはキスでしょう? それとキスの仲間はチューよ、うふふ」


 ……これはまずい、ていうか半端なく恥ずかしい……。


 さすがに美織さんも異様な状況に気付いたらしく、いったん口を閉ざしている。

 それから、二人揃って居住まいを正した。しばし身の縮む思いで食事を続ける。

 ほどなく他の客が噂する声も収まり、耳に届かなくなった。


 僕は、コーヒーを飲んで少し落ち着くと、率直に謝罪した。


「……あの、ごめん美織さん。美織さんが好きすぎて、少し熱くなっちゃったみたいだ」


「う、ううん。私の方こそ、ごめんね裕介くん。君のことが好きすぎるばっかりに……」


 美織さんも情けなさそうな表情でびてくる。

 正直お互い大人げなかったよね。反省しよう……。



 その後は二人共、昼食を終えるまで言葉少なにならざるを得なかった。




     〇  〇  〇




 レストラン「PISCIS」を出たあとは、再び水族館の下の階(ビル五階)に向かった。

 まだ「珊瑚の海」区画の他、深海などに生息する「珍しい魚」の展示を見物できていない。

 相変わらず混雑しているタッチングプールの脇をすり抜け、館内通路をフロアの奥へ進む。


 やがて青く澄んだ大きな水槽と、その中を泳ぐ美しい魚類が視野に入ってきた。

 エンゼルフィッシュ、スズメダイ、クマノミ、チョウチョウウオ、テトラ、ラスボラなど。

 ここが「珊瑚の海」区画で間違いなさそうだね。これまでにも増して、綺麗な場所だった。



 二人で並んで、この一帯に設置された水槽を観覧していく。

 ここでも仕事の資料用に写真撮影するのかなと思って、僕はお姉さんの様子を窺ってみた。

 しかしデジカメを取り出そうとする気配はなく、どことなく上の空といった雰囲気がある。


 ひょっとして、まだレストランで口論になったことを、ずっと気にしているのだろうか。

 あるいはそもそも、水族館へ来てから会話が弾んでいないこと自体に困惑しているとか。

 でなきゃ、当初の予定通りに館内を見物できていないことが不満なのかもしれないなあ……


 美織さんの機嫌を損ねたりしていそうな要素について、あまりに心当たりがありすぎる。



 ――折角の初デートが上手くいっていないとしたら、それは僕のせいだよね。


 自分の恋愛経験が乏しいことを、みじめに思わないわけにはいかなかった。

 やはり大人の男性だったら、もっとお姉さんを喜ばせられるんだろうか。


 そう、もっと世慣れている、美織さんと同年代の立派な男性だったなら。

 たぶん恋人を巧みに楽しませる一方で、人前で喧嘩したりなんかしない。

 ましてや「相手より自分の方が恋人を好きだ」なんて理由では。


 ……うわあああああぁ、口論になった理由がマジで小学生レベルだ。

 お姉さんが同じように意地を張り合っていたのもどうかと思うけど。

 初恋の中高生でさえ、こんな原因じゃ言い合いにならないだろう。



 何気なく、僕らはフロアの一隅にある水槽の前で立ち止まった。

 色とりどりの魚の群れが、珊瑚で飾られた水の中をただよっている。

 あたかも、現実からかけ離れた夢の世界の光景みたいだった。


 そうして熱帯魚が泳ぐ姿を眺めながら、自嘲的な感覚に囚われていると――

 二、三〇秒ほど間を挟んで、それまで黙り込んでいた美織さんが口を開いた。


「今日、この水族館へ来るときのことだけどね。地下鉄を使ったでしょう」


 にわかに予期せぬ話題を持ち出され、僕はきょかれた。

 けれども、お姉さんは抑揚よくようの少ない声音で、先を続ける。


「あれね、実は君と二人でタクシーに乗るのが少し怖かったからなんだよ」


「二人でタクシーに乗るのが? それはどうして?」


「運転手さんにどう思われるのか、気になったから」


 鸚鵡おうむ返しにたずねると、美織さんは苦笑を浮かべた。


「たまにタクシーって、運転手さんから話し掛けられちゃうじゃない。そのとき、もし私と君の関係を訊かれたら、どう説明すればいいかなって色々と迷っちゃったんだ」


 これも再び想定外の答えだった。

 なぜ今更、そんなことで悩むんだろう。

 だってタクシーなら、初めて美織さんの部屋を訪ねた日にも利用した。

 それこそ星澄駅前から雛番までを、二人で一緒に乗車したじゃないか。


 お姉さんの意図が咄嗟に理解できない。

 僕は目を白黒させつつ、意見を述べた。


「そんなのは、恋人同士ですって言えばいいだけさ」


「……でも、そうすると裕介くんが恥ずかしがるんじゃないかなと思って」


 このとき、美織さんは何を伝えようとしていたのか――

 僕には、ここまで言われても、すぐに真意を察することができなかった。

 お姉さんが恋人でいてくれることは、素晴らしい幸運だとしか思えない。

 それゆえ二人の関係を、恥ずかしいと考えた試しなんてなかったせいだ。



「結局また、さっきの喧嘩を蒸し返すようなことを言っちゃうんだけどね」


 美織さんは、微妙にぎこちない所作で振り返った。


「やっぱり、私はアラサーの『おばさん』なんだよ」

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