35:お姉さんとデート当日を迎える
デート当日の朝は、いつもより早めに起床した。
と言っても目が覚めたのは午前七時頃だから、すでに窓の外から見える街並みは明るい。
僕もお姉さんも普段は就寝するのが遅いせいで、ベッドから這い出す時刻も遅いだけだ。
今朝は二人共シャワーを順番に浴び、
美織さんは、七分袖の白いトップスにレース使いのキャミソールを重ね、ゆったりした青いのロングスカートで両足を包んでいた。全体的に生地が薄手で、夏らしく涼しげな着衣だ。
ふわふわした栗色の長い髪と
美織さんがメイクしているあいだに、僕は率先して朝食作りに取り掛かった。
トーストを焼き、炒めたベーコンの上へ玉子を落とし、野菜を
作り置きのミートボールを温めているうち、お姉さんもキッチンへ姿を現した。
僕が料理の皿を並べていくと、美織さんは二人分のコーヒーを
準備をひと通り終えたところで、ダイニングカウンターに隣り合って座った。
「やっぱり今ぐらいの時間帯だと、まだ夏場でもそれほど暑くはないね」
美織さんは、コーヒーカップに口を付けながら言った。
いつもなら寝ている朝方の天気に触れて、新鮮なものを感じているみたいだ。
尚これは余談だけど、僕は毎週最低二日はゴミ出しのために早起きしている。
「朝の陽も高くない頃合だからね。あまり今日はじめっとしていないし」
同意してみせてから、トーストの上にベーコンエッグを乗せて
お姉さんは「そっかぁ」とつぶやき、思案するような素振りを覗かせる。
ナチュラルメイクの顔には、幾分感じ入ったような表情が浮かんでいた。
「たまには早起きしてみるのもいいかも。ちょっぴりいい気持ちだよー」
「そうだね、空気が澄んで
「本当だね、とっても爽やかで……。夜闇に染まって
「いやいや夜闇に染まってって、幽霊じゃないんだから。浄化されるだなんて大袈裟だよ」
「ああ、綺麗な光に身体が溶ける……。ありがとう裕介くん、君に出会えてよかった……」
「ちょっと美織さん、突然消滅しないでよ!? これから出掛けるんでしょう二人で!?」
美織さんの周囲にきらきらした光の粒子が立ち昇り、そのまま身体が透けて消えてしまう――
というような錯覚を、なぜか一瞬幻視した。いや明らかに気のせいだと思うけど。やばい。
朝食を済ませると、改めて身支度してマンションを出る。
時刻は午前八時五〇分過ぎだった。
二人で並んで、雛番中央通りの地下鉄駅へ向かう。
目的地までの移動には、今回のデートでは公共交通機関を利用することになっていた。
タクシーを呼ぶ案もあったけど、お姉さんが前日に「たまには街路をのんびり歩いてみたい」と言ったからだ。少し意外な要望だったものの、僕には別段反対する理由もなかった。
ところで考えてみれば、僕と美織さんが同じ部屋から
食料品や日用品を購入するにも、基本的にはお姉さんがネット通販で注文しちゃうし。
多少足りないものがあっても、僕がアルバイト先で休憩中に買ってきちゃうからなあ。
今更だけどデートでもしなきゃ、二人一緒に出歩く理由はあまりないことに気付いた。
地下鉄の車両に乗り込むと、まずは南北線で中央区の星澄駅まで揺られる。
東区の新冬原へたどり着くには、そこから東西線に乗り換えねばならない。
北区の雛番から星澄までの移動所要時間は、二五分前後。
星澄から新冬原までは、およそ四〇分で到着する計算だ。
乗り換えに必要な時間も加味すると、概ね一時間一〇分程度の移動になる。
でもって平日ならば通勤通学の時間帯は過ぎているけれど、今日は日曜日。
地下鉄車内は僕らの他にも、お出掛け気分に染まった乗客で大勢
ただそのわりに南北線でも東西線でも、二人が隣り合って座れたのは幸運だった。
――うーん、こうしてお姉さんと行動していると、徐々にデート気分が盛り上がってくるな。
もっとも社会人同士のカップルだと、移動手段には自家用車を使う場合も多いかもしれない。
僕の経済力じゃ車を購入も維持もできないから、仮に免許があっても不可能な選択肢だけど。
ていうか美織さんも自宅が仕事場を兼ねているせいで、通勤する必要がないからなあ。
仮に自動車を所有していたところで、運転する機会そのものが限られそうだよね……。
とか何とか考えながら、何気なく傍らを
なぜか美織さんは、車内の向かい側の座席をちらちら見ていた。
やけに真剣で、考え深げな表情だった。急にどうしたんだろう。
奇妙に感じて、お姉さんが視線を向けている先をたどってみた――
すると、僕らとは別のカップルが寄り添って、座席に腰掛けている。
どちらも
尚も少し眺めていると、大学生カップル(推定)は互いに顔を近付けた。
ぴったり肩を触れ合わせ、代わる代わる耳元で相手に何事か囁いている。
その都度、彼女の側はややうつむき、楽しげにくすくすと笑っていた。
彼氏もそんな有様を見て、嬉しそうにしている。いかにも幸福そうだ。
そして、美織さんは……
相変わらず大学生カップル(推定)の様子を盗み見ている。
「ねぇ美織さん。気になることでもあったの?」
素朴な疑問を抱いて、幾分
「考え事でもしているみたいな顔していたけど」
「……あ、ううん。別に何でもないよ裕介くん」
美織さんは、やっと我に返った様子で、こちらを向く。
口元には不都合を誤魔化すような微笑が浮かんでいた。
お姉さんは他のカップルを見て、いったい何を思ったんだろう。
ひょっとして、
今一度、向かい側に座るカップルを眺めてみる。
二人は座席に並んで座ったまま、相手に近い側の手と手をつないでいた。
本当にラブラブだな。それに「これぞ学生カップル!」って印象がある。
でも「いいなあ」と思う反面、自分の立場に置き換えて想像すると……
少し気恥ずかしさを感じる。同じことを試すのは、
いや、まだ僕も二一歳だし、あまり大学生と大差ない年齢なんだけどね。
ただアラサーのお姉さんとしてはどうなんだろう。むむむ、判断し難い。
無駄に人前でイチャ付こうとしたら、かえって迷惑を掛けないだろうか。
……この場はひとまず、行動を起こすのは自重しておいた方が無難かな。
まあ、あとで美織さんに直接意思を確認してからでも遅くない、と思う。
さて。ほどなく地下鉄車両は、新冬原駅に到着した。
改札を潜って階段を上り、一番出入り口から地上へ出る。
スマホで時刻をたしかめると、午前一〇時一七分だった。
地下鉄駅付近にあるスイーツ店の前を通り過ぎ、市道沿いを進む。このまま真っ直ぐ行けば、イベントホールを兼ねた大型商業施設の「星澄フェアリーパーク」が見えるはずだ。
目的地「星澄ルーセント水族館」が営業するビルは、そのすぐ隣の敷地に建っている。
どうやら市内でも新冬原には、デートスポットに適した場所が多いみたいなんだよね。
駅前に高層タワーが開業して以来、そちらの方が注目される機会は増えたらしいけど。
四、五分歩いたところで、
そこから脇に折れる街路へ入ると、六階建ての大きなビルが目に入る。
この建物の四階から屋上までのフロアが「星澄ルーセント水族館」だ。
ちなみに一、二階は駐車場で、三階はスポーツジムになっている。
僕と美織さんは、ビル正面の出入り口まで歩み寄った。
水族館の来館者と思しき人々が周辺を沢山行き交っている。
家族連れやカップル、友達同士と見て取れるグループなど。
ふええぇ~さすが休日のレジャー施設だなあ。こりゃ館内も混み合ってそうだ。
どうせだったら、平日に休みを取って来た方が空いていてよかったんだろうか。
でもここって、日曜日じゃないと実施されないアトラクションもあるんだよね……。
「今気が付いたけど、たぶん私が水族館に来るのって二〇年振りぐらいだよ」
美織さんは、ビルを見上げて歩きながら言った。
「小学生の頃に父親に連れられて、隣町の水族館まで遊びに行ったんだっけ」
まだ当時は、市内に水族館が開業しておらず、気軽に訪れることができなかったらしい。
つまり「星澄ルーセント水族館」を訪れるのは、お姉さんも今日が初めてというわけだ。
一方で珍しく、美織さんの家族に関する話題が出たため、僕はいささか興味を引かれた。
「美織さんの
「……あー。わりと放任主義の父親なんじゃないかなあ」
試しにたずねてみると、美織さんは微妙に思案するような間を挟んで答えた。
「一応仕事はね、県立高校の国語教師しているけど」
「へぇ。それじゃ、かなりきちっとした人なんだ?」
漠然と職業から受ける印象を、思ったまま述べてみる。
お姉さんの父親は、教育関係者か。ていうか県立高校ってことは、地方公務員だよね。
言われてみると、高校教師の家庭に生まれたというのは、妙にしっくりくる気がした。
いや、だって美織さんには、僕と付き合いはじめるまでに恋愛経験がなかったわけで。
それは絵を描いてばかりだったという過去を差し引いても、育ちの良さや真面目な性格が影響していると思う。ただそれでいて、庶民的な親しみやすさも感じる女性だったりするしさ……。
そのへんを踏まえて「金持ちのお嬢様じゃないけど、文化資本は高そうな実家」っていうのを想像したとき、個人的に凄く納得感がある。
「うーん。あれでもきちっとしているのかなあ……」
でも美織さんは、困惑したように苦笑いを漏らした。
どうやら僕の感想には、素直に賛同しかねるようだ。
「何しろ私の父親って、九歳も年下の元教え子と結婚したような人だから」
…………。
正直なところ、
まあ教師と生徒の結婚は、世間じゃよくある話だ。
とはいえ在学中だった頃から交際していたとすれば、非常に問題があるのは間違いない。
女子高生なら、基本的には大抵未成年。大人としても倫理的にも、よろしくないと思う。
強いて言うと、美織さんのご両親が出会った時代には、おそらく青少年保護育成条例のようなものが施行されていなかったはず。だからって、節度を
思わず戸惑っていると、美織さんは突飛なことを言い出した。
「ひょっとしたら、私の年下男子を好きな性癖も遺伝だったりするのかな」
「え、えっと。それは正直、どうなんだろう……?」
「もっとも、そういう父親なのはある意味で
なかなか抜け目ない主張だった。おまけに家庭環境に前向きな理由が重い。
ていうか、これは素直に喜んでいいのかどうか。いや結婚したくないわけじゃなく。
できれば二人の間柄は、そうした背景と無関係に肯定してもらいたいんだけど……
そんな調子で、
にわかに通り掛かりの歩行者が、僕に側面から身体ごと接触してきた。
どうやら玉突き式に別の歩行者に押され、接触してしまったみたいだ。
水族館の来館者で、丁度歩道が混雑している時間帯なのかもしれない。
「あっ、ぶつかっちゃってすみませーん」
軽い口調で、謝罪の言葉を掛けられる。
見れば相手は、まだ若い女の子だった。
たぶん、女子高生ぐらい……だろうか?
若干見立てに自信が持てないのは、わりと派手な外見の子だったせいだ。
癖のある長い髪の毛を
透け素材のトップスとシャツを組み合わせ、ショートパンツを
明らかに偏見の自覚はあるが、
僕の方からも「いえ、こちらこそ……」と、謝っておく。
するとギャル系っぽい女の子は、まず僕を見て、次に隣の美織さんを見た。
ちょっぴり両目を見開き、二、三度瞬かせて、すぐに興味深そうに細める。
それから愛想笑いのような表情を作り、改めて頭を下げてきた。
そこへ少し離れたところから、また他の女の子が近付いてくる。
「ねえーぇマリナぁ! 早く来なよォ、じゃないと置いてくからねェ!」
「あーもう、わーってるってェ! 勝手に行くなってんでしょぉがァ!」
自分を呼ぶ声に独特の口調で返事すると、そのギャル系っぽい女の子――
「マリナ」というらしき子は、もういっぺんだけこちらへ頭を下げてみせた。
そうして義理は果たしたとばかり、背を向けて傍を離れていく。
派手な見た目の姿も、たちまち人混みに紛れて見えなくなった。
……何だか騒がしい女の子だった。陽キャってやつかな。
女子高生なんてのは、大抵そんなものかもしれないけど。
まあいいや。それより早く水族館に入ろう。
と、傍らを振り返って、僕は恋人に入館をうながそうとした。
美織さんは、何も言わず、立ち去った女子高生の後ろ姿を眼差している。
どこか微妙に様子がおかしい気がする。心配になって、声を掛けてみた。
「美織さん、どうかしたの?」
「……え、ううん。別に何も」
美織さんは、我に返ったようにこちらを見て、笑ってみせる。
――本当に何でもないのだろうか?
僕は、どうしても不可解な印象を
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