36:お姉さんと水族館を巡る

 ビル正面の出入り口を潜り、エントランスに踏み入る。

 すぐ目の前には、上層へ昇るエレベーターが三台並べて設置されていた。

 そのうちのひとつが降りてくるのを待って、他の利用者と共に乗り込む。

 建物四階のホールに着くと、片側の壁際にチケット売り場が見て取れた。

 入館希望の客が一〇人余り、二列に並んで順番待ちしている。

 僕とお姉さんも、そこに二、三分並んで、入場券を購入した。


 大人一人当たり、当日券は一〇〇〇円。

 年間パスポートでも二三〇〇円らしい。

 けっこう良心的な価格設定だと感じる。



 入館ゲートを通過すると、そこはもう「星澄ルーセント水族館」の内部だった。


 回廊構造の館内通路は、複数の巨大な水槽で左右を挟まれ、広いフロアを一周していた。

 手前側から「寒い海」区画がはじまり、奥へ進むと「暖かい海」区画に展示が変化する。

 生息域における水棲生物の差異を、移動先の区画毎に把握しながら見物できるみたいだ。


「この辺りの水槽で泳いでいる魚は、海水が冷たい場所に生息するやつかあ」


 僕ら二人は、水中で泳ぐ無数の魚を、硝子ガラス越しに眺めながら歩いた。

 ホッケ、ハタハタ、スケトウダラ、それからカジカの仲間など……


「――ねぇ裕介くん。君が今、どんなことを考えているか当ててあげようか」


 おもむろに美織さんが話し掛けてくる。


「お料理で使えそうな魚ばっかりだなって、ここの水槽見て思ったでしょう」


「……当たりなんだけど、それきっと美織さんも同じこと考えていたよね?」


 即座に訊き返してみると、美織さんは「あはは……」と曖昧あいまいに笑って誤魔化ごまかした。

 図星だったらしい。ていうかデートで水族館に入って、最初の会話がこれですか。

 いやある意味じゃ、凄くベタな種類のやり取りなんだけどね。色気の欠片もない。


 とはいえお姉さんも自分で発言しておいて、失敗したと感じているみたいだった。

 こほん、とちいさく咳払せきばらいしてから、水槽の中で泳ぐマダラの方へ視線を向ける。


「えーっと。と、とりあえず、そのぅ……」


 美織さんは、かすかに上擦うわずった声で問い掛けてきた。


「水族館デートの場合はまず、どういう会話から入るのが無難なんだろうね」


「い、いきなり訊かれても……。水族館でデートするのは、僕も初めてだし」


 咄嗟に妙案なんて浮かぶわけもなく、しどろもどろになってやり取りが弾まない。


 入館後一〇分と経過していないのに、早くも最初の関門に遭遇する僕ら。やばい。

 とにかくデートに来てさえしまえば、あとは何となく雰囲気で事態が上手く運ぶ――

 なんて錯覚を抱いていたんだけど、全然そんなことはなかったみたいだ。当たり前か。


 正直今日の行動自体を計画するだけで、僕も一杯いっぱいだったんだよね。

 いやまあ自分からデートに誘ったわけだし、完全に言い訳でしかないけど。

 実際に館内を観覧しながら、どういう会話をするかまでは考えてなかった。



 かくして未知の状況に当惑し、焦燥しょうそう感を覚えていると。


「あっ、あのね裕介くん」


 美織さんが殊勝な面持ちで、歩きながら振り向いた。

 館内はやや薄暗く、どんな顔色かはっきりとはうかがえない。

 けれどわずかに頬が上気し、赤くなっているように見えた。


「こういうデートって、私も全然経験ないから的外れなことを言うかもしれないけど……」


 僕は、隣に並んで通路を進みつつ、短く「うん」と返事してみせる。

 こうして美織さんも真剣に会話を広げようとしてくれていることは、とても嬉しい。

 自分から率先して盛り上げられないのは、情けないし、準備不足だったと思うけど。

 デートに対して協力的な、お姉さんの気遣いに感激しちゃうよね。

 なので僕も、つい神妙な気持ちになり、恋人の言葉に耳を傾ける。


 すると、また美織さんは独特な意見を述べてきた。


「やっぱり王道展開だと、こういう場面では私から『凄く綺麗だねー』とかって、瞳をきらきらさせつつ朗らかに切り出すべき? でもやっぱり、お約束になっちゃうかなあ」


 …………。

 いやあの、王道展開って。


 水族館デートの様式美に関する話ですかそれ。

 ここは一応、よくあるベタなやり取りについても検討してみようってことなの? 

 もしかすると、泳ぐ魚を見て食材としての用途に触れたのも、その一環とかで……。

 いやいや、まさかそんな。


 などと面食らっていたら、美織さんは殊更にお約束会話の類例を語りはじめた。


「あとは水槽を泳いでいる魚を指差して『わーっ、あの魚って裕介くんみたーい!』って騒いでみるのも定番かも。わりとテンション高めだし、実践するのは難しそうだけど」


「……難しいというか、客観的に考えると恥ずかしそうだね」


「最近たまに見掛ける展開だと、カップルのどちらか片方が魚類に詳しいパターンもあるよね。でもって雑学トリビアを語りながら心を通わせたりするんだけど、そういうのはどう?」


「どうと訊かれても。いったい何を勧められてるのかな僕は」


「ううぅ……他に主人公とヒロインの水族館デートで推せる展開って、何があったかなあ……。もう少し恋愛物の漫画やゲームで、傾向と対策を予習しておけばよかった……」


 何かと思ったら、漫画やゲームの話だった。

 ええまあ、そういやコロッと忘れてました。


 ――お姉さんって恋愛経験の不足を、漫画やゲームの知識で補おうとする人だった。


 ラブコメ漫画に乙女ゲーム、成人向け美少女コンテンツなど。

 その種の作品内容に関しては、無駄に人一倍詳しいんだよね。

 かつて初体験を済ませた日にも、オタク知識を総動員して僕の気を引こうとしたんだっけ。

 何だか脱力してしまう。さすがこじらせお姉さんだけあって、ある意味期待を裏切らない。


 まあもっとも、僕のために本気であれこれ考えてくれたのは事実なんだよな……。


 今も美織さんはスマホのブラウザで、検索ページに「クラゲ」「雑学」とか打ち込んでいる。

 頑張って話題を探そうとしているみたいだ。なぜクラゲなのかは訊かない。きっと最近流行りのラブコメとかで、ヒロインが好きな生き物だったんだろう。



「ねぇ美織さん。この際だから思ったことなんだけどさ」


 僕は、軽く髪をき回しながら持ち掛けた。

 なぜだか、少しなごやかな気分になっていた。


「もう無理してまで、気の利いた会話する必要もないんじゃないかな」


「えっ……。でも折角の初デートなのに、それで裕介くんはいいの?」


 美織さんは、スマホの画面から人指し指を離し、顔を上げて訊いてきた。

 枯葉色っぽい瞳が僅かに見開かれ、不思議そうにこちらを眼差している。


 僕は、ゆっくり首肯してみせてから、思ったままを伝えようとした。


「別にずっと二人して黙ってようってわけじゃないよ。もっと気楽にしゃべりたいことがあったときにしゃべる、そうじゃないときは何も言わなくていいってだけで」


 お互い恋愛経験が浅い者同士だし、過度の高望みはよくない気がした。


 そりゃ世の中には、初デートでも如才じょさいなく立ち回る人だって居るのかもしれない。

 しかし残念ながら、どちらかと言えば僕は不器用で、そんな社交術の心得はない。

 美織さんも漫画やゲームを手本にしているぐらいだから、似たようなものだろう。


 だったら初めてのデートで、妙な理想ばかり追い掛けたりすべきじゃない、と思う。

 まずは今日一日を、二人が自然体で過ごすことからはじめればいいんじゃないかな。


 それでもし会話が途切れ途切れになったとしても、少なくとも僕の方はかまわない。

 どうしてかって、そんなの理由は明らかだ――


「きっと僕は、美織さんと一緒に居られるだけで嬉しいから。美織さんはどう?」


 美織さんは、ふくよかな胸の上に手を置いて、浅く呼気を吸い込んだ。

 それから小声で「……私も、君が居てくれるだけでいい」とつぶやく。


 よかった。幸いにして賛意が得られたようだ。

 しかし考えてみれば、これこそお約束中のお約束的な提案かもしれないけど。

 むしろ他の定番デート会話より、かえって恥ずかしい台詞だったろうか……。

 だからって、今更言葉を引っ込められやしないわけだけど。むむむ。



 なんて、一人密かに心の中で唸っていたら。

 美織さんがもじもじしながら質問してきた。


「ところで今の台詞って、何の乙女ゲーで勉強したの?」


「いや僕はこれまで全然遊んだことないからね乙女ゲー」


 デート中の会話を、相手も自分基準で考案していると決め付けないでくれます? 




     〇  〇  〇




 とにもかくにも、そうしたやり取りがあってから――

 いくらか水族館の展示を、二人共落ち着いて見て回ることができるようになった。


 通路沿いに設置された水槽は「寒い海」区画を過ぎ、やがて「暖かい海」区画に入る。

 水の中を泳ぐ魚の種類が変化し、心なしか周囲の館内照明も微妙に雰囲気が変化した。

 サバ、アジ、マグロ、ブリ……って、ここでもつい食用の魚ばかり目に付いちゃうな。

 熱帯魚の類は居ないのかと案内板を確認してみたら、どうやら展示場所は五階らしい。

 こことは別に「珊瑚さんごの海」区画という水槽が設けられているみたいだ。


 のんびり水槽を眺めているうち、少しずつ初デートの緊張もほぐれてきた。

 やはり身構えて状況に臨むより、まずは二人で過ごす時間を大切にして正解だったかな。

 必死に話題を探さなくても、気楽にデートを続けるにつれて、徐々に会話が増えてきた。


 ……ただし双方にとって、それが共通の理解のある内容とは限らないけれど。



「ここから見える水槽の眺め、とってもイラストを描くときの参考になりそう~!」


 美織さんは、見栄えのいい水槽の前に来る都度、嬉々として言った。

 硝子越しに泳ぐ魚をはじめ、水中に置かれた岩や水草の状態をたしかめると、うなずきながらデジタルカメラを構える。そうして、様々な角度からシャッターを切っていた。水中の魚は遊泳しているため、自動焦点機能オートフォーカスの設定とかに苦労していたみたいだけど。


「星澄ルーセント水族館」の館内では(フラッシュをかない限り)一部の区画を除き、来館客には自由な撮影が許可されている。好きな水槽の前で記念写真が撮れるわけだ。

 ただし、それはイラストレイターのような絵を描く仕事の人間にとって、「作画用資料が入手し放題」であることと同じ意味でもあるらしい。


 そんなわけで、だんだんデートの雰囲気にも慣れ、自然体を取り戻しはじめると。

 お姉さんは、館内を頻りに見回し、うずうずした素振りをのぞかせるようになった。

 次いでバッグの中からデジカメを取り出し、躊躇ためらいがちにたずねてきたのだ――


「……ねぇ裕介くん。そのぅ、ちょっとこの辺りの水槽の写真を撮っていいかな?」


 そうやって恋人からお願いされれば、無下に退けるわけにもいかない。

 何も館内規則に違反したことをしようとしているわけでもないんだし。


 尚、美織さんは(平時は引き篭もりがちだが)たまに外出する際、こうして作画資料に有用な事物と遭遇する可能性があるので、デジタルカメラを常に携帯しているという。

 それが今回デートの行き先でも役に立った……ということになるんだろうか。



 そうした事情で現在は、すっかりデートが作画資料撮影会状態になっている。

 いやうん、お姉さんが喜んでくれているなら、それでもかまわないんだけど……


「水槽の上から降る光を表現する際、やっぱりCGソフトで使用するレイヤーは覆い焼きモードに設定して塗った方がいいのかなあ。他のレイヤーモードじゃ彩度が足りないよね」


 美織さんは、撮影した画像を手元のデジカメで確認し、ぶつぶつとひとちていた。

 イラストをPCで作画するにあたっての、技術的な要点を検討している様子だった。


「海の陰影を出すのにも、色相をずらしながら濃い色を乗せていくだけじゃなくて、仕上げ作業でオーバーレイのレイヤーを何枚かグラデーションかけながら重ねるべきかも……」


 …………。


 無論CGソフトで絵を描いたことなんてないから、まるで何を言っているのか理解できない。

 専門用語っぽい言葉だらけだし、お姉さんが頭の中で何を思い描いているかもわからないし。


 とりあえず館内の光景に夢中らしき点は、僕にとって喜ぶべきこと……だと思っておきたい。

 少なくとも初めてのデートで、恋人を退屈させずに済んでいるわけだからね。

 それとひとつのことに全力で打ち込むお姉さんの姿は、やっぱり素敵だった。



 ――とはいえ、ずっと美織さんに水槽を撮影させてばかりもいられないんだよなあ。


 僕は、スマホで現在時刻を確認した。

 そろそろ、午前一一時二〇分になる。


 まだ五階の展示をひとつも見ないうちから、正午が近付きつつあった。

 午後二時を過ぎると、たしか屋上でアトラクションがはじまるはずだ。

 あまりこの階で長居してもいられないよね。

 レストランで昼食も取っておきたいし……。


「……あの、えーっと。ねぇ美織さん? ちょっといいかな……」


 折角お楽しみのところ申し訳ないけれど、意を決して声を掛けた。

 もう次のフロアへ移動した方がいい、と控え目にうながしてみる。


 ところが美織さんは、水槽の前に張り付いたまま動こうとしない。

 資料の写真撮影に夢中で、言葉が耳に届いていないみたいだった。

 まだ一人で何事か、意味不明なことをつぶやき続けている。


「あとは色味と不透明度の調節か……。カラーバランス調整レイヤーで背景に物体を馴染ませるのはいいとして、問題は印刷まで想定した場合に色域警告で引っ掛からないかかな」


「お、おーい。美織さーん? あのぅ美織さん、聞こえてるー?」


「青とか緑とか寒色系って、光の表現を入れてCMYKカラーモードに変換すると、すぐに色が潰れちゃうし。うーん、むしろ明度を上手に加減するのが肝心っぽいよね――……」


 ……繰り返し呼び掛けてみたものの、やはり反応してもらえない。


 完全に自分の世界に没入している様子だ。

 イラストのことになると、集中力が凄い。

 日頃から美織さんって、一心不乱に作業していると寝食を忘れちゃう人だからなあ。

 もっとも僕と一緒に居るときには、自宅の仕事部屋でもここまで熱中することはあまりないと思っていたんだけどね。食事に呼べば、ちゃんとリビングまで出てきてくれるし……。


 今日は普段来ることのない場所を訪れたせいもあって、随分ずいぶん高揚しているみたいだ。

 仕方がないので、僕はいったん口を閉ざし、お姉さんが気付いてくれるまで待った。



 すると、さらに三〇秒近く経過してから。

 美織さんは、ようやく我に返ったみたいで、こちらへおもむろに向き直ってくれた。

 今更ながら恋人を放置していたことに思い至ったらしく、体裁悪そうな表情だった。


「ごっ、ごめんね裕介くん。もしかすると私のこと、今呼んだ?」


 僕は、静かに笑い掛けてから、うなずいてみせた。

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