第五章「お姉さんの気掛かりの種」

28:お姉さんとの季節の変わり目

 日が巡って七月に入り、すっかり季節は夏になった。


 もうコーポ平伊戸の部屋は、正式に引き払っている。

 諸々の手続きも済ませ、僕はロイヤルハイム雛番へ完全に居を移していた。

 かくして今月初めから、美織さんとは本当の意味での同棲が実現している。


 ……もっとも一ヶ月以上前から、すでにほぼ二人暮らし同然の生活だったわけで。

 僕とお姉さんがどんな毎日を送っているかは、改めて説明するまでもないだろう。


 ただ暑い日が続くようになって、アルバイトから帰宅すると、近頃いつも汗だくだった。

 それで、身体の汚れを落とすために入浴し、例によって美織さんも一緒に洗いっこして。

 浴室から出たら、そのまま二人でベッドへ潜り込み、相変わらず互いに愛し合って……

 何だかんだでまた汚れちゃうから、もういっぺん二人で入浴してから寝る、という。


 そんな調子でますます、愛欲塗れの生活が日常に定着しつつあった。


 いや無論、これまでも二人の日々には、似たような側面があったんだけどね。

 でもここ半月ぐらい、美織さんから殊更強く求められるようになった気がする。

 それはおおむね、そう――僕と皐月さんが面識を得て以後の、顕著な傾向だと思う。



「そのうちまた皐月ちゃんが不意打ちで現れたりしても、絶対に誘惑されちゃ駄目だよ」


 ある日の夜に二人で入浴していたときにも、美織さんは心配そうだった。

 浴室の洗い場で、僕の身体を背後から抱き締めつつ、そっと耳元に囁いてくる。

 ボディーソープ塗れの素肌を、背中へ擦り付けることで洗ってくれているのだ。

 二つの膨らみが優しく上下する都度、柔らかな感触が伝わってきて気持ちいい。


「……誘惑なんかされないよ。美織さん以上に誰かを好きになるなんて、考えられない」


 僕は、やや喉の奥で声を詰まらせながらも、本心で返事した。

 浴室を満たす湯気と、肌が触れ合う体温に熱せられ、頭の中が少しぼうっとしている。

 いつでも恋人を喜ばせようとするお姉さんの健気さには、興奮を覚えずにいられない。


「本当に私以上に誰のことも、好きにならないでくれる? ずっと、ずっとだよ?」


「うん。もちろんさ美織さん。僕が誰より一番大好きなのは、美織さんなんだ……」


「……あはは。そっか、幸せだな。私も大好きだよ裕介くん、誰より君が一番好き」


 美織さんは、ちいさく恥ずかしそうに笑う。

 かと思うと、次いで大胆にいっそう裸身を密着させてきた。

 言葉と裏腹な挙措に驚かされ、余計に胸が高鳴ってしまう。

 戸惑っていたら、お姉さんの手が僕の下腹部へ伸びてきた。

 魅惑的な刺激を感じて、思わずうめきそうになる。


「……み、美織さん、そこまで洗ってくれなくても……」


「ねぇ裕介くん。私のこと、愛してるって言って欲しい」


 控え目に制止しようとしたものの、美織さんは耳を貸してくれなかった。

 細い指が艶めかしく動き、そのたび電流じみたしびれが腰から背筋へ走る。

 とろけそうな感覚に頑張って抵抗していると、甘い声音で再度強請ねだられた。


「いつもみたいに、ねぇお願い……」


「ううっ。あ、愛してるよ美織さん」


 僕は、くらくらしながら素直に告げた。

 半ば女神を崇拝するような心理だった。


「大好きだ美織さん……ぼ、僕はずっと、美織さんだけだから……!」


 お姉さんが耳元で、くすりと満足そうに笑ったような気がした。

 けれども淫靡いんびうごめく指は、僕を尚も解放しようとしてくれない。

 背中に触れる双丘の弾力も相俟って、快楽はいや増してしまう。


 やがて、美織さんの手の中で、僕は昂りを堪え切れなくなった。


 僅かな虚脱を迎えたあと、座ったまま振り返って、恋人を見る。

 真っ直ぐに向き合うと、ゆっくり顔を近付け、キスを交わした。

 そうして、改めて丹念に身体を洗い、綺麗に汚れを落とす。



 二人で並んで浴槽へ浸かると、美織さんが僕の肩にしな垂れ掛かってきた。


「独占欲が強すぎて、私のことを面倒臭いアラサーだって思う?」


 湯船の底で、美織さんの手が僕のそれを、きゅっと握り締める。

 心細そうな仕草だ。枯葉色っぽい瞳は、憂鬱な陰を帯びていた。

 年上のお姉さんらしからぬ様子で、愛おしさをき立てられる。


「凄く好きでいてくれてるんだなあってわかって、嬉しいよ僕は」


 僕は、美織さんの手を握り返して答えた。


「不安がらなくたって大丈夫だよ美織さん。信頼してくれるでしょう?」


「うん……。あのね裕介くん、君のことを信頼してないわけじゃないの」


 美織さんは、小声で返事してから、付け足すように吐露する。


「でも皐月ちゃんと先日久々に会ったら、何だか少し怖くなっちゃって」


「怖くなっちゃったって、いったい何が」


「……えっと。な、なんて言うか、その」


 訊き返すと、美織さんはやや当惑したような反応を示す。

 湯船の液面に視線を落とし、悲しげな面持ちを覗かせた。


「私って、こんな歳まで恋愛経験なかったでしょう? 今頃やっと初恋しているわけで」


 美織さんは、弱々しく続ける。


「きっと私ね、そのせいで皐月ちゃんみたいな、恋愛上級者には一生なれないと思う。だから、あの子みたいに新しい恋を、次から次へと見付けたりもできっこない。もちろん裕介くん以外の男の子を好きになりたいだなんて、夢にも思ったりしたことはないけど……」


 お姉さんが抱える鬱屈を、僕じゃ正確に理解することはできないと思う。

 ただ何を言い表そうとしているのかは、漠然と把握できなくもなかった。


 きっと誰しも人間には、特定の時期しか絶対に得られないものがある。

 高校時代の制服デートなんか、すでに僕は永遠に経験する機会を失った。

 適切な頃合に然るべき道筋を選ばねば、たどり着けない場所もあるんだ。

 よしんば、あとから何らかの手段で取り戻せたとしても――

 それは必ずしも、世間一般の「普通」とは同じじゃない。


「自分がこのまま裕介くんに好かれ続けていられるかも、全然自信がないの」


 美織さんは、そっと嘆息して言った。


 思い掛けない話だったので、湯の中で少し考え込んだ。

 僕にとっては、僕がお姉さんを好きでいることより、お姉さんが僕を好きでいてくれることの方が、何万倍も奇跡的な幸運だと思っていた。それは今後も変わらないだろう。

 でもそれゆえ、まったく美織さんの不安に気付けなかった。


 まだ二〇代になったばかりの僕と、もうすぐ三〇代が近いお姉さん。

 お互いに遅い初恋でも、同じ景色が異なって見えているんだと思う。



「美織さんに自信がなくたって、僕は美織さんが好きなことを止めないから」


 僕は、真剣に請け合った。


「美織さんが僕を遠ざけようとしない限りは」


「……うん、ありがとう裕介くん。嬉しいよ」


 静かに顔を上げると、美織さんはこちらへ柔和に笑い掛けてくれる。

 そうして、浴槽の中に波紋を作りながら、ゆっくりと立ち上がった。

 豊かな胸や細い腰部が湯の上に現れ、目を奪われてしまう。


 いつ見ても、お姉さんの裸身は綺麗だ。

 今は取り分け、濡れた肌がきらめいている。


「ねぇ来て、裕介くん。そろそろ向こうで、ひとつになろう?」


 まだ手をつないでいたせいで、僕も自然と引っ張られて立った。


 二人一緒に浴室から出ると、生まれたままの姿で寝室へ向かう。

 僕とお姉さんは、何度も深くつながって、ひたすら愛し合った。




     ○  ○  ○




 さて、こうした濃厚な同棲生活を送るようになっていたものの――

 僕が予期せぬ事態と遭遇したのは、しかし案外間もない頃のことだ。


 それは七月中旬、なんと平伊戸のアルバイト先で起きた。



 その日の夜も、僕はスーパー「河丸」の売り場で品出し業務に勤しんでいた。

 休憩時間の終了後、しばらくして菓子類の商品棚に作業範囲を移したときだ。

 多種多様なチョコレートやガムを選り分け、所定の位置へ手早く詰めていた。

 虚心に集中していたのだが、はたと思わず手を止めた。


 ぽんぽん、と背後から肩を叩かれ、聞き知った声で呼ばれたせいだ。


「――先輩、こっち向いてください」


 バイトの後輩である晴香ちゃんだと、当然すぐに察しが付いた。

 そう言えば、おそらくとっくに午後九時半を過ぎているはずだ。

 女の子で未成年だから、仕事を切り上げて退勤する時刻に違いない。

 帰り際に挨拶するため、今日も律儀に声を掛けてくれたんだろう……

 そう思って振り向くと、顔面に奇妙な感触を覚えた。


 晴香ちゃんが人差し指で、僕の頬を突っついている。

 どうやら、古典的な悪戯いたずらの手口に乗せられたらしい。


「えへへ。引っ掛かりましたね先輩」


 見事に企てが成功し、晴香ちゃんは得意気に笑っていた。

 スーパーの制服から着替えを済ませ、現在は明南高校のセーラー服姿だ。

 さらに二度、僕の頬をちょんちょんと軽く突いてから、指を引っ込める。


「こんな子供だましの手に乗せられるだなんて、可愛いですね先輩」


「そんな子供っぽい手で相手を揶揄からかって、何が楽しいのかな後輩」


 挑発的に反応を評され、むっとして言い返した。

 だが所詮しょせん、単なる些末さまつな負け惜しみでしかない。

 晴香ちゃんの口元からは、笑みが絶えなかった。


「どうですか、女の子に指でほっぺた突っつかれた気分は?」


「どうもこうもないさ。こんな悪戯されたの小学校以来だよ」


「ということは、もしかすると女子高生にほっぺた突っつかれたのは初めてですか?」


 やたらと「女子高生」という語句を強調し、幾分食い気味に訊いてくる。

 自らの身分を相手に意識させて、悪戯を正当化するつもりなのだろうか。

 たしかに世の中には、セーラー服姿の女子に強い執着を持つ男子も少なくない。

 そういう事実を否定はしないけど、万人に共通した価値観だと思われちゃ困る。


「先に断わっておくけど、僕は女子高生をブランド的にありがたがったりはしないよ」


「あー、いえいえ。あたしが主張しておきたいのは、そういうことじゃなくてですね」


 注意を付け加えると、晴香ちゃんは慌てて釈明しようとした。


「女子高生にもなれば、小学生ほど気軽に誰にでも悪戯はしない、ってことです」


「……すると、僕はよくよく検討した上で、故意に狙って悪戯されたってこと?」


 誤認を了解しつつも、やっぱり愉快な気分にはなれずに問い返した。

 一方の晴香ちゃんは、我が意が通じたとばかり、朗らかにうなずく。


「きっと先輩だったら、怒られないと思って」


「僕だって怒るよ。馬鹿にしないで欲しいな」


「いえ、怒りませんよ先輩は。わかりますし」


 相変わらず向日葵ひまわりみたいな笑顔で、断言されてしまった。

 どうやら三歳年下の子から、完全にあなどられているようだ。

 不本意極まる状況で、憮然ぶぜんとせざるを得ない。


 でも晴香ちゃんは、そうした僕の有様まで含めて、満足らしかった。


「じゃあ、もうそろそろ帰りますねーあたし」


 こちらを向いたまま、後ろ歩きでそばを離れようとする。

 売り場の端まで下がると、片手を挙げて振ってみせた。


「お先に失礼します、先輩。……また明日!」


 元気に別れを告げてから、ひらりと軽く身をひるがえす。

 そのまま、たったったっ、と駆け足で立ち去った。


 ……「また明日」か。

 晴香ちゃんとは、明日もシフトが一緒なんだよね。

 今更思い出したけど、本当に同じ出勤日が多いな。




 まあ、それはそうと仕事に戻らなくちゃ。

 商品を積んだ台車を探って、売り場に並べるチョコレートを取り出す。

 菓子のパッケージを両手で抱えたら、種類別に棚へ補充していく……


 が、再び業務に専念しようとしていると、そこにまたもや横槍が入った。

 加工食品コーナーに続く通路から、こちらへ誰かが歩み寄ってきたんだ。


 僕は当初、それが自分の知り合いだとは、即座に気が付かなかった。

 理由は二つあって、ひとつは過去に一度しか会ったことのない人物だったから。

 もうひとつは、まさかバイト先で会うなんて夢にも思わない人物だったからだ。


「へえぇー。裕介くんったら、なかなか隅に置けないわね」


 いかにも楽しそうな口調で、不意に名前を呼ばれた。

 びっくりして相手を見ると、とびきり綺麗な女性が僕の顔を覗き込んでいる。

 ハニーブラウンの内巻きミディアムヘアと、清楚系女子アナ風ファッション。

 余裕たっぷりの物腰には、しかしちっとも隙がない。


 そこに居たのは紛れもなく、瀬尾皐月さんだ。



「――なっ、ななな、なんで皐月さんがここに居るんですか……ッ!?」


 業務中なので、懸命に声を抑えて問い質した。

 夢想だにせぬ驚きに接し、動揺を禁じ得ない。


 だって皐月さんは普段、都内のゲーム会社で働いているはずなんだ。

 そんな年上美人と、平日の夜に星澄市内の住宅地で遭遇するなんて。

 いくら関東圏とはいえ、ここまで片道三時間近く掛かる距離はある。


「ねぇ裕介くん。いましがたまで君と話していた女の子、かなり可愛かったわね」


 皐月さんは、こちらの質問を無視して言った。

 うきうきと意地悪そうな笑みを浮かべている。


「しかも随分、仲良さそうじゃない。同じバイトの店員さんってところかしら?」


「ええそうです、単なるバイト仲間の女の子ですよ。それ以上でも以下でもない」


 逆質問されたので、僕は強い態度で警戒して答えた。

 何やら、妙な嫌疑を掛けられていると感じたからだ。


 もっとも皐月さんには、こちらの言い分を酌むつもりはないらしい。


「今の話の内容だと、高校生みたいね彼女。セーラー服着てたし」


「立ち聞きしていたんですか。いつから傍で眺めていたんです?」


「君が子供騙しの手に乗せられて、ほっぺたを突かれた辺りから」


「ほとんど最初からじゃないですかァ!? 趣味悪いですよ!!」


「いいわね女子高生。身近な恋愛に対する関心が高まる年頃よね」


「そうですかね。僕は高校時代にあまり興味がなかったですけど」


「でもえっちしたいとか、えっちしたいとか、えっちしたいとかぐらい考えたでしょう」


「高校生の男子が性交渉することしか考えてないような言い方、止めてくださいよ!?」


「大丈夫よわかってる。えっちはしたいけど純愛がいい、みたいな夢見がちな時期よね」


「いきなり遠い目にならないでくださいよ……。あと純愛を虚構扱いしないでください」


「思い出すわ高二の夏、初めての恋人は美術部の先輩だった。放課後にわたしの部屋で――」


「なんで唐突に生々しい体験談をはじめるんですか!? まだ僕バイト中なんですけど!!」


 必死でツッコミ入れ続けたものの、皐月さんはかまわず自由な発言を繰り返す。

 声量を抑え気味にやり取りするのも限界だ。付近の売り場で買い物していたお客さんが数人、こちらをちらっと横目に見てから通行していく。やばい。

 ていうか今夜は晴香ちゃんといい、異性に遊ばれてばかりいる気がするなあ……。



 それにしても、皐月さんは本当になぜ、僕のバイト先に姿を現したんだろう? 

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