27:お姉さんの恥ずかしいやり取り

 かくして、お姉さん二人のやり取りは、しばし間断なく続いた。


 気が付くと、あっという間にマンションの室内は薄暗さを増している。

 そろそろ日没が迫って、夕飯の準備に取り掛からねばならない頃合だ。

 それで何となく、ここの部屋で皐月さんも食事していくことになった。


 いつも通り、僕はリビングのソファから腰を上げ、キッチンに立った。

 冷蔵庫の中を今一度確認しながら、献立こんだてをどうするかで幾分思案する。

 食材自体は充分余裕があるので、一人前余計に用意するのは問題ない。

 あれこれ勘案した上で何を作るか決定すると、早速調理に取り掛かる。


 ……と、皐月さんがおもむろに目を白黒させた。

 まずキッチンの僕を見て、次にリビングでソファに座ったままの美織さんを見る。

 双方に何度か視線を往復させてから、考え深げな面持ちで、ごくりと息を呑んだ。


「もしかして美織さん、毎日ご飯を裕介くんに作ってもらっているんですか?」


 皐月さんは、額に汗を滲ませつつ、謎の興奮に瞳を輝かせている。


「まさか年下男子を囲って、身の回りのお世話をひと通りさせているとか……」


「ひ、人聞きが悪いこと言わないでよ。そこまで全部任せっきりじゃないもん」


 にわかに肩をびくっと震わせ、美織さんは慌てて取り繕うように言った。

 丁度、右手でコーヒーカップを傾け、左手でお茶菓子を摘まむ姿勢だった。

 思う存分くつろいだ様子からの発言には、客観的な説得力が感じられない。


 まあ、家事を担当している比率が高いのは、実際に僕の方だからなあ……。

 もちろん美織さんの言葉だって、すっかり嘘ってわけじゃないんだけどね。


 ただ何にしろ皐月さんは、反論を額面通りには受け取らなかったみたいだ。


「でも好みの男の子を、お金のちからで手元に置いていることには違いないじゃないですか」


「裕介くんがまるっきり、私とお金目当てで付き合っているみたいな言い方しないでよ!?」


「いえいえ、わたしは全然かまわないと思いますよ。『素敵な理想の男の子が、ひたすら優しく尽くしてくれる』なんて、女子として最高の憧れじゃありませんか? そういう夢のような生活を実現したんですよ美織さんは。……ええそう、お金のちからで」


「だからお金じゃないよ!? ピュアな関係だから私たちは!!」


 皐月さんの見解に対して、繰り返し純愛を主張アピールする美織さんだった。

 凄く必死だ。ちょっと両目を血走らせて、やや身を乗り出している。

 必死すぎて、逆に言い訳っぽく聞こえちゃう駄目なやつですねこれ。


 ていうか、むしろ以前「お金なら払う」って言って、結婚を迫ってきたことがあったけど……

 まあ恋人の名誉のためにも、ここではあえて言及するまい。それがたぶん僕のためでもある。



 とにかく、あくまで美織さんは綺麗な恋愛であることを、強く訴えていた。

 もじもじしながら、枯葉色っぽい瞳を僅かに伏せ、頬を桜色に染めている。


「そっ、そのぅ。裕介くんは、ちゃんと私のこと――」


 はにかんで美織さんが声を詰まらせる有様は、完全に乙女(※アラサー)だった。


「……あっ、愛してるって、いつも言ってくれるもん」


 …………。


 危うく手元が狂って、包丁で野菜じゃなく指を切るところだった。

 背筋を自然と冷や汗が伝う。調理中に勘弁してください美織さん。

 恥ずかしい事実を暴露され、こっちまで巻き添えになった恰好だ。



 皐月さんは、再び僕と美織さんを等分に眺め、生温い笑みを浮かべた。


「西村さんだって、わたしによく愛してるって言ってくれますよ。優しくピロートークで」


「だからぁ!! 私と裕介くんの関係は、そういうただれた感じの交際じゃないからね!?」


「本質的には大した変わらないでしょう。何度も言いますけど、お互い年の差恋愛ですし」


 何をどう突っつかれても、皐月さんは悪びれない。


 一方で美織さんは、コーヒーを飲み終えると、突如自らもキッチンに立った。

 何やら妙な意気込みを示しつつ、僕の傍らでせわしなく調理を手伝いはじめる。

 普段みたいに料理が完成するまで、のんびりしていてくれてかまわないのに。

 まあ、皐月さんの指摘に抗議する意図なんだろうけどね……。




 やがて夕食の準備が整い、ダイニングカウンターに人数分の皿が並べられた。

 三人で横一列に着席する。順に右から、皐月さん、美織さん、僕が腰掛けた。

 このとき、美織さんがやけに素早く真ん中の席へ座ったので、いささか面食らった。

 いったいどうしたのかと思って訊くと、ごく当然といった物腰で答えが返ってくる。


「だって、皐月ちゃんを裕介くんの隣には座らせたくないんだもん」


 凄まじい警戒っぷりだ。加えて独占欲の発露だろうか。

 皐月さんは、面倒臭そうな面持ちで、かぶりを振った。


「好きな男子の隣に他の女子が座るのは気に食わないだなんて、まるっきりクラスで席替えしたあとの小学生みたいなこと言わないでくださいよ美織さん」


「いいの。皐月ちゃんのことは、特別隔離しなきゃ駄目なんだから」


 呆れられても聞く耳持たず、美織さんは頑張っていた。


「もし皐月ちゃんに噛まれたりして、裕介くんが人間としての自我を保てなくなったら――私が自ら最愛の恋人を手に掛けなきゃいけなくなっちゃうもん」


「さっきから美織さんの中で、いったいわたしはどんな怪物モンスターなんですか。いくら何でも、男の子にいきなり噛み付いたりするほど欲求不満じゃありません」


 皐月さんは、心外そうに不平を漏らし、眉根を寄せる。

 夢魔の次に不死者アンデット扱いされれば、そりゃそうなるよね。

 それが死霊ゾンビ吸血鬼ヴァンパイアかはともかくとして。



 皆のグラスにワインが注がれ、ようやく食事がはじまった。

 メインディッシュは、圧力鍋で煮込んだビーフシチューだ。

 短時間調理だが、角切り牛肉はホロホロに仕上がっている。

 味付けもまずまずで、お姉さんは二人共喜んでくれた。


「――今日は半日、裕介くんのことを観察させてもらいましたけど」


 いくらか夕食が進んだところで、皐月さんが楽しげに切り出した。


「美織さんが彼を恋人に選んだ理由は、おおむねわかった気がしますよ」


「わざわざわかってもらいたいなんて、思ってなかったけどね私は」


 美織さんは、ワイングラスを傾けながら、うざったそうにつぶやく。

 すでに頬が少し赤い。今夜はいつにも増して飲酒ペースが早いなあ。


「おやおや、そうなんですか? それは正直なところ意外ですねー」


 皐月さんは、カウンターに片肘付きつつ、にやにやして言う。


「メッセージでのやり取りだと、全然そうは思えませんでしたけど」


 不意に美織さんが背中を丸めて、激しく咳き込んだ。

 ワインが気管へ入り込み、呼吸困難に陥ったらしい。

 僕は慌てて「大丈夫?」と声を掛け、背中をさすった。


「ねぇ裕介くん。これは今日の約束を取り付けようとして、わたしが美織さんに連絡取ったときのことなんだけどね――」


 皐月さんは、隣でむせる美織さんを放置し、こちらへ話し掛けてくる。

 瞳の中に悪戯っぽい光が宿っていて、嗜虐的サディスティックな喜びが見て取れた。


「美織さんったら用件が済んでも、君との惚気のろけ話を散々わたしにメッセージで送って寄越そうとしてきたのよ。そりゃもう、だらだらと何度も何度も……『裕介くんはいつでも私のことだけを見てくれるから好き☆』とか、『今夜はお風呂で彼の背中を洗ってあげるの♪』とか」


「うわあああああぁぁ黙ってぇそれ以上は言っちゃ駄目なのおおおおおおぉ――!!」


 美織さんは、弾かれたように顔を上げ、取り乱した様子で絶叫する。

 息を詰まらせている場合じゃない、とばかりに変わり身が早かった。

 元々薄く赤面していたのが、もはや耳の先まで深紅に染まっている。


 だが秘匿ひとく懇願こんがんされても、皐月さんは口を閉ざさなかった。


「初恋中の女子中高生だって、ここまで普通は舞い上がってないってレベルよ。しかもあっさり二人で初体験も済ませちゃったんでしょう? おかげで無駄にちょくちょくエロトークも混じるのが手に負えないっていう。――裕介くんに何をどうされると気持ちいい、みたいな」


「ぬあああぁだから駄目だってもう言わないでえぇ!!」


「そのうち『結婚するなら式場は星澄タワーにしよう』とか、『子供は二人欲しくて一姫二太郎が理想的』とか、そんな重たい将来設計の話まで、延々と垂れ流されたわ。ドロドロ濃厚の激甘メッセージを会社で仕事中に読まされて、こっちは胸焼けで吐きそうだったんだから」


「ううっ、ぅぐぐっ……。ぐはあああああぁ……ッ!!」


 皐月さんが肩をすくめる傍らで、美織さんは頭上を仰いで苦悶にあえぐ。

 喉をむしるように両手を動かしつつ、目の端に涙を滲ませていた。

 が、ほどなく身動ぎを止め、僕の側へ向き直る。



「ごめん、ごめんね裕介くん。いまだ中途半端に思春期をっているお姉さんで……」


 美織さんは、優しい微笑を浮かべ、穏やかに許しを乞うてきた。

 澄み切った声音の中には、自嘲と諦観ていかんが混在している気がした。


「お願い殺して。こんなにこじらせた恥ずかしいアラサー女は、生きてちゃいけないから」


「ちょ、ちょっと頼むから落ち着いてよ美織さん!」


 また美織さんが物騒なことを言い出したので、僕はぎょっとして制止を試みた。


 皐月さんにメッセージでの痴態をさらされ、肥大した羞恥心が美織さんを追い詰めたらしい。

 ていうか美織さん、たしか皐月さんから連絡が来た際、僕との同棲を隠そうとしていたような

ことを言っていたと気がするんだけど。何やら実情と齟齬そごがありませんかね? 


 そもそもあとから暴露されて死にたくなるのなら、無闇に惚気たりしなきゃいいのに……

 と思ったけど、やり取りの最中は夢中で、ついつい自分を抑えられなかったんだろうなあ。

 オタクな人が趣味についてしゃべりはじめると、いきなり饒舌じょうぜつになって止まらなくなるアレと近いかもしれない。美織さんって根がオタクそのものだし。


 でも僕は、そんな恥ずかしい美織さんが、何だか可愛らしく見えた。

 だからなだめるように声を掛けてやり、正気を取り戻させようとする。


「ねぇ美織さん。こじらせてたって、僕は嬉しいよ」


 皐月さんが間近で見ているかと思うと、こっちまで気恥ずかしい。

 けれど美織さんの肩に手を置き、僕は我慢して言葉を絞り出した。


「そんなふうに僕が知らないところでも、ずっと僕のこと考えていてくれるなんてさ……」


 息苦しさから逃れるように呼気を吐き、カウンターの隣を改めて眼差す。

 美織さんは、真っ赤な顔をくしゃっと歪めて、はなすする仕草をしていた。


 ……こりゃあ、相当に酔いが回ってきているみたいだぞ。

 若干当惑していると、直後に予期せぬ出来事が発生した。



 なんと、美織さんが僕にがばっと抱き付いてきて――

 そのまま有無を言わせず、猛然とキスしてきたのだ! 


「――むぐぅ!? ちょ、みおりさっ、ま、まって……!!」


 僕は、思い掛けない状況に面食らって、互いの身体を懸命に引き離そうとした。

 しかし美織さんは、こちらの背中に両腕を回し、捕らえて逃すまいとしている。


「はあはあ……ゆうすけくんっ! すきぃっ、すきぃ……!」


 どうやら美織さんの頭の中で、何かが弾けてしまったみたいだった。

 アルコールのちからを借りて、我を忘れたようにキスし続けてくる。

 これはやばい。厳しい。息苦しいし、正直ワイン臭い……。


 おまけにキスのあいだ、ずっと皐月さんが視線を送ってきている。

 あたかも害虫二匹を遠巻きに眺めるような、冷ややかな目だった。

「うわあ……」と、嫌悪感を示す声が喉の奥から漏れている。


 それでも美織さんは、ちっともキスを止めてくれない。

 酔った恋人からよだれと口紅を擦り付けられ、口元がべたべたに汚れていく。

 僕は、虚無の心になり、それを黙って受け入れ続けるしかなかった――……




     ○  ○  ○




 酔った美織さんのキスから解放され、夕食が済んだ頃には午後八時半を過ぎていた。

 皐月さんが辞去の意思を示したので、九〇一号室の玄関に立って見送ることにする。

 マンション前に帰りのタクシーを呼び出してから、皐月さんは靴を履いた。


「今日はお邪魔させてもらえて楽しかったです美織さん」


 部屋を出ていく際、皐月さんは慇懃いんぎんに頭を下げて、美織さんに礼を述べた。

 それから、次にちらりと僕を見て、何か含みのありそうな微笑を浮かべる。


「おかげで噂の裕介くんとも、こうしてきちんと知り合うことができましたし」


「私としては知り合って欲しくなかったけどねー。皐月ちゃんにはあげないし」


 美織さんは、自分の腕を僕の腕に絡ませながら、別れ際まで憎まれ口を叩いていた。

 半ばこちらへ寄り掛かっていて、いまだにアルコールの影響で顔が赤い。

 元来お酒に強いわけじゃないのに、けっこうぐいぐい飲んでたからなあ。


「それじゃ今日のところは、わたしはこれで失礼します」


 皐月さんは、そんな元会社の先輩の対応にも、最後まで微笑みを絶やさない。

 例の清楚系女子アナを彷彿ほうふつとさせる物腰で、品良く別れの挨拶を告げられた。


「そのうち、またお会いしましょう。――裕介くんもね」




 皐月さんが部屋を出て帰ると、美織さんはリビングのソファで眠りはじめてしまった。

 来客が去って緊張感が失せ、酔いが眠気に変わったんだろうな。安らいだ寝顔だった。


 そのあいだに僕は、室内を片付けておくことにする。

 使用済みの食器を食洗器にセットし、ゴミを集めて袋に詰めた。

 浴室の掃除も済ませ、給湯器の端末を操作して湯張りしておく。


 それから小一時間ほど経過すると、美織さんが目を覚ました。

 ソファの上で身を起こし、こちらへ居心地悪そうに向き直る。


「――本当に最初は裕介くんのこと、皐月ちゃんに隠しておこうとしたんだからね」


 いったい唐突に何の話をはじめたんだろう……と思ったものの、すぐにピンと来た。

 どうやら皐月さんにメッセージで惚気ていたことについて、何か弁明したいようだ。


「ただ会話の流れでいったん同棲がバレちゃったら、そこから先は途端に何もかもしゃべらずにいられなくなったというか。普段誰にも話す機会がないことだし、つい反動で……」


「さっきも言ったけど、嬉しかったよ。美織さんに自分が好かれてるってわかって」


 僕は、美織さんの隣に腰掛けて、笑い掛けてみせる。

 恥じらうお姉さんの姿を、無性に可愛らしく感じた。

 ……まあ皐月さんから聞いた話が全部事実なら、わりと惚気ていた内容は痛いけど。


「それにあくまで、皐月さんとのやり取りの中だけの話だよね? 不特定多数へ向けてネットに書き込みした、とかってわけじゃないでしょう」


「うん。それはもちろん、そうなんだけど……」


 だったらなんてことないよ、ともう一度重ねて慰めてやる。

 それでやっと、美織さんも(まだ照れていたけど)笑った。

 もうワインの酔いも醒めているみたいだった。



 さて、そろそろ落ち着いたところで、美織さんには入浴を勧めておこう。

 もちろん即座に「じゃあ一緒に入ろう?」と、誘われるのだって想定内だ。

 酔っ払って皐月さんの目の前でキスした件は、先に反省して欲しいけどね。


 二人のお姉さんと過ごした長い一日も、これでやっと終わる。

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