26:お姉さんは旧友の異能を語る
その後も皐月さんの交渉は続いたものの、決して美織さんが首を縦に振ることはなかった。
およそ二〇分に及ぶ説得も虚しく、結局イラストの発注は断念せざるを得なかったようだ。
「はあぁーやっぱり駄目ですかぁ~。ちぇーっ、わざわざ都内から出向いたのになあ……」
皐月さんは、やがて落胆の声を漏らし、リビングの天井を仰いだ。
「電話やメッセージで依頼しても断られると思ったから、直接お願いに来たんですけどォ」
「残念だったね皐月ちゃん、折角星澄まで来たのに骨折り損の
コーヒーのカップを傾けて、美織さんは慰めるように言った。
だが明らかに上っ面の言葉だけで、ちっとも心が篭もっていない。
まあ依頼を固辞した当人なんだから、そりゃ当たり前なんだけど。
「もぉ~他人事だと思って。同情するぐらいなら、発注請けてくださいよ」
皐月さんは、憮然とした面持ちで嘆息した。
かぶりを振りつつ、殊更に恨み節を続ける。
「こっちはおかげで、週明けの会議が一気に憂鬱になってきました。……ああぁ~、美織さんがイラスト執筆陣に加わってくれないの、けっこう痛いなあ。これ課長に伝えたら、絶対ネチネチ嫌味言われそうだわ。予算の見直しを迫られるほどじゃないにしても……」
「絵描き一人の不参加で成否が左右されるゲームなんて、たぶんキャラ物や恋愛系ジャンルでもなきゃ、そうそうないから大丈夫だよ。他に実績のあるイラストレイターさんが確保できれば、別段大した問題じゃないでしょう。ちょっと大袈裟すぎるよ、皐月ちゃん」
肩を竦めて、美織さんは諭すように言う。
皐月さんは「それはそうだと思いますけど……」と返事しつつも、無念そうだった。
よっぽど依頼を引き受けてもらえなかったことについて、未練を感じているらしい。
そうした有様を眺めていて、僕は「もしかすると皐月さんはイラストの商品価値が高いことを差し引いても、美織さんと一緒に仕事がしたかったのかな」と思った。
かつて、二人は会社の同僚で、美大時代にも先輩後輩だったという。
やっぱり気心知れた者同士でなきゃ、そこまで長く親交は続くまい。
いまや美織さんはゲーム会社を退職したけれど、皐月さんは企画で起用するイラストレイターを選ぶことができる立場になった。
それで皐月さんが再度、二人で同じ作品に関わりたいと考えたとしても、おかしくはない。
僕は、もし恋人である美織さんを、そんなふうに皐月さんが慕ってくれているんだとしたら、とても素敵だなと思った。
「あの、それにしても凄いですね――」
お姉さん二人の会話が途切れたタイミングで、僕は率直な感想を述べた。
「まだ瀬尾さんは若いのに、お仕事で自分の企画を抱えているだなんて」
「ああ、わたしを呼ぶなら苗字じゃなく、皐月って下の名前でいいわよ」
一応ファーストネームで呼ぶのは遠慮したのだが、皐月さんは鷹揚に言って微笑んだ。
まあ僕も頭の中では、すでに美織さんと同じように呼ばせてもらっていたので助かる。
そうして、皐月さんは自分の呼び方に許可を与えてから、話題を戻して続けた。
「けっこうゲーム会社って、開発スタッフの平均年齢が若い現場だから。企画を会議で通すことができれば、わたしぐらいの年齢でもコンテンツをひとつ任せてもらえたりするの」
「……でもまあ、そうは言っても、現実は大抵思い通りにいかないものだけどねー」
皐月さんの説明に耳を傾けていると、美織さんが横から割り込んでくる。
「先輩社員にだって、当然優秀な企画を提出する人は沢山居るし。その競争を勝ち抜いた上で、上司を会議で説得できる材料がなきゃ、自分が作りたいゲームなんか作らせてもらえないもん」
「へえぇ。じゃあ企画が採用されたのは、やっぱり皐月さんが優秀な証拠なんじゃないですか」
僕は、感心してうなずき、殊更に尊敬の念を抱いた。
ささやかながら憧憬を込めて、美織さんが辞めた会社の元後輩女性を眼差す。
と、皐月さんは虚を衝かれた様子で、ややはにかむような面差しを覗かせた。
わざとらしく咳払いし、ソファに座ったまま、こちらへおもむろに向き直る。
「……あー、裕介くん。実は君って、なかなか女性を喜ばせるのが上手みたいね」
皐月さんは、茶色い瞳を僅かに潤ませ、じっと探るように見詰めてきた。
微妙な上目遣いの角度から、不思議な磁力を帯びた視線が送られてくる。
僕は、反射的にどきりとさせられ、むず痒さで少し怯んだ。
こちらの反応を楽しむようにして、皐月さんはまた微笑む。
「よく見ると、けっこう顔も可愛いし。これは美織さんがハマるのも無理ないわ」
「ちょっと皐月ちゃん。変な色目使わないでって、さっき釘を刺したはずだけど」
美織さんは、不平そうに口を尖らせて言った。
けれど、まるで皐月さんは悪びれたりしない。
「すみません美織さん。年下男子の
「ほらあああああぁぁ――!! そうやってすぐ皐月ちゃんは物欲しそうにするううぅ!!」
美織さんは、顔を真っ赤にして叫ぶと、僕の身体を両手で自分の側へ抱き寄せた。
突然ソファの隣へ引っ張られ、バランスを崩し、半ば上体から倒れ込んでしまう。
一瞬、目の前が暗転し、次いで顔面を謎の柔らかな感触が襲った。
この柔らかい感触の正体を、しかし僕はここ最近よく知っている。
――美織さんのおっぱいだ。
無理やり引き寄せられたせいで、僕は今恋人のおっぱいに顔を埋めている。
二人で夜を過ごす際には、すでに触れ慣れた感触だが、もちろん人前でこんな体勢を取るのは初めてだ。おまけに顔を上げて起き上がろうとしても、容易に身動きが取れない。
美織さんは、左右の腕を僕の首にがっちり巻き付けて、固定したまま離すまいとしている。
……いや、ていうかこれ、普通に息が苦しい……。
でも口元がおっぱいで塞がれていて、声が出せないから上手く助けを求められない。
しかも美織さんは、すっかり皐月さんとの会話に夢中で、解放してくれそうにない。
でもって皐月さんも、そんな状況を平然と受け入れていて、気にする素振りもない。
「絶対あげないって言ったでしょー!! 皐月ちゃんも今は彼氏居るんじゃなかったの!?」
「やだなあ美織さん、だから私だって欲しいとは言ってませんよ。浮気する気もありません」
「あのね皐月ちゃん。浮気しないのは人として当たり前で、ドヤ顔することじゃないからね」
「まったく美織さんも心配性ですね、ちょっと彼氏が他の異性から話し掛けられたぐらいで」
「皐月ちゃんが誇る過去の圧倒的な実績に対して、私なりの敬意を表してるんだよこれは!」
「さすがに大恩ある先輩の恋人にまで手を出したりしませんよ。若干きゅんとしただけです」
「きゅんともしないでよ!? ああもう、本当に昔から男の子に見境がないんだから~!!」
やがて美織さんは、僕の両肩をがしっと掴んだ。
そのまま上体を起こされ、元の姿勢を取り戻す。
おっぱいの海から浮上すると、ようやく新鮮な空気を
危なかった。ふわふわのおっぱいで溺れたまま、もう少しで窒息するところだった。
だが恋人の心肺機能が直面していた危機について、美織さんは気付いていないらしい。
「しっかりしてね裕介くん。この子って学生時代から、典型的な『お姫様』だったんだから」
「……さ、皐月さんがお姫様って、いったいどういうことですか?」
頑張って呼吸を整えながら、忠告めいた言葉の不明点をたずねた。
美織さんは、険しい面持ちで、真っ直ぐ僕の目を覗き込んでくる。
「それはつまりね、サークルクラッシャーのお姫様、ってことだよ」
【サークルクラッシャーのお姫様】――
まだ少し酸欠気味のぼんやりした頭の中で、その意味を僕は反芻した。
たしか「課外活動団体などで色恋沙汰に周囲を巻き込み、人間関係を破綻させる女性」のことだっただろうか。略称「サークラの姫」。該当女性がサブカルチャー系団体(オタクサークル)に所属する場合だと、しばしば「オタサーの姫」とも呼ばれる。
まだ僕が大学に在籍していた頃にも、何度か耳にしたことのある言葉だ。
――かつては皐月さんが、その「サークルクラッシャー」だったって?
僕は、まず美織さんの真剣な顔を見て、次に皐月さんの柔和な微笑を見てから……
もう一度、美織さんの顔を見た。枯葉色の瞳が切実な光を湛え、信じて欲しいと訴えている。
「あのね裕介くん。わたしの話も、聞いて欲しいんだけど」
そのとき、皐月さんが甘い声音で、ゆっくりと語り掛けてきた。
「誰かを好きになることって、とても素敵だと思わない?」
「皐月ちゃんは片っ端から好きになりすぎでしょ――!?」
間髪入れず、再び美織さんのツッコミが飛んだ。
ソファから立って、皐月さんを厳しく指弾する。
「ちっとも美大時代から変わってないっていうか! あの頃だって身近な男の人を手当たり次第に引っ掛けて、私が四年生のときには同人誌即売会で知り合った女の子から彼氏を寝取ったことまであったじゃない!? 二股までは平常運転で、仲良くなった年上男性から色々貢がせたり、集団行動では自分のワガママを通すために複数の男の子をまとめて誘惑してみたり――……」
そこまでひと息に
どうしたんだろうと不可解に感じて、困惑しつつ様子を窺ってみる。
美織さんは、かすかに肩を
畏怖の念に打たれたような表情を浮かべて、左右の瞳を見開いている。
まるで何か「危険な事実に気付いてしまった」とでも言いたげだった。
「……ねぇ皐月ちゃん。ひとつ質問してもいいかな」
美織さんは、幾分落ち着いた口調を取り戻してたずねた。
ただし努めて平静さを保とうとしているようでもあった。
「今お付き合いしてる男性って、どこのどんな人?」
どういうわけか質問された途端、ちょっとだけ皐月さんの目が泳いだ。
口元には、ばつの悪さを誤魔化すような、愛想笑いが張り付いている。
「えーっとですね。美織さんも、知ってる人ですよ」
「それは誰? この際だし名前も教えて」
「……ゲーム開発事業部の
「西村さんって――もしかして、西村部長のことなの!?」
美織さんが驚きを含んだ口調で問い返すと、皐月さんは控え目に首肯した。
「もしかしなくても、おっしゃる通り西村部長のことです」
その返事を聞くや、美織さんは「うわあぁ~……!」と、ドン引きした様子で
よろめきながらソファに再び腰を下ろすと、頭痛を堪えるように右手で額を抑えた。
「何だかおかしいとは思ってたんだよ……。まだ入社五、六年目で動画制作スタッフ出身の皐月ちゃんが、第二開発室のソシャゲとはいえ、たっぷり予算が付く企画を任されるだなんて」
「……エアロ在籍時代、たかだか入社二年足らずで『アルサガ3』のメインキャラデザイナーに
皐月さんは反論したものの、
すると、美織さんはうんざりしたように続ける。
「さては西村部長を
「単に好きになった人が部署の上司だっただけですよ。自由恋愛の範囲です」
追及に対して、皐月さんは居直ったように回答し、否定しようとしない。
またもや美織さんは「うわあぁ~……!」と、頭を抱えて呻いてしまう。
「ていうか西村部長って何歳?」
「今年で四六歳ですね、たしか」
「ほぼ二〇歳年長じゃない!?」
「年の差恋愛だったら、上か下かの違いだけで美織さんも同じじゃないですか?」
「私と裕介くんは七歳差だよ! 姉弟程度の差で、親子ほどまで違わないもん!」
「単に好きになった人が二〇歳近く年上だっただけですよ。自由恋愛の範囲です」
「――ちょっと待ってよ皐月ちゃん。そう言えば西村部長って、既婚者だったよね!?」
「それなら大丈夫ですよ、もう今は独身ですから西村さん。なので自由恋愛の範囲です」
「今はってどういうこと!? 奥さんやお子さんはどうしたのっ!?」
「半年前に離婚したんですよ西村さん。だから何の問題もありません」
「ち、ちなみに皐月ちゃんと西村さんは、いつからお付き合いしてるの?」
「……えーっと、だいたい一年前ぐらいからでしょうかねー? うふふっ」
「って『うふふっ』じゃないでしょおおぉ――!? それ皐月ちゃんが原因じゃないの!?」
「まあまあ美織さん、ちょっと落ち着きましょうよ。ほら、
「この流れで皐月ちゃんが言っていい慣用句じゃないよねそれ!?」
「あっ、裕介くんが淹れてくれたコーヒー、すっごく美味しいー♪」
「ちっとも聞いてないよこの子!?
「裕介くん、いつも美織さんにコーヒー淹れてあげてるの? ふーん、
「あああああああ、ていうか私の裕介くんにこれ以上話し掛けないでええぇ――!!」
美織さんは、悲痛な声で叫びながら、皐月さんを強く制止しようとする。
ソファに並んで腰掛けたまま、改めて僕へ深刻そうに警句を発してきた。
「裕介くん、美人だからって皐月ちゃんに惑わされちゃ駄目だよ! 精気吸い取られてない?」
「あの、わたしを
皐月さんは、コーヒーカップを傾けつつ、眉を
不当な言い掛かりは心外です、とでも言いたげな物腰に見えた。
尚、あとから詳しく話を聞いたところによると――
西村部長とかつての奥さんの婚姻関係は、どうやら一年以上前から破綻していたらしい。
それも元々は部長じゃなくて、奥さんだった女性の方が浮気していたのだという(!)。
ゲーム会社の仕事が忙しく、部長がなかなか自宅に帰れなかったせいで、元の奥さんは近所の若い男性と不貞行為に及び放題だったそうな……。
つまり皐月さんと部長が交際したときには、いわゆる「
おかげで別れ話も案外すんなり纏まって、比較的順当に協議離婚が成立したのだとか。
「わたしの存在は離婚の決定打だったかもしれませんけど、根本的な原因ではないですし、西村さんの家庭は交際前からメチャクチャだったんです!」
と、皐月さんは強く主張していた。
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