第四章「お姉さんの女友達」

23:お姉さんとの生活リズム

 僕とお姉さんが恋人同士になって、そろそろ三週間余りが過ぎた。


 そのあいだに平伊戸のアパートからは、梱包こんぽう済みの荷物が次々と運び出されている。

 搬入先はもちろん、美織さんの住むマンション「ロイヤルハイム雛番ひなつがい」九〇一号室。

 二人がひとつ屋根の下で暮らす準備は、着々と進行しているわけだった。


 これまで住み続けていたコーポ平伊戸ひらいどの部屋も、随分と殺風景になってしまった。

 寝具や洗面道具、あと多少の衣類の他は、必要最低限の家財が残っているだけだ。

 電気会社や水道局にも退去日は連絡したし、不要な家具を廃棄する手筈てはずも整えた。

 かくしてアパートの賃貸借契約も、六月末までの残り一週間と少し。


 もっとも、雛番のマンションで過ごす機会が増えて以来、僕が平伊戸のアパートで寝起きすることは、とっくに四、五日に一度ぐらいしかなくなっていた。

 まだコーポ平伊戸の部屋を引き払っていないだけで、もう事実上の半同棲ははじまっているといってよさそうな状況だと思う。


 今でもアルバイトは続けているけれど、大抵スーパーを退勤したあとは雛番へ向かう。

 美織さんと毎晩一緒に入浴し、寝室で愛し合ってから寝るのが日常になりつつあった。

 夢のような日々が逆に怖くなる瞬間はあるものの、抜け出そうという気にもなれない。

 お姉さんは素晴らしく魅力的な恋人で、僕も求められれば応えずにはいられなかった。



 ましてや幾度も夜を越えるうち、二人は互いに多くを学んだ。

 常に同じ営みでは飽き足らず、様々な愛し方を試し、堪能するようになった。

 取り分け美織さんは貪欲で、僕を目一杯喜ばせようと率先し、導いてくれる。

 しかも相変わらず、平均的な女性なら忌避感を抱きかねない行為だろうと、それほど躊躇ちゅうちょなく実行しようとするんだよね。その都度、軽い驚きを覚えてしまう。


 そうした知識の源泉がサブカルチャーコンテンツ(成人向け)にあることは、前々から察しが付いているけど――やっぱり、いささか不思議に思えてならない。

 なぜお姉さんは、こんなに性行為で積極的になれるんだろうか? 


 僕は、どうしても気になって、その要因を遠回しに探ってみたことがある。

 すると、おそらく疑問の真相と思しき、予期せぬ背景を知らされたりした。


「実は昔、メチャクチャ恋愛経験の豊富な女友達が居たんだよね」


 美織さんは、どこか遠いところを見る目つきになっていた。


「あるとき、その子から『現実の男性は、乙女ゲームやBL漫画みたいにキラキラしていない』なんて言われたことがあって。――それ以来、たぶん男の子とえっちなことするためには、何か凄く醜いものに触れなきゃいけないんだって、ずーっと覚悟を決めていたんだけど」


 そこまで話してから、ふふっ、とお姉さんは過去の自分を懐かしむように笑う。


「でも、裕介くんと初体験した日にね。お風呂で初めて君の裸を見たら……あれ、想像していたよりは全然汚くないかも?って思って。そうしたら、もう大抵のえっちなことなんか、ちっとも嫌じゃなくなったんだ。むしろ色々試して、君に喜んでもらえると嬉しくなったし」


 …………。

 つまり、実情以上に最悪の想定を抱き続けていたら、現実に遭遇しても問題なかったと。

 何ですかね、その「高地トレーニングで心肺機能の負荷に耐えた長距離ランナーが、低地開催の競技に参加したらメチャクチャ速く走れるようになっていた」みたいな逸話は。




 まあ、それはともかく。

 かくして、僕ら二人はある日の夜更けも、夢中で男女の交わりに及んでいた。


「……とっても素敵だったよ、まだ身体がちょっとふわふわしてるもん」


 薄暗い寝室の中で、美織さんが優しく微笑む。

 ベッドの上に寝転がったまま、僕は年長の恋人を見上げた。

 お姉さんは、僕の腰の上に跨り、こちらを見下ろしている。

 まだ互いを求め合った直後で、二人共一糸まとわぬ姿だった。


「ねぇ裕介くん。ちゃんと君も、私と一緒に気持ちよくなってくれた?」


「もちろんさ。美織さんがいとおしすぎて、頭の中が変になりそうだった」


 甘い声音で問い掛けられ、僕は愛の行為の余韻に浸りながら答えた。

 暗がりに浮かぶ美織さんの裸身を眺めているだけで、昂ぶりがよみがえる。


 今夜は、お姉さんが僕の身体へ馬乗りになって、いっそう深いつながりを欲しがっていた。

 強請ねだられるままに結ばれると、二人で律動するたび、豊かな双丘が繰り返し上下に揺れた。

 綺麗な裸体を余すところなく見せ付けられ、酷く興奮をき立てられたんだよな……。


「そんなによかった? ――君が沢山喜んでくれるの、やっぱり嬉しい」


 美織さんは、左右の手のひらを伸ばし、僕の頬をそっと挟んだ。

 華奢きゃしゃな指先から、柔らかな感触とかすかなぬくみが伝わってくる。

 僕は、お姉さんを自分の上に乗せたまま、身体を起こした。

 胡坐あぐらきながら、おもむろに恋人の細い腰へ両腕を回す。


 僕の両足の上に美織さんを座らせ、抱きかかえる姿勢になった。

 双方全裸で向き合って、互いに正面から顔をじっと覗き込む。



「どうしたら、僕は美織さんに報いることができるんだろう」


 僕は、自分の額を美織さんのそれに重ねつつ、真剣に囁いた。


「こんなに色々尽くされて、何を返せばいいかわからないよ」


「……もう充分、私は報われてるよ。君と恋人同士になれて」


 はにかみながら、美織さんが小声でつぶやく。


「以前にも言ったけどね。七歳年下の男の子から、私は未来の可能性を奪おうとしてるの。それだけでも、裕介くんは私のために多くのものを費やしてくれてる、って思ってるから」


 僕は、お姉さんを殊更ことさらに引き寄せ、丁寧にキスした。

 肌と肌とを密着させつつ、相互にじっくり唇を味わう。

 ふわふわした長い栗色の髪を、そのまま何度も撫でた。


 正式な交際開始以降、ますます僕は美織さんに心奪われていた。

 綺麗で、愛嬌があって可愛らしく、いつも健気に受け入れてくれるお姉さん。

 抱き合っていると、年上とはいえ、か細くはかなげで、愛おしさが否応なく増す。

 どうあっても、このひとには幸せになって欲しい、と願わずにいられない。


 愛の営みの中で、幾度もつながるほど、いっそう美織さんの幸福を望む心理が強くなる。

 相手を求めながら、相手に何もかも捧げ、どうなってもいいとさえ感じる瞬間があった。

 どうせ僕はフリーターで、家族とも縁が切れている。失うものを多く持たない。



「あのね裕介くん。今夜はもっと、いっぱい愛して欲しいな」


 美織さんは、うっすら頬を桜色に染めながら言った。

 夜闇の中でも、間近で見詰め合っているからわかる。


「もう一度二人でひとつになって、まだ君のことを感じたい」


「……うん、そうだね。僕も美織さんと、つながっていたい」


 恋人から再び求められ、自分は改めて果報な人間だと思った。

 ますます情愛が深まり、お姉さんに魅了されずにいられない。


「それじゃ、次はどんなふうに愛し合おっか」


 美織さんは、何して遊ぶかで迷う子供みたいに言った。


「こないだみたいに、後ろから抱いてみる?」


「後ろからか……。うーん、それはちょっと」


 美織さんとひとつにつながることは、いつだって素晴らしい。

 でも、背後からの姿勢で行為に及んだ際には、いささか精神的な物足りなさを感じた。

 きっと僕は、つながっているあいだも、ずっと美織さんの顔を見ていたいんだと思う。


「折角、二人で対面しながら座ってるんだし、このままひとつになれないかな?」


 だからお姉さんと意思の疎通を図ろうとして、自分の希望を伝えてみた。

 美織さんは、枯葉色っぽい瞳に柔和な光を宿し、こちらを見詰めている。

 あたかもすべてが許されそうな、愛情深い視線だと思った。


「いいよ。裕介くんと向き合いながら、座ったままでつながるのは、私も大好き」


 すぐに同意してから、美織さんはちょっぴり揶揄からかうように続けた。


「実は君って、けっこうロマンティストだよね?」


「えっ、そうかな。どうしてそんなふうに思うの」


「だって、顔を見ながらなのが好きなんでしょう」


 咄嗟とっさに訊き返してみると、見事に図星を指された。


「そこに固執するのって、とっても雰囲気優先な感じがするなって」


「……美織さんだって、向き合いながらは好きだって言ったじゃん」


 不平を感じて抗弁したものの、そこでいったん会話は途切れた。

 今度は美織さんからキスしてきて、僕の口唇がふさがれたせいだ。


 結局、夢想家なのはお互い様なんだと思う。

 実際家のアラサー女子は、たぶん乙女ゲームや少女漫画を愛好しない。

 そうして、僕は夢見がちな年上女性が好きだし、誰より愛おしかった。


 キスに反撃して、お姉さんの身体を優しく手でいつくしむ。

 そのまま隅々まで触れ、さすり、あるいはほぐしていった。

 美織さんの面差しにはひととき、切なさと幸福がにじむ。

 その美しさを目の当たりにすると、僕は一段と昂った。


「美織さん、愛してる。どうしようもなく好きなんだ……」


「……うん、私もだよ。君のこと、もっと包んであげるね」


 目で合図を交わすと、美織さんは僕の膝の上で、少し身動みじろぎした。

 こちらに向かって足を開き、迎えるように下腹部の位置を変える。

 それから、二人で互いに腰を合わせた。




     〇  〇  〇




 さて、こうした甘美な営みも、徐々に日常へ組み込まれるようになると。

 いよいよ二人で暮らす日々の中にも、一定のリズムが形成されはじめた。


 まずは朝、起床後は互いに身形を整え、キッチンで一緒に朝食を用意する。

 次いで、美織さんは午前中の仕事を開始し、僕は掃除と洗濯に取り掛かる。

 僕が昼ご飯を用意し、正午過ぎにお姉さんとダイニングカウンターで食事。


 午後になり、美織さんが仕事に戻ってからは、僕も再びキッチンに立つ。

 お姉さんが夜に一人で食べる晩ご飯を、事前に作り置きしておくためだ。

 温めれば食べられる状態に調理し、冷蔵庫の中にラップを掛けて入れる。

 こうやって用意しておかないと、美織さんはイラストを描く作業に夢中になりすぎて、頻繁に夕飯を食べ忘れるんだよな。一緒に生活しているうちによくわかった。


 その後は夕方まで、ゲームを遊んだりネットを眺めたりして、多少暇潰し。

 所定の時間が来たら、マンションを出てスーパー「河丸」でアルバイトだ。

 退店したあと、雛番まで戻ってからは(美織さんと二人で)入浴して就寝――……



 おおむね平日に関しては、そういったサイクルで一日が経過するようになってきた。


 休日以外だと、家事全般を僕が受け持つ機会が多いけれど、不満は一切感じない。

 美織さんには、是非イラストレイターとしての仕事に集中してもらいたいからね。

 それに結局のところ、家賃の他、水道光熱費や食費まで、僕は現状でかなりお姉さんの経済力に頼ってしまっているんだよな。通信費や保険料の類は、自腹で負担しているけれど。

 だから、これぐらいしないと同棲していても、正直あまり居心地良くないってわけ。


 もっとも美織さんは、僕が日々あれこれと家の中の雑事を処理することについて、いつも純粋に喜んでくれているみたいだった。



「――裕介くんが、私の理想の王子様すぎてしんどい」


 悩ましげな溜め息を吐いて、美織さんがしみじみした口調でつぶやく。

 枯葉色っぽい瞳が物憂げにきらめき、どこか陶酔したような面持ちだった。

 これには恋人とはいえ、さすがに僕も軽く引かざるを得ない。


「いきなり、何をそんな恥ずかしいこと言ってるの?」


「だってぇ……。面倒臭いことは、君が全部片付けてくれるし」


「あのね美織さん、ちゃんと王子様と雑用係の区別付いてる?」


「昔からイラストさえ描いていれば、それだけで生きていられる暮らしが夢だったんだもん」


 こちらのツッコミに対しても、美織さんは一向に取り合おうとしなかった。


「しかも年下男子が毎日ご飯作って好き好きって言ってくれる……本当に夢の生活だよ……」


「いやちょっと、それは特定の要素にだけ偏って意識が向いていて、若干喜びすぎなのでは」


 何度も言うけど、僕だってお姉さんの存在から多くの恩恵を受けている。

 自分一人が幸福になっているような思い込みは、まったくの誤解なんだ。

 まあ、仮に互恵関係が将来破綻したって、たぶん美織さんをそばで支えたい気持ちが変わりそうにはない気もするけどね……。


 しかし美織さんは、あくまで耳を貸そうとしない。


「はああぁ~。私は裕介くんが大好きだって、この気持ちを世界中に広めたい……」


 乙女感たっぷり(※アラサー)の声音で、夢見るようにつぶやく。


「具体的な手段としては、短文投稿サイトツイッターに連投でコメント書き込みしまくりたい」


「それは本当に具体的すぎるし、絶対客観的には痛々しいから止めておこうね!?」


「じゃあ、ひとまず二人でベロチューしている画像を投稿するぐらいにしておく?」


「余計に良くないと思うんだけど!? ていうか見せびらかしてどうしたいの!?」


 お願い忘れないで!? 大人の女性としてのつつしみを!! 

 二人で童貞と処女を卒業したことだって、無闇に公表したりしなかったじゃないの。

 どうして付き合いはじめた頃より、今になってからの方が自制心が衰えてるんです?


 なんて思ってたら、また美織さんの口から、さらっと恐ろしい言葉が飛び出した。


「実は私のスマホには、寝てるときに撮った裕介くんの全裸画像が保存されていて」


「知らないあいだに何をしてるの!? どうするつもりさ僕の全裸画像なんて!!」


「大丈夫だよ安心して……。単に万一別れ話を切り出されたときの保険だから……」


 何ひとつとして安心できない話だった。

 むしろ怖さしかありませんよお姉さん。

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