17:お姉さんは、そして僕の過去を知る。

 休憩を済ませたあとは、今夜も品出し作業の後半戦に臨む。

 やがて午後九時半を過ぎ、晴香ちゃんが退勤してからも(もちろん帰宅する前には、しっかり挨拶に来てくれた)、僕は終業時刻まで入荷した商品を陳列し続けた。


 そうして、慣れた手順に従いながら、担当業務に取り組んでいる最中――

 ずっと頭の中では、晴香ちゃんと交わした会話について考えを巡らせていた。


 とはいえ、休日の過ごし方とか恋人の年の差とか、個々の具体的な内容に関して、殊更に思案したくなるような部分があったわけじゃない。

 僕が引っ掛かっているのは、もっとやり取りの根底に横たわっていた感覚だった。



 おそらく、それは青春の温度差なんだと思う。


 仲のいい友達と過ごす、ごくありふれた高校生活。

 週末は駅前に集まり、映画やカラオケで遊ぶ日常。

 身近に恋愛を感じて、外の世界へ目を向けていく……


 過去の僕には、どれもありそうでなかったものばかりだ。


 かつて、中高生だった頃。

「ひょっとして自分にも小説やドラマで語られるような、瑞々しい青春が訪れるのだろうか」

 と、多少なりと思い描いてみたことはある。

 積極的に期待したわけじゃないけど、あり得る可能性として想定ぐらいはしていた。

 しかしそんな機会は現実にはなくて、中高生時代は漫然と過ぎ去ってしまったんだ。


 もっとも、だからって失われた青春を、取り戻したいとは思わない。

 充実した高校生活をうらやむ気持ちはあるにしても、ねたんだりはしない。


 今現在の僕には、少なくとも美織さんというかけがえのない恋人が居る。

 もし異なる青春を歩んでいたら、彼女とは出会えなかったかもしれない。

 その運命を手放すだなんて、とんでもないことだ。


 また、仮に高校時代をもう一度やり直せるとしても、きっと僕は同じ日々を送るだろう。

 人間の性格には向き不向きがあって、華やいだ青春を美しいと感じても、そこに誰もが憧憬しょうけいを抱くわけじゃない。

 だから、自分の過去に悔いがないとは言わないけれど、憎んだりはしていない。



 ――けれども、ずっと何かが引っ掛かっている。


 繰り返すが、僕は別段充実した高校時代を望まなかった。

 ましてや今更、過去にさかのぼってやり直したいとも思わない。


 にもかかわらず、「ありふれた青春の温度」に触れると、心が怯んでしまうんだ。




     〇  〇  〇




 バイトを終えて、スーパーから退店する。

 地下鉄に乗って北区まで揺られ、再度「ロイヤルハイム雛番」に戻った。

 昨夜と同じ手続きを踏んで、美織さんに九〇一号室へ引き入れてもらう。


「おかえりなさい裕介くん。今夜も遅かったね」


 出迎えてくれたお姉さんは、日中と同じメガネを着用した姿だった。

 右手にはペンマウスを握っている。まだ仕事をしていたのだろうか。


 と、部屋の中を見回した際、にわかに妙な違和感を覚えた。

 どういうわけか、キッチンの様子に不自然なものを感じる。

 ほんの少し考え込んだものの、ほどなく原因に気が付いた。


 アルバイトで外出する前と比して、キッチンに寸分の変化も見て取れないのだ。

 食洗器の内部に放置されている食器類は、明らかに昼食で使用したものだった。

 棚に並ぶ調理用具や調味料も、まるで使用された形跡がない。

 極め付けは冷蔵庫の中身で、食材が少しも減っていなかった。


 この状況から推測される事実は、たぶんひとつだろう。

 やや不可解だけど、名探偵じゃなくたって察しは付く。

 僕は、首を捻りつつも、お姉さんに問い質してみた。


「美織さん、ひょっとしてまだ夕飯食べてないの?」


「……あー、うん。今日は筆のノリが良かったから」


 美織さんは、ちょっと目を瞬かせてから、へらっと笑う。

 うっかり忘れていた些事さじを、誤魔化すような態度だった。


「まあ絵を描いていると、いつもよくあることだよ。あはは」


「あははって……。途中で休憩ぐらい入れなかったんですか」


「今は作業中断してるけど。裕介くんが帰ってきてくれたし」


 尚、お姉さんの話によると、昼間に描いていた絵は無事納品済みだそうだ。

 しかし夕方頃からは、新規案件のイラスト執筆に取り組みはじめたらしい。

 夕飯を食べるにも少し早い時間帯だったので、そのまま作業を継続し――

 夢中で手を動かしているうち、現在に至ってしまったとか。


 僕は、半ば呆れ、半ば心配になった。

 アルバイトで部屋を出たのは、午後一時よりも前。

 今の時刻は、とっくに午後一一時半を過ぎている。

 つまり、昼食後から一〇時間以上ぶっ通しで、イラストを描いていた計算になる。

 午前中に仕事していたぶんも加えるなら、労働時間は一二、三時間に及ぶだろう。


「こんな時間になるまで、何も食べたくならなかったの」


「言われてみればちょっとだけ、お腹が空いてきたかも」


「忙しくても食事は取らなきゃ、身体に悪いよ美織さん」


「……裕介くんって、お母さんみたいなこと言うんだね」


 注意したら、お姉さんはメガネの奥から半眼で睨んできた。

 不平そうに眉根を寄せ、口唇は「へ」の字に曲がっている。

 叱られた小学生ですか(※アラサー独身限界オタク女子)。



「しょうがないなあ。簡単なもので良ければ、何か食べ物作ってあげるよ」


 僕は、かぶりを振りつつ申し出て、キッチンに立つ。


「もう夜も遅い時間だし、料理しているあいだに仕事は切り上げておいて」


 調理の準備に取り掛かると、美織さんは何か言いたげな表情を浮かべた。

 だが結局、むーっと唸っただけで口を閉ざし、仕事部屋の中へ引っ込む。

 こちらの提案を受け入れて、中断していたイラスト執筆の作業に戻ったらしい。

 その有様をキッチンから見送りつつ、鍋でお湯を沸かし、調理台で食材を刻む。


 ……それにしても、お姉さんの色々な面が徐々に明らかになってきたな。

 ここの部屋に出入りするようになって、まだほんの三日足らずなのにさ。

 端的に言えば、予想以上に高性能ハイスペック女子で、見た目以上にぽんこつキャラ。


 まあ、お姉さん以上にクズ人間の僕があれこれ言えたこっちゃないけどね。

 それにぽんこつで手が掛かるお姉さんも、それはそれで可愛いと思うし……


 とか何とか、脳内であれこれ思考を巡らせつつ。

 茹で上がったパスタを、手元のフライパンで具材やソースと合わせる。

 素早く混ぜて絡めれば、即席ナポリタンの完成だ。所要時間は二〇分。


 料理を皿に盛り付けていると、お姉さんが仕事部屋から引き返してきた。

 イラスト執筆時に着用するメガネも外し、平時の裸眼状態に戻っている。


「やっぱり、裕介くんは早く専業になるべきだと思うんだよね」


 美織さんは、ダイニングカウンターの椅子に座ると、ぼそっとつぶやく。

 何だか、食事を作るたびに毎回結婚を迫られているような気がするなあ。


「何度も言うけど、まだ厳密な意味での同棲すらはじまってないよ」


 仕方ないので、改めて釘を刺しておく。


「むしろ、交際三日目がようやく終わろうとしているところだから」


「えーっ。だけど『女子三日会い続ければ覚悟してめとるべし』って、ことわざもあるじゃない」


「三日会っただけで誰もが結婚してたら、世の中スピード婚の夫婦だらけになるよ!?」


「尚、女性の居宅で三日外泊した責任を取ることは、古くから『三婚の礼』と言います」


「凄い捏造ねつぞう慣用句なんだけど! ていうか責任取る目安が同棲するより遥かに低いよ!」


「でもね、『死せる前に婚礼、生きてるうちにチュー沢山しよ?』とも言うし」


「もはや『死せる孔明、生ける仲達を走らす』の原形留めてないよねそれ!?」


 なぜか次々と変造した故事成語を繰り出してくるお姉さんだった。

 ひょっとして『三国志』好きか。まあ僕も嫌いではないですがね。



「まあ、いずれ責任を取ってもらう件は置いておくとして」


 他愛ない掛け合い漫才のあと、美織さんは仕切り直すように言った。

 パスタをフォークに巻き付けつつ、考え深げな面持ちで首を傾げる。


「実は私、君については微妙に不思議でならないんだよね」


「……微妙に不思議って? いったい僕の何が不思議なの」


「それはつまり、裕介くんが今フリーターしてることとか」


 お姉さんは、ナポリタンをもぐもぐと噛んで呑み込む。

 それから枯葉色の瞳で、僕の顔をカウンター越しに見詰めてきた。

 いつになく真っ直ぐな視線を向けられて、ややたじろいでしまう。


「私は裕介くんって、基本的にけっこう真面目な男の子だと思うんだけど。そういう君がなぜ、わざわざ地方から進学した大学を中退して、アルバイトで生計を立てているのかなって」


「要するに『真面目な人間だったら、大学中退してフリーターにならない』ってこと?」


「そこまで断定的に言い切るつもりはないけど……。一般的に考えれば、差し当たり嫌でも大学を卒業して普通に就職した方が、フリーターより将来の展望は計算しやすいはずだよね」


 やや自虐的に訊き返すと、美織さんは溜め息混じりに見解を述べる。


「私は君がそういうことを、過去に考えもせず大学を辞めたとは思えないの。だって、もし物事を行き当たりばったりで決めるような人だったら――例えば私が何度も『扶養してあげる』って申し出ているのに、当面はこれまで通りアルバイトを続けようなんて考えない気がする」


 僕は、冷蔵庫からペットボトル入りのスポーツ飲料を取り出した。

 随分と喉が渇いていた。コップに注いで、ひと口飲ませてもらう。


「……美織さんの憶測は、物事を大雑把おおざっぱとらえ過ぎているよ」


 飲みかけのコップを片手に持ったまま、キッチンから出た。

 カウンター側へ回り込み、お姉さんの隣で椅子に腰掛ける。


「僕が大学を中退した理由は、色々な要素の積み重ねなんだ」


「色々な要素の、積み重ね――って、どういうこと?」


「美織さんには理解してもらえないかもしれないけど」


 鸚鵡返しに問われ、ゆっくり考えを整理しながら打ち明けた。



「実は昔の僕って、あまり何事にも熱中した経験がなかったんだよね」




 ……そう。かつての僕は、何かに必死で打ち込んだ試しがない。


 子供の頃から勉強もスポーツも、好きでも嫌いでもなく、得意でも苦手でもなかった。

 趣味でアニメやゲームはたしなむけれど、胸を張ってマニアだと自称できるほどじゃない。

 何をしていても、ほどほどで済ませて、無我夢中になることはなかった。


 二一世紀の現代は、インターネットで世界の広さが可視化された時代だ。

 PCやスマートフォンを覘けば、異能者みたいな人間が掃いて捨てるほど居る。

 圧倒的な才能に触れると、努力の行為自体に空虚さを感じることも少なくない。


 そうして、僕は中高生の頃、早々と自らの凡庸さに気付いてしまった。


 ――自分は、特別な人間じゃない。


 本気で熱中できることがあれば、一番になれないことでも必死で努力できるのかもしれない。

 見返りなんか求めず、一事にすべてを捧げることで、それがかえって何らかの成果を生むこともあり得ると思う。


 しかし、おそらく常人には不可能な次元の話だ。

 少なくとも僕には、見返りもなく、熱意だけで努力し続けるのは難しい。

 だから、そこそこの努力で、そこそこの結果を求めていくことを覚えた。

 それは周囲から馬鹿にされたり、軽んじられたりしないための努力でもある。


 かくして、僕は万事を人並み程度にこなし、そこそこの中高生時代を過ごした。

 人付き合いもそこそこに浅く広く、恋愛みたいな面倒事には深入りしなかった。

 よく教師からは「優等生には届かないが物分かりのいい生徒」として扱われた。

 定期考査で人並みの成績を収め、人並みに受験して、人並みの大学へ進学した。

 進学先を志望した理由は、自分の偏差値で行ける一番な大学だったからだ。


 大学生になってから、成し遂げたい目標とか、胸に秘めた願望があったわけじゃない。

 ただ漠然と状況に流され、環境を変え、何となく新しい生活をはじめることになった。


 何事にも熱中した経験を持たず、ありふれた青春の温度を知らないまま――……




「でもね。いざ星澄学院大学に進学して、こっちで一人暮らしをはじめてみたらさ」


 コップの中で揺れる液面を覗きながら、僕は打ち明け話を続けた。

 美織さんは、いったん食事の手を止めて、じっと耳を傾けている。


「ずっと状況に流されてきた自分のことが、徐々に自分でもわからなくなったんだ」


 もっとも困惑の原因そのものは、実を言えば明確に把握できていた。

 基本的に大学生活では、中高生の頃より能動的な行動が要求されるせいだ。

 授業の履修も個々人がバラバラで、黙っていても友人ができることはない。

 そこは自ら探そうとせねば、流されるべき状況も見付からない場所なのだ。


 目標や願望を持たず、向学心も薄い僕にとって、これは思い掛けない障害だった。

 あたかも見知らぬ土地の真ん中で、いきなり地図を取り上げられたようなものだ。


「もちろん『目的や願望がなくても、それなりに学生生活を謳歌すれば良かったんじゃないか』っていう意見はあると思う。むしろ、そういう大学生は世の中に山ほど居るし、ごく普通のことなんだろうとも。やっぱり結局は世の中って、楽しんだもの勝ちなのかもしれないし」


 しゃべり続けていると、思わず自嘲的な笑みが口元に浮かんでしまう。


「適当なサークルに入って馬鹿騒ぎしたり、合コンで女の子を追い回したりして、面白おかしく毎日を過ごしてさ。そうすれば普通の、ありふれた青春を手に入れることができたかもしれないって、今でもよく考えるよ。それで大学も、普通に卒業すべきだったんだろうなって」


「――だけど、裕介くんはそうしなかったんだよね」


 美織さんから優しい声音で、確認を求められた。

「うん」と答え、スポーツ飲料の残りを飲み干す。


 一応、入試に合格できるだけの学力はあったみたいだけれど。

 僕にとっての大学は、ひたすら居心地が悪い空間だったんだ。

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