18:お姉さんと僕だけの関係

 大学生活の空気に馴染めなかった一方で――

 逆に性に合っていたのが、スーパーマーケットのアルバイトだ。

 元々、僕は地方出身者で、星澄学院大学には実家を離れて進学した。

 だからバイトも必要に迫られて、小遣い稼ぎにはじめたはずだった。


 ところが意外にも、スーパーの担当業務に携わることは、まるで苦痛じゃなかったんだ。

 取り分け売り場の品出しは、他人と関わる機会も少なく、淡々と仕事を消化すればいい。

 決まった時間だけ労働して、それに見合う賃金が得られるのもわかりやすくてよかった。


 僕は時折、過去に見掛けた特別な人々のことを思い出す。

 そうして、どれだけ努力しても、報われるかもわからない世界のことを考えていた。

 アルバイトにしたる充足感はなく、やはり空虚な日々に変わりはなかったけれど。

 働いただけ確実な対価を得られる事実が、つつましい安堵を与えてくれた。



「大学一年生の夏頃には、ほとんどの授業に顔を出さなくなったんだ」


 僕は、カウンターに座ったままで背中を丸め、尚も色褪せかけた記憶を手繰る。


「大学へ行くのも億劫で、気が付くとバイト漬けの生活になっていた」


 すぐにいくつかの講義で、単位取得のために必要な出席日数が足りなくなった。

 必修科目と外国語は全滅に近くて、早くも二年次の進級要件に支障が出ていた。

 出席状況は実家にも当然連絡が届き、大学の総務課で面談の機会が設けられた。

 それから、わざわざ地方から出向いてきた父親と、大喧嘩になったんだよね。


 結果として、僕は大学を中退し、両親から見放されて、フリーターになった。

 特別な人間でも何でもなかったのに、ありふれた青春を捨ててしまったんだ。


 かくして不安定な生活を選択し、僕は普通の生き方から逸脱した。

 なぜ思い止まらなかったのかと誹謗ひぼうされたとしても、致し方ない。


 ……しかしながら皮肉にも、それは流されるままだった僕が、たぶん初めて自らの意思で選び取った状況だった。



「まあ、僕が現状に至った背景は、概ねそんな感じかなあ」


 一頻り話し終えたら、自然と呼気が喉から漏れた。


「美織さんが言う通り、仮に僕が真面目な人間だとしても――それはたぶん、肌に合わない大学に通い続けたり、フリーターになり得ない理由にはならなかったんだと思う」


 うつむき気味の姿勢で、カウンターの天板を見るともなく眺める。

 今の話をお姉さんが聞いて、どんな反応を示すかが少し怖かった。

 にわかに二人のあいだで沈黙が生まれ、そのまま時間が緩やかに流れる。

 深夜の空気は静寂を助長し、ほんの何秒かが酷く長い間隔に感じられた。



「……やっぱり、裕介くんは私が思った通りの素敵な男の子だな」


 やがて美織さんが言葉を紡ぎ、世界も速度を取り戻す。


「想像通りに真面目で、想像以上に真っ直ぐなんだってわかった」


 僕は、反射的に顔を上げ、上体を捻って傍らを振り返った。

 お姉さんの綺麗な顔がそこにあって、柔和に微笑んでいる。

 形のいい唇が動いて、尚も音楽的な声が発せられた。


「これは私の勝手な憶測なんだけどね。もしも大学生活で、裕介くんと同じ立場になったら――大抵の人は君が言う通り、目標や願望なんかなくったって、それなりに学生時代を謳歌するんだと思う。それから何となく普通に卒業して、普通に就職するよね……」


 美織さんは、ゆっくりした口調で、順番に整理するように話す。


「でも、そこで真剣に悩んで、大学を辞めちゃえるのは、きっと裕介くんが純粋だからだよ」


「……よくわからないな。親子喧嘩してフリーターになった、無軌道なクズじゃないか僕は」


 奇妙な羞恥心を覚え、ついぞんざいな態度を取ってしまった。

 優しく労わられるほど、自分が惨めに思えそうだったからだ。

 しかし美織さんは、穏やかな物腰を崩さない。


「だけど大学を中退するとき、自分の将来を一切心配しなかったわけじゃないんでしょう?」


 カウンターの上で、手のひらに僅かな温みが伝わった。

 お姉さんが自分の手を、僕のそれに重ねてきたせいだ。


「それでも裕介くんは悩み抜いて、大学を辞めた。つまり自分を誤魔化さなかったんだよね」


 こちらを眼差す枯葉色の瞳を、僕は信じられない気持ちで見詰め返した。


 フリーターになった経緯を、まさか容易に受け入れられるとは思っていなかった。

 ありふれた青春を素直に楽しんで過ごすことは、決して誰にも否定できやしない。

 理由はどうあれ大学を中退するような生き方より、ずっと安全で妥当な選択だ。

 翻って僕のことを、協調性や意気地が欠如している、と指弾する向きもあろう。


 また、それらを差し引いても、美織さんは明らかに僕と異なる道筋を歩んできた人だと思う。

 少なくとも先日聞いた話を思い返す限りは、絵を描くことが好きで、様々な活動に取り組み、その結果現在はイラストレイターになった。熱意や目標を抱き、願望を達成したわけだ。


 そんなお姉さんが、過去の僕について、肯定的な感情を持ってくれたのは驚きだった。


「裕介くんは、自分の気持ちに嘘を吐かなかったんでしょう」


 若干の動揺を覚えていると、美織さんはそっと重ねた手を握ってきた。

 こちらの戸惑いを見て取ったのか、噛んで含めるように優しく続ける。


「私も同じだよ。たとえ批難されても自分で考えて、今の自分になることを選んだの。それが君は大学を辞めることで、私はイラストを仕事にすることだっただけの違いじゃないかな」


 予期せぬ言葉で語り掛けられ、殊更に虚を衝かれた心地だった。

 お姉さんが提示した視点は、これまでの自分にはない価値観だ。


「私が過去に誰からも批難されず、イラストレイターを名乗れるようになれたと思う?」


「……それは今言われるまで、まるで考えてもみなかったよ」


 僕は、ちょっと喉を詰まらせ、正直に答えるしかなかった。

 自らの浅はかさを、今更の如く思い知らされたように思う。



 ――美織さんだって、ありふれた青春を選ばなかった一人じゃないか。


 僕と異なり、お姉さんは目標や願望を多く抱いていたのだろう。

 それゆえ、きっと誰より密度の高い学生時代を過ごしたに違いない。

 だが多くを得るため、等分の青春を犠牲にせざるを得なかったんだ。

 充実した日々が、必ずしも普通の日常だとは限らない。

 その先の将来が、必ずしも明るいものだとも限らない。


 でもとにかく、美織さんは自ら望んで絵の世界へ飛び込もうとした。

 努力が報われるかもわからないと知りながら、あえて選択したんだ。

 冷静になれば、そこに家族の批難がひとつもなかったとは考え難い。


 もちろん美織さんと僕じゃ、自己決定の経緯や結果にも天と地ほどの差がある。

 片や人気イラストレイターで、片や大学中退のフリーター。ほぼ正反対と言っていい。

 とはいえ、どちらも周囲と迎合せず、心情を偽ることもなく、こうして現状へ至った。

 その点に関して、双方には共通の部分がある。

 ……おそらく、こじらせた青春の痛痒つうようがある。


 こんな美織さんと巡り会えたからこそ、僕は今人並みの気力を持てているんだと思う。

 かつては大学を中退して以後、まるっきり抜け殻の状態で日々を過ごしていたけれど。



「ふあーっ、ご馳走様! とっても美味しかったよ、裕介くん」


 美織さんは、ナポリタンを平らげると、カウンターの椅子を立った。

 汚れた食器は食洗器の中に入れて、口元をウェットティッシュで拭う。

 そこには普段と少しも変わらない、屈託のない面差しが浮かんでいた。

 つまらない打ち明け話なんて、聞きもしなかったように見える。


 僕もまた、半ば無意識に椅子から腰を上げていた。

 そうして、お姉さんの傍らへふらふらと歩み寄る。

 きっと、誘蛾灯に惹き付けられる昆虫みたいな動作だったんじゃないかと思う。

 美織さんは、僕の面妖な挙措に気付くと、きょとんとしてこちらを振り返った。


「……ん? どうかしたの裕介くん」


 正面から向き合ったものの、問い掛けには答えない。

 僕は、返事代わりに自分の顔を、お姉さんのそれに近付けると――

 ちょっとだけ強引に身体を引き寄せて、いきなり唇を奪ってしまう。

 ほんのかすかながら、美織さんの華奢な肩が震えたみたいだった。


 ただそれも一瞬で、お姉さんは求められれば抵抗する素振りさえなかった。

 むしろ、すぐに両手を僕の首へ巻き付け、報復とばかりキスし返してくる。

 どうやら美織さんも、深い結びつきを欲しがっているらしい。

 挑発的な熱っぽさに煽られ、こちらからも負けじと唇を貪る。



 ――誰より愛しい美織さん、僕だけの世界一素敵なお姉さん! 


 これほど一個人の存在を希求し、他の何物にも代え難いと感じたことはなかった。

 自分自身を受け入れ、肯定していくため、このひとに寄り添っていて欲しい……

 僕は、今両腕で恋人を抱き締めながら、そんなことを強く祈っていた。

 かつては明確な目標や願望を、何ひとつ思い描けなかったというのに。



「好きだよ美織さん。本当に好きだ」


 互いの顔を離してからも、僕は美織さんと見詰め合った。

 もう何度告げたかもわからない言葉を、殊更に繰り返す。


「いつまでもこうして、美織さんのことを傍で感じていたい」


「あはは、私も好きだよ裕介くん。だから凄く嬉しいな……」


 美織さんは、頬を仄かな桜色に染め、上目遣いで応じてくれた。

 好意を伝え合う都度、恋人同士の二人は温かい気持ちになれる。

 ささやかなやり取りから、またひとつ僕は大切なことを学んだ。



 密かに幸せを噛み締めていると、美織さんが恥ずかしそうに耳元で囁き掛けてきた。


「ねぇ裕介くん。これからまた、お姉さんが沢山甘えさせてあげよっか?」




     〇  〇  〇




 僕とお姉さんは、浴室で身体を一緒に洗い合ってから、今夜も寝室のベッドへ入った。

 手を取り合って場所を移し、男女の営みに及ぶまでの流れも、三日続けば概ね慣れる。

「昨日の朝方みたいに気を遣わず、目一杯愛して欲しい」と、お姉さんから強請ねだられた。

 僕は、その要望を愚直に実行し、溢れ出る情愛を余すことなく発露させようとした。


 指と指とを絡めながら、肌と肌とを重ね合って、深いところでひとつにつながる。

 欲望が律動を刻むたび、半ば我を忘れて相手の名前を呼び、愛の言葉を漏らしていた。

 頭の中は、ひたすら恋人への熱情で満たされ、何もかも意識から消え失せそうになる。


 美織さんは、そんな僕を優しく迎え入れ、受け止め、慈しむように包み込んでくれた。

 汗ばんだ白い裸体を震わせては、喜びの嬌声を上げて、尚も多くを欲しがろうとする。

 それに僕は強い幸福を感じ、ますます愛で応え、己の捧げ得る限りを捧げ尽くした。

 ふわふわして長い栗色の髪が、シーツの上で波打ち、広がって、綺麗な模様を描く。


 ――美織さん、美織さん、美織さん……ッ! 


 幾度も幾度も、僕とお姉さんは互いを求め合い、与え合う。

 やがて二度三度と達するまで、二人は貪欲に交わり続けた。




 ……その後、深夜の寝室で、いつの間にか記憶が一度ふと途切れた。

 次に気付いて瞼を開いたとき、しかしまだ周囲は薄暗いままだった。


 ベッドの上から、サイドテーブルの置き時計を見る。

 暗がりの中で目を凝らすと、時刻は午前三時半と読み取れた。

 眠気に囚われていたのは、せいぜい四、五〇分だったらしい。


 僕は、仰向けに寝たまま、ゆっくりと呼気を吐き出した。

 傍らでは、美織さんがこちらへ寄り添うように裸身を横たえている。

 左右の瞳はそっと閉じられ、無防備な面差しが暗闇の中に見て取れた。

 素肌同士が触れた箇所から、心地良いぬくみと柔らかさが伝わってくる。


 先程二人で愛し合ってから、纏わり付くような気怠さを覚えていた。

 にもかかわらず、なかなか寝付けない。一向に昂ぶりから解放されないせいだ。

 あれほどまでに昇り果てたにもかかわらず、まだ興奮は冷める気配がなかった。

 今も恋人の体温を感じていると、ない愛情が湧いてくる。



 と、不意にすぐ隣で、お姉さんの白い肩が身動みじろぎした。


「……ねぇ。何を考えてるの、裕介くん?」


 子猫みたいな細い声音で、穏やかに問い掛けてくる。

 こちらを見詰める瞳には、睡魔と争った形跡がない。


「まだ美織さんも、眠ってなかったんだね」


「うん。裕介くんのこと、気になって……」


 美織さんの華奢な手が伸びてきて、僕の顔を撫でた。


 日付が変わる前、お姉さんは長時間仕事していたという。

 さらに続けて、僕と共にかなり情熱的な性交渉に及んだ。

 疲労からすれば、すぐにも眠りに落ちておかしくないはず。

 それなのにこんな時間まで、ずっと起きていたなんて……。


 僕が打ち明け話を聞かせたせいで、余計な心配を掛けたのだろうか。


「何だか幸せ過ぎて、寝付けなかったんだ」


 頬に指が触れるのを感じながら、故意におどけた調子で囁いてみせる。

 美織さんを安心させるのに、強がって突き放す言い方は避けたかった。

 もっとも伝えた言葉そのものには、僅かばかりの嘘もない。


「美織さんと恋人同士になれたおかげだよ」


 お姉さんの手は、頬の次に首筋をなぞり、やがて僕の胸部に重ねられた。

 それから、無言で再び瞼を伏せ、こちらへ殊更に裸身を擦り寄せてくる。

 僕は、美織さんを腕の中で抱き締めて、互いの頭部を近付けた。

 額に額を接触させると、お姉さんの甘い匂いが鼻腔をくすぐる。




 ……このあと一時間足らずで、たぶん夜が明けるのだろう。


 こんな時間に就寝すれば、ひょっとすると目が覚めるのは昼頃かもしれなかった。

 不規則なことと来たら、この上ない。ましてや平日で、まだ一週間がはじまったばかりだ。

 ただし僕のバイトは今日早番じゃないし、お姉さんも始業時間が拘束された仕事じゃない。

 二人が学校や会社に正規で属さず、やや特殊な身分で生活しているから許されることだね。

 ごく普通の恋人同士だったら、きっと僕とお姉さんのようにはいかない。


 改めて思い返してみると、二人の恋愛はちょっとおかしなところばかりだ。


 初めて恋人同士になった当日、いきなりお姉さんの部屋で外泊してみたり。

 その夜のうちにファーストキスと初体験を、二人で一緒に済ませてみたり。

 しかも七歳年上のお姉さんから、扶養してあげると持ち掛けられてみたり。


 相変わらず「これは夢じゃないのか?」と、自問してしまう。



(――うんうん、いいことですよ普通なのは)


 なぜだか、そんな言葉が脳裏に思い浮かんだ。

 晴香ちゃんから一昨日聞かされたものだった。


 普通なのはいいこと。

 だとしたら、僕と美織さんの奇妙な恋愛は、いいことじゃないのだろうか。

 ありふれた青春の温度を知らない、こじらせた青春の痛痒をる二人。

 僕らみたいな間柄なんか、世の中じゃそう多くあるまい。喜劇じみている。


 そう。これはだから、こじらせお姉さんと僕だけの関係ラブコメだ。


 少なくとも、どんなに僕ら二人が幸福だろうと、きっと普通じゃないと考える人は居る。

 僕自身でさえ、普通じゃないかもしれないと考えているぐらいだ。そういうものだよね。


 ただそうした現実に臨んで、今更のように生まれる疑問もある――




 さて、いったい「普通」とは何だろう? 

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