16:お姉さんを知らない後輩との会話

 さて、「ロイヤルハイム雛番」を出ると、僕は地下鉄駅へ向かった。


 雛番中央から平伊戸までの移動中、ふと乗車料金について考えてみる。

 区間運賃は、片道で二〇〇円。まあ、別段高い金額ってわけじゃない。


 とはいえ今後同棲をはじめた場合、アルバイトの通勤で毎日経費として必要になる。

 これはいずれスーパー側にも、店長を通じて転居する事実を伝えた方がいいだろう。

 たしか出勤日数に応じて、申請すれば交通費を支給してもらえるはずだ。



 アパートへ到着してからは、すぐまた引っ越し準備に取り掛かった。

 昨日と同じように部屋の中の物品を、必要か不要かで選別していく。


 そう言えば、退去後に用途がなさそうな家具類も、そのうち処分しなきゃいけないな。

 美織さんのマンションでは、空いている客間を自由に使っていいと言われているけれど……

 ここに置いてある机やテレビじゃ、転居先へ持っていっても邪魔になりそうにしか思えない。

 大型ゴミは普通に捨てず、廃棄業者に連絡して引き取ってもらうんだっけ。



 そうして、この日も黙々と作業を続けるうち――

 いつしか時刻は、午後三時四〇分を過ぎていた。

 そろそろ、バイト先に出勤しなきゃいけない頃合だ。

 僕は、忙しなく「コーポ平伊戸」の部屋を退出した。


「スーパー河丸」の店舗内には、普段通りに関係者専用の通用口から入る。

 従業員控室のドアを潜ると、いきなり聞き慣れた声で明るく挨拶された。


「裕介先輩、おはようございますっ!」


 晴香ちゃんは、笑顔で浅い会釈えしゃくを寄越す。

 左右非対称のセミロングが、挙措に合わせて僅かに揺れる。

 すでに着替えは済ませた様子で、スーパーの制服姿だった。


「おはよう晴香ちゃん。今日も相変わらず元気だね」


「今、先輩に会えたおかげで元気になったんですよ」


 挨拶に応じると、晴香ちゃんは酷く調子のいいことを言う。

 こういう如才じょさいない振る舞いが、店内で人気を得ている秘訣ひけつなのかもしれない。

 でも、あまり誰にでも親密に接するのは、多少いかがなものかとも思うけど。

 取り分け男子は、女子から優しくされると勘違いしやすい生き物だからね。


 我ながらお節介なことを考えつつ、僕も更衣室で制服に着替えた。

 事務所でタイムカードに打刻してから、担当業務に取り掛かった。

 バックヤードに入荷した商品を、台車に載せて売り場へ繰り出す。

 その後、慣れた手順で品出し作業を、淡々とこなしていった。



 ……集中していると、あっという間に三時間が経過した。

 例によって、舟木店長から休憩を取るように告げられる。

 そそくさと指示に従って、いったん商品陳列の業務を中断した。

 惣菜コーナーで従業員価格の鮭弁当を購入し、売り場を離れる。


 控室まで引き返すと、今回も同じタイミングで晴香ちゃんが休憩に入っていた。

 僕は、普段通りスチール椅子を持ち出し、長机の前に座って弁当のふたを開ける。


 と、相変わらず昨夜同様の流れで、晴香ちゃんも隣の椅子に腰掛けてきた。

 でもって両手に抱えた紙袋から、二、三種の菓子パンを取り出してみせる。

 またしてもベーカリーコーナーで購入してきたらしい。好物なんだろうか。



「先輩って、バイトがお休みの日は何をしているんですか?」


 不意に食事中、そんな話題を晴香ちゃんから切り出された。

 僕は、思わずはしを動かす手を止め、傍らに座っている女子高生を眼差す。

 脈絡なく問われたせいで、怪訝そうな目つきになっていたかもしれない。


「あ、えっと。何となく、あまり先輩とこういう話はしたことないなーと思って」


 晴香ちゃんは、幾分慌てて取り繕うみたいに続けた。


「けっこう長い期間、ここのお店で一緒にバイトしてるとは思うんですけど……」


 ふむ。つまり、前々から訊いてみたかったけど、今まで機会がなかったってことかな。

 言われてみるとプライベートについては、それほど周囲に話した試しがない気がする。

 こうして休憩しているときも、店やお客さんに関する当たり障りのない会話が多いし。

 でも休日の過ごし方なんか、顔見知り同士なら世間じゃ一般的な話題のひとつだろう。


 晴香ちゃんが「スーパー河丸」で働きはじめて、もう二年近くが経つ。

 にもかかわらず、たしかに詳しく自分の日常を打ち明けた覚えはない。

 一方で晴香ちゃんの素性は、何かしら本人がしゃべっているのを聞いているうち、それとなく知ってしまった部分も多いんだけどね。


「基本的に休日だからって、それほど面白いことして過ごしてるわけじゃないよ」


 僕は、どこまで身辺を正直に話すべきか、ちょっと考えながら答えた。


「溜まった洗濯物を洗ったり、部屋を掃除したりしなきゃいけない場合が多いし」


 晴香ちゃんに対して、無闇に虚言を弄するつもりはない。

 とはいえ、無駄に突っ込んだことに言及するのも控えた。


 具体的には「つい先日七歳年上の女性と付き合いはじめて、近々同棲するつもりだから、今後は休みの日に恋人と過ごすことが増えると思う」というような件とか。

 いかにも年頃の女の子が食い付きそうな事情だし、もしそうなれば根掘り葉掘り問い質され、面倒臭い展開になりかねない。店中に噂が広まったりすると、たぶん厄介だろう。

 いずれは打ち明けるにしろ、多少頃合を見計らってからにした方がいいと思う。


「ああーっ。そう言えば、裕介先輩って一人暮らしですもんね。大変そうだなあ」


 晴香ちゃんは、すっかり得心した様子でうなずく。

 怪しむような素振りは、微塵もなかった。素直だ。


「そういう話を聞くと、やっぱり先輩は大人のお兄さんなんだなーって思います」


「大人って……。休日に家事を片付けているってだけで、持ち上げられてもなあ」


「いやいや! あたしみたいな実家暮らしの女子高生には、絶対無理ですから!」


 晴香ちゃんは、やけに大袈裟な口調で、称賛の言葉を繰り返した。

 菓子パンを持っていない側の手を、胸の前で左右に振ってみせる。


「例えば自分でお風呂掃除しなきゃいけない状況とか、まだ想像もできないです」


 こちらを眼差す薄墨色の瞳は、純朴なきらめきをはらんでいるかに見えた。

 ……な、何だか、そう真っ直ぐに感心されると、かえって居心地悪いなあ。

 家事は生活の必要に迫られて、誰しも仕方なくやっていることだと思うし。


 えーっと、要するにあれだ。

 晴香ちゃんの場合だと、そういう尊敬の念は君を育ててらっしゃるご両親に対して抱く方が、順番として正しいと思います。たぶんね。


 まあ内心そうは思っても、口に出しては言わない。

 説教臭い言い草なんて、僕なんかから聞かされたくもないだろう。

 僕自身、自分が誰かに何か言えるほど上等な人間だとも思わない。

 なので、代わりに同じ質問をやり返してみることにした。



「そういう晴香ちゃんは、休みの日にどう過ごしてるのさ?」


「えっ、あたしですか? あたしは全然、普通ですけど――」


 晴香ちゃんは、きょとんとして小首を傾げる。


「友達と星澄駅前で買い物したり、カラオケに行ったりとか」


「ふうん。やっぱり市内だと、大抵はみんな星澄駅前で遊ぶのかな」


「まあ東区の新冬原しんふゆはらにも、けっこう面白い場所はありますけどねー」


 そのあと「普通の休日をどう過ごすか」について、晴香ちゃんは尚もいくらか話し続けた。

 昨年駅前に高層タワーが開業して以来、その内部にあるシネコンで映画を観ることが増えたんですよー、とか。南区のスイーツ屋さんへチーズケーキをよく食べに行きますよー、とか。


 そして、ほどなく具体例は晴香ちゃん自身に限らず、平均的な女子全般の場合に及んだ。


「それと、私は男の人とお付き合いしたことないからわからないですけど」


 我がバイトの後輩は、言葉と裏腹に知ったような口振りで言う。

 ただこのときに限って、なぜか微妙に目線を横へ逸らしていた。


「恋人が居る女の子だったら、彼氏と出掛けたりするんじゃないですか?」


 うんまあ、それだよね。

 いまや交際相手を持つ身として、よくわかります。それはあくまで言わないけど。

 しかし中高生や大学生の頃の僕だったら、絶対にあり得なかった選択肢だよなー。

 いや人並みの青春を送っていれば、ごく普通の日常なんだろうね。

 


 ……だが、それはそれとして、ちょっと今の話で意外なことを知ったな。

 この店じゃ人気者の晴香ちゃんなのに、異性と交際経験がないだなんて。

 僕は、素朴な疑問を感じて、たずねてみた。


「晴香ちゃんには、身近に仲がいい男の子とかはいないの?」


 晴香ちゃんは、噛り付いていた菓子パンを口元から離す。

 もぐもぐと頬の辺りを動かしつつ、こちらを振り向いた。

 そのとき、目の中には複雑な色が混ざっていたみたいに見えた。

 もっともほんの一瞬のことだったから、気のせいかもしれない。

 さらにもう何秒か掛けて、口内のパンをこくんと呑み込む。

 それから、おもむろに我がバイトの後輩は訊き返してきた。


「それは例えば、学校のクラスメイトとかでってことですか」


「う、うん。まあ、概ねそういう交友範囲の中でだけど……」


「まあ全然いない、ってことはありませんよー。はい普通に」


 晴香ちゃんは、いつもの調子で答えてから、さらりと辛辣しんらつな感想を付け足した。


「ただし彼氏にしたいと思うような男の子は、その中にはいませんけど」


「そうなんだ。晴香ちゃんも案外、異性に対する査定が厳しいんだなあ」


 思わず苦笑が漏れてしまう。

 でも晴香ちゃんの見立てを、個人的に贅沢だとか批難するつもりはなかった。

 思春期の高校生なら、まだ異性に理想を追い求めても許される時期のはずだ。

 誰でもいいから手近な相手と付き合いたい、なんて考えより好ましいと思う。


 ひょっとしたら、理想以上の相手と恋人になれる可能性だって現実にあるかもしれないし……

 僕は、可愛らしいお姉さんのことを思い浮かべて、危うく表情が緩みそうになるのを堪えた。


 なんて、こちらの勝手な思い込みで、あれこれ考えを巡らせていたのだが。

 どうやら晴香ちゃんには、いささか実際は異なる言い分があるらしかった。


「あの。決して同級生の男子が気に食わない、ってわけじゃないんです」


 我がバイトの後輩は、少しそわそわした物腰で言った。


「ただ高校生になってから、こうしてバイトとかしているじゃないですか。そうすると、あたしみたいな子にも多少は大人の世界が見えてきて。自分より年上の人とも知り合いになったりして……。そのうち同級生の男の子が、だんだん子供っぽく思えてきちゃったというか」


 ははあ、なるほど……。

 たしかに同世代ばかり集まる学校から出て、外の世界に触れると価値観の変化はあるよね。

 アルバイトじゃ勤務先で、自分よりひと回り以上年長の人と一緒に仕事する場合も多いし。

 まあ、そういう大人と比較されちゃ、同級生が可哀相に思えなくもないけど。


「それじゃ恋人を作る気もないのかー。晴香ちゃんなら、けっこうモテそうなのにな」


「ああいえ、作る気ないってことはないですよ。同級生にはときめかないってだけで」


 弁当を突きながら話を聞いていると、晴香ちゃんは細かく誤謬ごびゅうを修正してきた。

 異性の趣味について踏み込んだ内容のせいか、いささか気恥ずかしそうだった。


「彼氏が居る友達も、学校の外で知り合った年上の男性と付き合っている子が多いんです。……だから、今話したような印象もあるし、私も恋人にするなら年上の男性がいいなって」


「へぇ、そういうことかあ。でもよく思い返してみると、僕が中高生だった頃に彼氏持ちだったクラスメイトの女子も、同級生より大学生や社会人と交際している子が多かったかも」


「あ、やっぱり先輩の頃もそうでしたか? うん、そうですよね普通なら。えへへっ」


 納得して相槌を打つと、晴香ちゃんも笑顔でうなずく。


「個人差はあるでしょうけど……普通の女の子だったら、年上の男性を好きになると思います」


 僕は、次に何を言うべきか迷って、ちょっとだけ口を噤んだ。

 僅かに生じた沈黙を穴埋めするため、弁当の白米を咀嚼する。

 箸の先端で鮭の切り身をほぐしつつ、平静を装って考え込んだ。

 ところが、なかなか適当な言葉が出てこない。



 すると、晴香ちゃんから率先して、会話を広げようとしてきた。


「先輩としてはどう思いますか、年下の女の子について」


 食べ終えた菓子パンの包装を畳みながら、再度問い掛けてくる。


「例えば、年の差は何歳ぐらいまでならオッケーだとか」


「僕は人間の年齢なんて、単に今まで何年生きてきたかの目安でしかない、と思ってるよ」


 ほぼ一昨日の夜に使ったのと同じ言葉で、僕は自分なりの回答を示してみせた。

 美織さんにも伝えた価値観は、さすがに一日二日程度じゃ、簡単に変わらない。


「本気で好きになったら、相手の歳は気にならないんじゃないかな。年下でも年上でもね」


「……何だか、凄く優等生っぽい答えですねー裕介先輩」


 どういうわけだか、晴香ちゃんはちょっと不満げにつぶやく。

 だが、すぐに気を取り直した様子で、目元を諧謔かいぎゃく的に緩めた。


「つまり、もし本気で好きになったら、小学生女児でも気にならないと」


「いやそれは気になるかどうかじゃなくて、普通に犯罪でしかないけど」


「好きになったら、総資産三兆円で臨終目前の老女でも気にならないと」


「それは気になるかどうかじゃなく、遺産目当ての臭いしかないけど!」


「バイトをはじめてから、大人の世界が見えてきちゃったんですよねー」


「どっちも見ちゃいけない世界だよ、バイトとか大人とか無関係にね!」


 立て続けにツッコミ入れると、晴香ちゃんはちらっと舌を出して笑う。

「冗談ですっ」と憎めない口調で言って、スチール椅子から腰を上げた。

 女子高生にすっかり弄ばれてしまったみたいだ。



 従業員控室の壁掛け時計を、つと見上げてみる。


 長短の針は、もうじき休憩時間の終了時刻を指そうとしていた。

 僕は、急いで弁当の残ったおかずを、箸で口の中に掻き込んだ。

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