15:お姉さんが描く二次元のエッッッッッ
――美織さんは、本当にイラストレイターなんだなあ。
今更の如く、僕は事実を再認識した。
これまでも決して、お姉さんの言葉を信用していなかったわけじゃない。
でも、目の前で実際に描画されていくイラストを見る、という体験には軽い衝撃があった。
僕は、純粋な好奇心で、作画中の絵について訊いてみた。
「これ、もうすぐ描き上がるの?」
「そうだねぇ、あともう少しかな」
作業机の前で椅子に座ったまま、美織さんは上体を少し反らした。
ペンマウスを持たない手が液晶タブレットの脇へ伸び、キーボードを操作する。
それまで部分的に拡大されていたイラストが縮小し、画面に全体が表示された。
「キャラの作画は概ね終わって、今は背景を塗り込んでるところだから。そのあと、色調補正を掛けて、細かい効果を足せば出来上がり」
美織さんは、だから今日中には取引先へ納品できると思うよ、と言葉を継ぐ。
技術的な説明は全然わからなかったけれど、完成間近なのはたしかみたいだ。
それで、なるほどなあと感心していたら、逆にお姉さんから問い掛けられた。
「ねぇ裕介くん。この絵のこと、君の目から見てどう思う?」
「どうって……。凄いな、綺麗なイラストだなあと思うけど」
にわかに作品の印象をたずねられ、咄嗟に稚拙な所感を述べてしまった。
これぞ小学生並みの感想。まさしく見たままで、美辞麗句の欠片もない。
もっとも素朴な言葉だからこそ、いましがた「メガネが似合っている」と伝えたのと同じで、見え透いた社交辞令じゃないのはわかってもらえたと思う。
ただこの場合に関して、それは望まれている回答と違っていたらしい。
「凄くて、綺麗かあ」
美織さんは、ちょっぴり眉根を寄せて、うーん……と唸った。
「それだけ? もう少し具体的で、ぶっちゃけた感想はない?」
ぐ、具体的でぶっちゃけた感想って。
頭の中でお姉さんの言葉を
漠然とした反応じゃなく、
でも、僕は絵を描くことについて、専門的な技術も知識も持ち合わせていない。
無理に
それゆえ、いったん口を噤み、どう答えるべきかで迷ってしまう。
すると、美織さんは噛んで含めるようにして、事例を付け加えた。
「例えばイラストの、ここのところとかだけど」
おもむろにペンマウスを持ち上げると、先端で液晶画面のある箇所を指し示す。
……イラストに描かれた情景で、美少女キャラが泉に素足を浸している部分だ。
「どう? ぱっと見て、えっちな気分になる?」
「は、はあ? ぶっちゃけって、そういう……」
改めて感想を問われ、僕はいささか戸惑いを禁じ得なかった。
注視するようにうながされた箇所を、仕方なく
よく見ると、美少女キャラの着衣は水に濡れ、大腿部付近まで布越しに肌色が透けていた。
水分を吸った生地の状態が、絶妙な色使いで表現され、たしかに言われてみれば艶っぽい。
「それとこの辺りの部分なんかも、どう思う?」
美織さんは、次にペンマウスの先端で、画面上の異なる箇所も指し示した。
それはまた同じイラストの中で、他のキャラクターが描かれている部分だ。
小鳥と戯れている美少女――の、「
「このキャラは腋を描きたくて、あえて衣装もノースリーブ系のデザインにしたんだよね」
なぜか頬を僅かに赤らめ、美織さんは嬉しそうに創作意図を語る。
「で、小鳥を指へ乗せるポーズにして、腕は肩と同じ高さまで上げて……ねっ、わかる?」
身振りを交えながら、了解を求められてしまった。
いやまあわかるよ、言わんとするところは一応さ。
女性が腕を上げた際、露出した腋にフェティシズムを覚える男性は多いみたいだからね。
この美少女キャラも、そういう需要を意識して描かれたんだとわかれば納得させられる。
僕は説明されなきゃ気付かなかったけれど、見る人が見れば大歓喜するのかもしれない。
「腕の付け根から胸のラインは特にこだわってて」
お姉さんは、殊更にイラストのセールスポイント(?)を強調する。
「ほら、服の隙間から少しおっぱい見えてるの!」
「は、はあ。たしかにちらっとだけど見えてるね」
「やっぱり腋から続く
「まあ、食い付く人は多そうだねこれ……」
「裕介くんだって、おっぱい好きだよね?」
「好きか嫌いかで言えば、そりゃ好きだけどさ」
「え、反応薄くない? おっぱいだよ大丈夫?」
「なんでおっぱい好きかどうかで心配されるの」
意味不明な労わりの視線を向けられ、真顔で訊き返さずにいられなかった。
でも美織さんは、尚も誤解に誤解を重ねて、明後日の方向へ会話を進める。
「ああ、もしかして二次元キャラで欲情すると、私が嫉妬するかもって不安なのかな?」
「いやそんなの、たった今言われてみるまで一瞬たりとも考えすらしなかったけど!?」
「あはは。遠慮しなくてもいいよ、二次元は浮気じゃないから」
「そもそも二次元も三次元も、浮気するつもりなんかないけど」
「裕介くん、そんなに私のおっぱいが好きなんだ。嬉しい……」
うん、はい。ひたすら会話が噛み合ってないですねこれ。
おまけにお姉さんが喜ぶポイントもおかしい。おっぱい以外も好きというか、むしろおっぱいと関係なく好きだからね美織さんのことは。大丈夫なの。
ていうかイラストの感想から、半ば話が脱線している。
僕は、軽く咳払いして、いったん仕切り直した。
「美織さんは、美少女キャラに関するどんな感想が聞ければ満足なの」
「えーっ、どんなって……。それはもちろん、なんて言うかこう――」
この際なので率直に質問してみると、美織さんは幾分不満そうに唸る。
何となく、それぐらいは察して欲しい、と言いたげな面持ちに見えた。
「『ふーん、えっちじゃん』とか『エッッッッッ!!』とか、そういう感じのやつかな?」
「典型的なWeb上の書き込みだね!? SNSとかで
呆れて、咄嗟にツッコミ入れてしまった。
だが美織さんは、口を尖らせて抗議する。
「イラストの公式発表後じゃないと、エゴサしても一般ユーザーの反応は出て来ないもん」
……まあ、その言い分には、多少納得させられるものがあった。
つまり「一般向けに公開されるより先に、僕みたいなゲームファンの声が聞いてみたかった」ってことなんだろうね。でもって、手応えをたしかめようとしたんだろうな。
「あのね。別に君から評論家みたいな、理屈っぽい批評が聞きたかったわけじゃないんだ」
美織さんは、緩やかな所作で、かぶりを振りつつ溜め息吐く。
やはり専門的な見識を期待されていたわけじゃないみたいだ。
「言い方は悪いかもしれないけど、むしろ逆に直感的で素人らしい感想が知りたかったの」
「そっ、それはまた……わざわざなんで?」
「ごく普通の意見が聞ける、と思ったから」
お姉さんの回答は、単純で当たり前だけど、少し意表を衝くものだった。
「いつも絵を描いていると、私は『もっといいものを』って考えながら筆を動かしちゃう。それ自体は大切だし、悪いことじゃないんだけどね。描き手が考える『いいもの』は、必ずしも受け手に望まれているものじゃないから。技術的があれば色々なものを描けるけど、上手いからって必ずしも売れる絵じゃない。技術が高いと、かえって普通の感覚がわからなくなる……」
ペンマウスを握り直すと、美織さんは液晶タブレットに再度向き合う。
画像の拡大サイズを調整しつつ、今一度イラスト彩色の作業に戻った。
「まあだから、ナチュラルに『ふーん、えっちじゃん』って言ってもらえるような美少女キャラを描けることって、個人的には凄く大切なんだ。少なくとも、
そういうものなのか……。
僕はイラストレイターじゃないし、こんな綺麗な絵を描ける美織さんの感覚はわからない。
でも、おそらく世の中で大半の人間が、美織さんと同じように絵を描けないことはわかる。
それは常人とお姉さんとのあいだに横たわる溝であり、この場合では平たく「普通」か「普通じゃない」かを測量する根拠なんだろう。
「実は普通の感覚を持ち続けることって、才能かもしれないと思うんだよね」
美織さんは、絵の背景に木漏れ日の描写を描き加えながら言った。
いやでも、二次元の美少女キャラを見て、真っ先に「ふーん、えっちじゃん」って考える感性って普通なのかなあ……。
それはそれで、ある意味じゃ心が汚れてしまっているような気がするんだけど。
○ ○ ○
その後も、しばらく僕は清掃作業を続けて、すべての部屋の手入れを終えた。
途中で美織さんとのやり取りが長引いたから、余計に時間が掛かったけれど。
それでも時刻は、まだ午前一一時過ぎだった。
引っ越しの荷造りをはじめるのは、昨日の進捗に
お姉さんは、相変わらず仕事部屋で絵を描き続けている。
作業を中断するには、若干キリが良くないみたいだった。
そこでいっそ、僕が朝と同じように昼の食事も作ってしまおうか、と考えた。
リビングでソファに腰掛けているだけじゃ、いかにも手持ち無沙汰で退屈だ。
三〇分もあれば、簡単な料理の一皿ぐらい作れるだろう。
ただし冷蔵庫の食材を使わせてもらうことになるけど、かまわないか――
と、美織さんに提案してみたら、突如わけのわからない反応が返ってきた。
「ねぇ裕介くん。君って、そんなにお姉さんから束縛されたいのかな?」
仕事を続けながら、なぜだか幾分キレ気味に脅迫じみたことを言う。怖い。
「ど、どうして昼食を作ろうとしたら、束縛願望があることになるのさ」
「どうしてって、そんなに酷いことを言い出しておいてわからないの?」
次いでこちらを振り返ると、美織さんは鋭く睨み付けてくる。
が、すぐにくしゃっと悲しげに顔を歪め、目元に涙を溜めた。
「さっきから放っておいたら、部屋を掃除してくれたり食事を作ってくれたり次々と……。年下男子がそんなふうにアラサー独身女の身の回りをお世話することって、どういう意味なのか全然わかってないよ君は。
お姉さんは、ついにめそめそしはじめてしまう。
家事で協力を申し出るたびに結婚を迫られていたけど、挙句に至った状況がこれらしい。
またしても安定の情緒不安定。むしろ安定だか不安定だかわからない。
ていうか、これはまさか僕が泣かせてしまったことになるのだろうか。
「やっぱり料理が作れるのは私だけがよかった。何度も言うけど絶対モテるもん年下料理男子」
「お、落ち着いてよ美織さん。束縛なんかされなくたって、僕が好きなのは美織さんだけだよ」
にしても、仮に僕が料理下手だったら、今朝の会話の裏返しになるわけで。
食事を作る手間も増えると思うんだけど、その点はかまわないんだろうか。
何だかもう、徐々にお姉さんの主張も支離滅裂になってきたぞ。
しかしまあ、そんなこんなで面倒臭いやり取りはあったけれど。
僕が昼食を作ることについて、美織さんは結局承諾してくれた。
早速キッチンに立つと、器具や材料を並べて調理に取り掛かる。
ラップに包まれた冷凍ご飯があったので、サラダに使ったレタスと合わせて
電子レンジでご飯を解凍しているあいだに野菜やベーコンを刻み、フライパンを温めて溶き卵も用意する。次いで食材を
二人分を別々の皿に盛り付けたら完成だ。
味見してみたところ、まあ適当に作ったわりに悪くない出来栄えじゃないかと思う。
ここの調理台はIHコンロなので、米粒をぱらぱらに炒めるのが難しかったけどね。
時計で時刻を確認すると、丁度正午を過ぎたばかりだった。
もういっぺん仕事部屋を
丁度作業も一区切り付いたところだったみたいで、リビングへ出てきてくれた。
メガネを外してダイニングカウンターに腰掛け、隣り合って炒飯を食べる。
美織さんは食事中、ずっと「はあぁ……年下男子の手作り炒飯……。美味しいよぉ……やはり逃がさないように結婚しないと……。お金ならあるし……あとはもっと既成事実を重ねて……」とか何とか、ぶつぶつ小声でつぶやき続けていた。
とても喜んでくれていた様子だけど、目は少し虚ろで、あたかも暗黒魔法を詠唱しているような雰囲気があった。ここがもしファンタジーな異世界だったら、危うく闇の呪縛に囚われていたかもしれない。ヤバい。
何はともあれ食事が済むと、おおよそ平伊戸へ帰る頃合になった。
使った皿やスプーンを食洗器にセットしてから、玄関で靴を履く。
美織さんは、見送りに出てきたかと思うと、また今夜もここに戻ってきてね、と強請った。
今日もアルバイトの終業時刻は遅いけど、お姉さんはずっと僕の帰宅を待っているそうだ。
枯葉色っぽい瞳は、時折垣間見せる物寂しそうな気配を漂わせていた。
まあ、そんなことを求められかねないと思って、着替えはもう一日分持ってきている。
考えてみれば、洗濯機に今朝方放り込まれた衣服も、まだ回収せずにそのままだった。
「わかったよ、この部屋にちゃんと今夜も帰ってくるから」
そう約束すると、美織さんはいきなり僕の首に両手を絡めてきた。
ちょっぴり爪先立って、有無を言わさずに互いの顔を接近させる。
ちゅっ、ちゅ……と、そのまま熱っぽく二度、唇を重ねた。
「いってらっしゃいのチュー、だよ。必ず帰ってきてね?」
お姉さんは、名残惜しそうな声音で囁く。
何だろう、この新婚プレイみたいなのは。
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