14:お姉さんの何でもない平日

 即断即決で婚姻を迫られ、どうしたものかと戸惑っていたら。

 お姉さんの面差しが、みるみる悲しそうなものに変化していく。

 枯葉色っぽい瞳の端には、じんわりと透明な滴が滲みはじめた。

 やっぱり今朝は情緒不安定なのでは。


「うっ、ううっ。だってね、ホントに裕介くんが作ったお料理美味しいから」


「朝食が気に入ってもらえたのは嬉しいけど、それでどうして泣くの……?」


「まだ裕介くんは若いからわからないんだよ、ささやかな幸せの希少性が!」


 素朴な疑問を投げ掛けると、美織さんが拳をカウンターの天板にダンッ!と打ち付けた。


「アラサー独身喪女がふらっとシャワーを浴びてリビングに戻ってきてみたら、私のことを好きだって言ってくれる年下男子が美味しい朝食作って待っててくれるんだよ!? こんなの二〇代後半の女性購買層を想定した恋愛漫画の世界にしかないイベントだと思ってたもん!!」


 お姉さんの口調には、謎の悲壮感が漂っていた。

 早口でまくし立てて、こちらへ泣き顔を近付けてくる。

 僕は、やや気圧けおされて面食らい、狼狽ろうばいしてしまった。


 と、美織さんは頭を抱え、苦しそうに唸りはじめる。


「そりゃ結婚考えるよ普通に……。ああ嫌だよぅ、もうアラサー独身喪女もじょに戻りたくない……」


「喪女はともかく、アラサーで独身なのは恋人ができただけじゃ変わってないと思うんだけど」


「もうどうせ自分一人だからって、シリアルに牛乳注いだだけの手抜き朝食にも戻りたくない」


「……まあ、一人分しかご飯を作らなくてもいいと、真面目に料理しないことはよくあるよね」


 無駄に色々な現実を痛感させられる言い分だった。

 何だかんだ一人暮らしだし、僕だって忙しければ料理をぞんざいに済ませる場合もある。

 自分以外の相手が居るからこそ、きちんと食事を用意しなきゃなって思考になるわけで。


 美織さんも、一昨日は率先して手料理したり、昨日は恋人を餌付けしたいと言ったりしていたけれど、その辺りの事情は同じなんだろう。

 おそらく「調理が得意で好きなこと」と「その手間を面倒だと思うこと」とは、無矛盾に併存し得る感覚なんだよなあ……。


 お姉さんは、殊更に暗い願望をつぶやく。


「料理上手な男の子は異性にモテやすいから、民法七五二条の効力を借りて浮気を防止したい」


「凄い社会的な手段に訴えた防止法だね!? ていうか料理作れてもモテたことないよ僕は!」


 尚、民法には不貞行為の禁止を明示する文言がない。

 でも七五二条に記された『夫婦の扶助義務』には、たしか「夫が妻に対して貞操を守る義務」もふくまれる、というような判例があるんだよね。

 中退した大学(法学部)で以前に勉強した、うろ覚えの知識だけど。

 ていうか、なんで美織さんは家族法に詳しいんだろう。調べたの? 


「あのね裕介くん……。つまり私は、君の作った味噌汁が毎日飲みたいんだよ」


「その台詞を年上のヒロインが言う展開は、なかなか漫画でもないと思うけど」


「つまり私は、君の作った野菜スープが毎日飲みたい」


「今朝の食事に合わせて洋風にしただけでしょうそれ」


「ああ~ん、私と結婚しようよぉ。お金なら払うから」


「美織さん、安易にお金のちからに頼らないでよ……」


 いよいよ無分別なことを言ってごねはじめたので、たしなめないわけにはいかなかった。

 なまじっか経済力があるせいで、実行できそうなのが危険なんだ美織さんの場合は。

 実際、僕にアルバイトを辞めさせて、代わりに自分が扶養したがっているわけだし。


 ――このお姉さん、やっぱりこじらせている。




     ○  ○  ○




 本日は、ごく何でもない月曜日で平日だ。

 昼過ぎからは平伊戸へ戻り、アパートで荷造りの続きをする予定だった。

 夕方以降は前日同様、「スーパー河丸」でバイトのシフトが入っている。

 ただ、昨日より今朝は早く起床したため、午前中に僅かな余暇ができた。


 さて、空いた時間をどう過ごすか。

 若干迷ったものの、美織さんの部屋を掃除しようか、と僕は思い立った。

 連日泊めてもらっているし、ささやかながら恩に報いて然るべきだろう。

 もちろん僕が一人で勝手にすることだから、そのあいだに美織さんはイラストレイターの仕事にはげんでもらってかまわない。


 そうした提案を持ち掛けてみると、お姉さんは一も二もなく承知してくれた。

 ちょっぴり感激したような面持ちで、うんうんと繰り返しうなずいてみせる。


「そっかー、あはは。そんなふうに裕介くんから気を遣ってもらえるのは、凄く嬉しいな」


「まあ今後同棲しはじめたら、家事の分担も必要になるだろうし。予行演習を兼ねてだね」


「やっぱり、早くお姉さんと結婚しよう?」


「だからまだ同棲すらはじまってないって」


 隙あらば迫られる求婚を適当に回避し、僕は早速作業を開始した。

 美織さんから掃除機を貸してもらって、手はじめにリビングを清掃していく。

 床の上に置かれたクッション類を整理し、ハンディモップで家具のほこりを払う。


「そう言えば、私が今朝着ていた裕介くんのシャツなんだけど」


 掃除機を掛けていると、美織さんがふと思い出したように言った。


「他の洗い物とひとまとめにして、洗濯機の中に入れちゃった」


「他の洗い物と……って、美織さんのやつも一緒にってこと?」


 たしかめるように訊いてみると、お姉さんから「そうだよー」と答えが返ってきた。

 ちなみに僕が昨日穿いていたボトムスなども、いつの間にやら回収され、すでに洗濯機へ投入してしまったらしい。うーん、ちっとも気付かなかった。

 まあ、アパートまで持ち帰って洗う手間は省けたけど。


「あっ。でも今回トランクスだけは、一応洗い物に入れなかったから」


 美織さんは、付け加えるように言った。

「断りもなく異性に触られるのは、恋人でも嫌がられるかもしれない」と考えて、下着類を洗うのは保留することにしたのだとか。


「裕介くんさえよければ、私が手洗いしてあげたかったんだけどね?」


「い、いや。トランクスの一、二枚程度、ちゃんと僕が自分で洗うよ」


 丁重に申し出を断ると、なぜか美織さんは酷く残念そうに肩を落とした。

 なんでそんな反応なの。そこまで恋人の下着を洗いたかったんだろうか。

 ま、まあ、いずれにしろ同棲するようになったら、今後はこういう部分も含めて、家事の配分を相談していかないといけないよね……。



 そんなやり取りを交わしたあと、美織さんは仕事に取り掛かるために隣室へ入っていく。

 僕は、それを見送ってから、改めて清掃作業を続行した。ソファの下で隠れた塵も見逃すことなく除去し、窓の硝子やさんの部分は雑巾掛ぞうきんがけして汚れを拭き取る。

 リビングをひと通り片付けたら、次は寝室と客間の掃除だ。

 さらに玄関前や廊下も清掃し、浴室や水回りも手入れする。


 かくして、掃除が済んでいない場所は、お姉さんの仕事部屋を残すのみとなった。


 さて、仕事中に立ち入って迷惑掛けちゃいけないから、後回しにしていたけれど――

 ここまで他の部屋を清掃しておいて、一室だけ放置しておくというのも変な話だよね。

 でもひとまず、掃除するためにお邪魔していいのかを、美織さんに訊いてみようかな。


 僕は、仕事部屋の前に立つと、いっぺん深呼吸してからドアをノックした。


「ねぇ美織さん。ここの部屋も掃除したいんだけど、僕が今入っても大丈夫?」


「――うん、かまわないよ裕介くん。ドアなら開いてるから、どうぞ入ってー」


 ドアを一枚隔てた向こう側から、お姉さんの返事が聞こえてくる。

 明確な許可が得られたので、やっと気後れなく室内へ踏み入った。


 広い仕事部屋の一隅で、美織さんは作業机の前に座っていた。

 液晶タブレットを見詰めて、ペンマウスを右手に握っている。

 でも僕が出入り口のドアを潜ると、画面の上で動かしている手を止めた。

 回転式の椅子に腰掛けたまま、くるりと身体の向きを変えて振り返る。


 仕事中のお姉さんは、お洒落なメガネを掛けていた。


「ご苦労様、おかげでとっても助かるよ。ありがと裕介くん」


 枯葉色っぽい瞳が、こちらを見てレンズ越しに柔らかく微笑む。

 やや普段と異なる雰囲気だったせいで、少しだけ胸が高鳴った。

 それを咄嗟に押し隠し、僕はわざとちいさく咳払せきばらいしてみせる。


 いくらお姉さんが可愛いからって、ちょっと新しい一面と遭遇するたびに見蕩れているなんて知られたら、正直気恥ずかしい。もう男女の仲になった恋人同士だってのにさ。

 こんなんじゃ、お姉さんに死ぬまで定期的にどきどきし続けることになるぞ。


「あの、仕事中に掃除して、美織さんの邪魔にならないかな」


「あはは。そんなに気を遣ってくれなくたって、別に大丈夫だよ」


 美織さんは、ちょっとおどけた調子で、ペンマウスを左右に振りながら言う。


「常に精神統一してなきゃ絵が描けない、ってわけでもないから」


 うーん、言われてみればそりゃそうか。

 Web上じゃイラストレイターが自分の作業工程を、しばしば音声付きで動画配信している。

 ああいうのは視聴者に向けて、リアルタイムで会話しながら絵を描いているぐらいだもんな。

 プロの漫画家だって、けっこう原稿描きつつアシスタントとやり取りするみたいだし。

 意味もなく騒いだりしなきゃ、それほど作業のさまたげにはならずに済むのかもしれない。


 などと、僕が密かに一人で納得していたら。


「そんなことより、これ」


 美織さんは、わざとらしくメガネのフレームをくいっと持ち上げた。

 どうやら着用時の風貌について、客観的な感想を求めているらしい。


「裕介くんとしてはどうなの、メガネのお姉さんは」


「似合ってると思うけど」


「本当? 裸眼とメガネなら、どっちがいいかな?」


「どっちも好きだよ僕は」


 端的な表現で、しかし偽りない所感を伝えた。

 純粋な好感を言語化するのは、案外難度が高いなと思う。

 大袈裟な言い方だと、安っぽいお世辞に聞こえそうだし。


 ただ美織さんは、口調も含めた反応を見聞きして、僕の言葉を正しく受け取ってくれた。

 口元がにへらーっとだらしなく緩んで、喜色が堪え切れずに溢れ出ているみたいだった。


「そっかー、あはは。……私も好きだからねっ、裕介くんのこと」


 何だかよくわからないけど、いきなりお姉さんからも好意を告げられてしまう。

 それメガネ関係なくない? どういう会話の流れなんだ、無駄に恥ずかしいぞ。


 内心ツッコミ入れていると、美織さんがはっと何か閃いた様子で膝を打った。

 妙案が浮かんだとでも言いたげだったけど、益体もない着想の予感しかない。

 果たして、その期待は裏切られなかった。


「ねぇじゃあ今度さー、えっちなこともメガネ掛けてしてみよっか?」


「……いやなんで、急に僕の性癖が試されてるような話になってるの」


 話題はメガネに戻ってきたけど、わりと方向性は最低だった。

 まあ僕も、そういう恋人との行為にまったく興味がないと言えば嘘になるけど。

 むしろ一瞬色々と想像力を働かせちゃったけど。健全な男子なので多少はね? 



「えーっと。それはともかく」


 僕は、取り繕うように目を逸らす。


「ここの掃除に取り掛かるけど、美織さんはこちらを気にせず仕事しててね」


 お姉さんがうなずくのを見て取ってから、清掃作業を再開した。

 まずは四方の壁際に設置されている棚を、ハンディモップなどで手入れせねばならない。

 美織さんの仕事部屋には、大量の漫画本やBD類が置かれているんだよね。それらが並ぶ場所を隅々まで綺麗にするのは、他の部屋より時間や労力が幾分多く必要になる。


 ある程度まとまった範囲の棚から埃を落とす都度、その付近の床に掃除機を掛けていこう。

 かくして、部屋の壁面沿いを反時計回りに移動しつつ、順番に棚と床の清掃を続けていく。


 と、やがて美織さんが仕事している作業机の傍らまで、室内の清掃範囲が及んだ。

 掃除用具を運びながら近付くと、視界へ液晶タブレットの画面が飛び込んでくる。

 僕は、ほとんど無意識に目を剥き、手足がしびれたように立ちすくんでしまった。



 ――これが、美織さんの……いや、「美森はな江」が描くイラストなのか……! 



 液晶画面の中には、三人の可愛らしい女の子がき活きと描かれている。

 皆、純白の羽衣みたいな服装で、金銀の瀟洒な装身具を身に着けていた。

 蒼く豊かな自然に包まれた幻想的な光景で、美少女の一人は小鳥と戯れ、もう一人は泉に素足を浸し、あと一人は草花を愛でている。

 そこにあるのは、透き通るような空気感に満ち、それでいて明るく華やかな世界だ。


 僕は、イラストで描かれている美少女に見覚えがあった。

 たしかソーシャルゲーム『Karma/DemonCall』に登場する女神たちだよね。

 北欧神話を原典とし、時間や運命を司る三姉妹で、希少度レアリティ☆5の強力な人気キャラクター。

 そうか、あれも担当イラストレイターは、美森はな江(美織さん)だったんだなあ。

 この絵はきっと、ゲーム内で補助用アイテムのイメージ画像に使用されるんだろう……。



 ついぼんやり見入っていると、美織さんから声を掛けられた。


「私が今描いてる絵に関わることは、絶対に他所で話したりしちゃ駄目だよ」


 メガネ側面のフレーム下から、ちらりと横目でこちらへ一瞬視線を寄越す。

 そのまま作画の手は止めることなく、釘を刺すような口調で注意してきた。


「仕事で交わした契約で、守秘義務条項違反になっちゃうから。お願いね?」


「う、うん。もちろん、しっかり肝に銘じておくよ」


 何となく神妙な気分になり、ちょっと背筋を伸ばして返事する。

 美織さんは、相変わらず作業を続けながら、愉快そうに笑った。


「あはは、そっか。わかってくれていればよろしい」


 そんなやり取りをしている間にも、画面の中に描かれた世界は輝きを増していく。

 お姉さんの手がペンマウスでひとでするたび、少しずつ新たな色彩を加え、イラストは着実に完成へ近付いているように見えた。


 それはあたかも、無から有を生み出す、特別な魔法を使っているみたいだった。

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